2015-03-15

【週俳・1月2月の俳句を読む】『南紀』を読む 江口ちかる

【週俳・1月2月の俳句を読む】
『南紀』を読む

江口ちかる



和歌山在住の花尻万博さんはこれまでも「南紀」と題して句を発表しておられると聞いた。そのこと自体がまず興味深い。繰り返し同じテーマで書くこと。書きつくせないテーマがあること。贅沢だなと思う。

南紀と聞けば思い浮かぶのは、熊楠さん、水が豊かで、緑濃きところ。それはそこにはいないわたしの南紀だ。そこに根ざすひとにはどのような南紀が見えているのだろうか。

仏手柑に仏手柑触れて娘かな

「触れて」の瞬間の発見。だが「仏手柑」なのである。
いつかみた仏手柑はわすれがたい形状だった。床の間に活けられていた仏手柑は、既知の柑橘類の球体ではなくて、全体的な形は楕円で、先端が指のように分かれていた。異形の、あまたの指である。「仏手柑」の名の由来は仏の合掌のかたちだそうだが、表面は毛穴が目立ち、でこぼこしている。その仏手柑に娘の手指が触れる。もみじのようでもなく、白魚のようでもなく、仏手柑のような、娘の手指。すこやかで気取りのない手なのだろう。
だがやはりふしぎな印象が残る。メデューサと目があったひとが石に変わってしまうように、仏手柑に触れたところから娘の手が仏手柑に変わるさまが横切って、ひやりにやりとしてしまう。

海苔拾ふ光にはつか禁霊区

岩海苔摘みの景なのだろうか。拾いあげた海苔に、指に、腰をのばした視線のさきに光があり、禁霊区がちらりと姿をかいまみせるという。拾いあげた、まだかたちをとらない海苔に、光にあぶり出された神秘の地図がかかれているのか。
「禁霊区」という言葉の、句のなかでの意味が捉え難かった。
霊とは万物に宿る精気、はかりしれない不思議もの。それを禁じた空間が意識されるという。この句には、仮に「自由霊区」のような意味のほうがなじむように思われるのだが。「禁霊区」がある。転じて、ひかりふるところ、霊が存在しているということか。
いやいや、ここでは「禁霊区」という音が第一なのだろう。
「禁漁区」の「キンリョウク」の音から、「禁霊区」を取り出した作者の「得たり」の感触を想像してもみるのである。こういう作り方もされるのだと親しみを感じた句。

現世の玩具の二三狐と言ふ

一読したときは「玩具の二三」イコール「狐」と思った。狐という玩具があるのだよ、と。狐を玩具とする。愛玩し、ときに愛玩は狐にしてみれば被虐かもしれない、そういった毒が「玩具」という言葉を引き出しているのかと。
だがそうであれば「狐といふ」という表記ではないかとふと思った。
「狐と言ふ」と書かれているのであれば「玩具の二三を狐と言いあっている」と読めないだろうか。
狐と現世の玩具を言いあっているのは、現世のすぐ近くだけれど、現世ではない場所。狐と会話するなんてメルヘンチックだけれど、しんと孤独なたたづまいである。

蜜垂れる女の背中県境

垂れた蜜は三県境のことだろうか。奈良と三重と和歌山の三県の境に囲まれた和歌山県の飛び地。
では女の背中は、紀伊半島の南、和歌山と三重にわたる、まさに南紀をさしていることになり、おもしろいなぁと思う。
「蜜垂れる」は湿潤な空気だろうか。いのちをもたない県境がにわかに体温を感じさせる。県境に括られた土地の官能がある。海側でない県境のラインは脊椎の凸凹にみえてくる。
背中と半島。サイズが違うものに喩えているのがおもしろい。
わーーと蘇ったのは泉鏡花の『黒髪』である。夜の町をわたってくる声、哄笑。辻を過ぎる黒髪の大きな女。そして大火が起こる。新聞を広げると、町は主人公が目撃した女のかたちに燃えていた、という、怖い話。

寒禽の餌食例へは寂しかな

「寒禽の餌食」に例えられたものは何か、それはわからないけれど、花尻さんは例え、比喩に感覚のするどい方だと思う。
たとえば

乱数も焚火の一つ枯木灘

「焚火も乱数のひとつ」とすれば類想があるかもしれないが、位置をいれかえた「乱数も焚火のひとつ」は非凡である。乱数を焚火に喩える、非凡。
日常の会話では、比喩はイメージの受け渡しのためのツールである。効果的にイメージを伝えるもの。ひとは相手にも共有するイメージがあるという前提で比喩をつかう。だが実際は「野菊のような」ひとだと聞けば、ひとそれぞれの野菊があるきだす。比喩は誤解のうえにふわふわした共感を生む。野菊はまだイメージの幅がせまいだろうけれども。
つめたい冬の空気を切って飛翔する寒禽。「寒禽の餌食」という比喩は常套にかたむく。「えばみ」という音ではやわらかだが、「えじき」の字面は、ありふれたイメージを呼び起こす。だから「寂し」なのだろう。「仏手柑」も「県境」も、また「弛む磁場」の擬人法も、花尻さんの比喩は共有のイメージのうえに立つものではなく、むしろそれを避け、かといって意外性を第一にするものでもなく、典雅であるなぁ、と思うのである。

静けさに挿話集まる室の花

挿話とはエピソードだけれど、「挿」の字が室の花の挿された様子を連想させて、花がひとの話に耳を傾け、話が花になって活けられているさまが浮かぶ。これもまた変形の擬人法だろうか。

葉牡丹に収まる子ども略記号

この句が一番の謎であった。葉牡丹と子どもは近いなと思いはする。小学校1年生が朝礼台前に並んだところを俯瞰したら、葉牡丹の列みたいにみえると思う。「収まる」ってなんだろう。親指姫がチューリップのなかにすわっていたように、ちよみが恋人の南くんのポケットで暮らしたように、葉牡丹のなかに子どもが?大きさが逆転しているのがおもしろい。
でも「隠れる」ではなくて「収まる」だと他者のちからがはたらいているようで、こわい句かなと思ってもみたり。
そして「略記号」が最大の謎である。
ひょっとすると世界のどこかに「葉牡丹に収まる子ども」という未知の略記号が存在するのかもしれない。

鼬得て温もりゆけり鼬罠

句の主人公は「鼬罠」。着眼がおもしろく、また、読んでほっこりしたことであった。


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3 コメント:

大江進 さんのコメント...

「鼬縄」ではなく「鼬罠」ですね。罠だとすれば捕殺するためのものでしょうから、ほっこりはしないと思いますが。花尻さんは風刺的に詠んでるのかな?

週刊俳句 さんのコメント...

ありがとうございます。訂正しました。

江口ちかる さんのコメント...

失礼しました。
大江様 ご指摘ありがとうございました。再考します。 江口。