2015-02-15

【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第四章〉 田島健一

【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第四章〉あたえられた自明な世界と、万能ではない眼をもつ私たち

田島健一




04.ひかりと水の感覚(木田智美)

ものを見る、とはどういうことだろう。日ごろ、いろいろなものに囲まれて生きている私たちにとって、そのような「いろいろ」は自明な世界として「見る」よりも前に、見えているし、知っている。けれども一方で、私たちが生きるために必要なあらゆる「感覚」は、私たちの眼が万能ではない、ということに一途に支えられている。

薔薇園にサスペンダーの見つかれり
  木田智美

サスペンダーが見つかったその場所は「薔薇園」だった。この「薔薇園に」は、そのような出来事が起きた場所を示していて、そこが「薔薇園」であることは、ひとつの場面設定としてこの句の世界のなかでもっとも先がけて明らかなことである。だから、この上五が「球場に」でも「空港に」でも「テヘランに」でも、書割の背景を入れ替えるように、この句の意味内容を満たすことができる。この「薔薇園に」はそのような考えられるさまざまな場面設定のひとつとして、作者の選択のもとに提示され、この句を彩る疑いのない前提となっている。

夢に水の感覚のあり夏休み

この「夢に」もまた、句の場面設定として機能しているが、ここでは句の主体が「夢」という空間に位置していることを示している。注目すべきは、この「水の感覚のあり」と共時的に存在する「夢」という空間に主体は位置しつつ、同時にそれは「夢」の外部の意識でその空間を「夢」と断定している。つまり主体はそれが「夢」だと知りつつ、「夢」のなかにいる。

自転車に引っかけ錆びてゆく日傘
雷に沿わせて指先のきれい
三角に折るバスの券夏つばめ
水星に憧れている金魚かな
河馬の背に乗りし河馬の子アマリリス
夏芝に入り演奏の止みしジャズ
夕焼けにぐらついている足元
樹に星の実って夏の終わりかな


これらの句の「~に」は、名詞や動詞の連体形に接続し、それによって世界を対象化する。対象化された「自転車」や「雷」は、その名詞が示すものとしてあからさまに全体像を提示し、その句の前提を司る。あたかも「夢」のなかにいながら、それが「夢」だと知っているように、主体は世界の側面を見つつ、世界の全体像を夢想する。

例えば、街のひとごみのなかで初恋の人のうしろ姿を見かけたとしよう。そのうしろ姿は、そのままひとごみに消えてしまい、それきり見えなくなったとする。
そのとき私は何を見たのか。

私は、私の視線としてそのうしろ姿が初恋の人のものだと認めるけれども、仮にそこにテレビドラマのように、向こう側から私自身を含めたその瞬間をとらえた、もうひとつのカメラがあったとする。そのカメラには私が見たうしろ姿の持ち主が、私の初恋の人とは全く別の誰かであることが映されていたとしたらどうだろうか。そのとき私は何を見たと言えるのだろうか。

私にあたえられた万能ではない眼は、その視野の限界で世界を限られた空間としてとらえていて、それゆえに、そこに見えていない部分を信じ、それに期待し、それを感じる。

私たちはテレビドラマのように自分の眼とは異なるもうひとつのカメラを持っていない。それゆえに、私が見た初恋の人のうしろ姿は、それが初恋の人のものであるものとして、私を信じさせ、私を期待させ、私を喜ばせる。俳句におけることばの使命は、それが見間違いであったことを暴き立てることではなく、その〈幻想〉を維持しつつ、「見る」という行為が、「信じる」ことに支えられているということにつながっている。

俳句は暴力的と言ってもいいほどに、ことごとく世界を名詞化し対象化していくが、その対象のなかに私たちの視野を逃れ、かすかに私たちを信じさせるものたちが含まれている。

その私たちの視野を逃れたものたちが、「ものを見る」という行為とは別のかたちで、私たちの視野を満たし、感性をざわめかせ、万能ではない眼をもった私たちをわくわくさせるのだ。

さて、私たちはその万能ではない眼で世界を見つつ、そこで視野からあふれた世界のある側面と、すでに知っているはずの世界との差異において、いかにして世界をあたらしく知るのだろうか。すでに知っている世界が、俳句を通して改めて知られる、という様相は、どのような性質をもっているというのだろうか。

〈第五章〉へつづく

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