2015-03-08

俳句の自然 子規への遡行40 橋本直

俳句の自然 子規への遡行40

橋本 直
初出『若竹』2014年5月号 (一部改変がある)

(承前)さらに各句集の序文を引用する。
③の二つ目「(前略)俳書堂主人江戸庵、幼より親交ある癖三酔の俳句・・・自明治三十三年至明治三十九年・・・を手記し、圖らず一巻を成せるを癖三酔に示す。癖三酔曰く、是れ余が俳句の死骸なり、葬儀は君の自由に任ずと。依て江戸庵今回のアラレ臨時號に編入せんと欲し、余に序を需む。余江戸庵の友情を多とし、匇々筆を巻首に走らし、併せて句死骸(クナキガラ)の名を附す。右の如く癖三酔句集は句死骸として「アラレ」の臨時號に編入さるべき計畫もあつたが、今回獨立の句集として出版される事となつたのは、僕の一層満足とする所である。元来句集の出版といふ事に就ては、われ〱同人は頗る愼重の態度を執つて居る。で、たまく一人の句集が出版されると、之に對する批評が諸方に起る。」(中野三允「癖三酔句集序」)

④「俳書堂主人より、今度俳書堂から「俳書堂文庫」といふ手習草紙程度の叢書を出す。(中略)自重して書かぬ人々の為めに思ひ切つて筆を取らす端緒を開かん所存、余にも其二冊目に何をか差出すべしとの事也。乃ち此原稿を差出す。此原稿は三四年前今村一聲翁初めて拙宅に見えし時お土産代りに御持参ありしもの也。余は謹で頂戴し、實はろくに開けても見ずに筺底に納め置きたるところ、昨年に至り一聲翁は出版し度い考へで輯められたるものなる事、又恰も余が此稿本を差押へたる形となりし為め翁は再び拙句輯集に勉め居らるゝ由を聞き有難いやうな迷惑なやうな心持ち致したるが、其儘にて一年を経過したる此頃、偶筐底より此稿本を見出し、手習草紙程度の叢書の標本としてならば此書出版も差支へ無かるべし、折角の翁の志を無にせぬ為め又新たらしく筆を取らねばならぬ面倒を避くる為め、先づ此稿本でも差出すべしと決心して、此事を翁に話し、俳書堂主人に附す。」
(高浜虚子「虚子先生序」)

⑤「癖三酔句集をアラレ叢書の第一集とし蝶衣句集を第二集とすることゝした(中略)若し世間で所謂些細な?事柄に誤解するものがあるとすれば僕は飽まで其誤解を釈てやるまでのことである(中略)但し虚子の此序(引用者注、癖三酔句集の序文のこと)があつたゝめに癖三酔句集に対して世間が誤解しなかつたとすれば虚子の此序は無益でないのである。碧梧桐は靑々の妻木を評してよし靑々の妻木が今日古今を通じて佳句に富む好句集であるとしても尚ほ春秋に富む靑々が数十年の研鑽を積んで後に作つた句集は更に美にして善なるものであつたらう惜むらくは靑々は其の句集を編む時殆ど自己を忘却してをつた(中略)碧梧桐は句集といふ者は生涯に一度しか出せぬ者と思つて居るのであらうか(中略)僕は妻木があるので靑々を研究するに非常の便宜を得て居る、同じく癖三酔句集があるので癖三酔を研究するのに非常の便宜を得て居る、蝶衣を研究するにも蝶衣句集が出れば非常なる便宜があるといふ訳である、靑々、癖三酔、蝶衣の名が永く俳壇に伝わるものであるとしたならば妻木、癖三酔句集蝶衣句集は珍重すべき明治俳壇の刊行物である」(中野三允「蝶衣句集序」)
※以上、傍線はすべて引用者。

これら引用した序文に共通するのは、出すことの勿体がつけてあるということであり、それはすなわち、個人句集を出したことからおこるであろう世間からの批判をいかにかわすか、ということであろう。

子規は「句集を出す事は一生おやめにした」などと、自分の個人句集の序文で個人句集など出すものではないと思っていたことなどを滔々と述べ、靑々も同様に句集などは出すものではないが「唯我句を一冊に集めて我見たき計り」で出すのだという言い訳をしている。癖三酔の句集の序文は虚子と三允が書いているが、虚子は子規や靑々と同様に個人句集は出すものではないと述べた上に、「獺祭書屋俳句帖抄も、子規の病が餘程重くなつて後に病床の慰籍として作つたといふ位に過ぎぬ、其後靑々が、妻木を出した時にも兎角の世評があつた様な次第」と、先行する二句集を否定的な例に挙げ、さらに「單に俳句会の習慣から見て癖三酔句集を出すといふことは鳥渡目立つた事柄である。(中略)世間から誤解を招くやうな事があつては、癖三酔の為に不利益なことゝ考へたから、余は無遠慮ながらも癖三酔に手紙をやつて句集出版だけは暫く見合したらどふかと云つてやつた」と、若い俳人の行く末を心配してやめた方がいいと言う。同じ癖三酔句集の序文を書いた中野三允も、句集を出すときの世評の喧しさを言う。

癖三酔自身は、所収句を「余が俳句の死骸なり、葬儀は君の自由に任ず」と言い、自身の句を世に問いたくて自分で纏めているという体をとらず、己の作品を「死骸」として殺す形で句集を出すことで世の批判にワンクッション入れている。そして、虚子自身も個人句集を出す当事者になったとき、たまたま未知の人が集めていたものがあって「謹で頂戴し、實はろくに開けても見ず」「有難いやうな迷惑なやうな心持ち」だったものを出版社の依頼で出すのだという、極めて消極的で受け身な態度で出版するかのように述べるのである。

これだけ列挙すれば明らかな通り、当時、生者が積極的に己の句作の文学的価値を世に問うことはあってはならない、というのが、俳句界の強い風潮であったと言えよう。そして、それに対して最も挑戦的であったのは、虚子でも碧梧桐でもなく、今や忘れられた俳人と言ってもいい中野三允だったかもしれない。彼や癖三酔、蝶衣についてさらに見てゆきたい。

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