2015-03-22

【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第六章〉 田島健一

【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第六章〉信じなければ出会うべき偶然に出会えない


田島健一




06.大人びる(高瀬早紀)
  

具体的に書く、ということはどういうことだろうか。

かつて秋元不死男は「俳句もの説」を唱え、一般的に俳句は「もの」を書くもの、と考えられている。しかし、ここで言うところの「もの」とはいったい何だろう。

たんぽぽの群れたる男子校の裏
  高瀬早紀
草笛を吹き唇の重さかな
遊覧船の片側に人秋の風


仮に「もの」が名詞化されたものだと考えるならば、言うまでもなく「たんぽぽ」「男子校」「草笛」「唇」「遊覧船」は「もの」だと言えるかも知れない。

では「群れ」「裏」「重さ」「片側」は「もの」だと言えるだろうか。仮に「もの」が何か物質的なものだと考えるとすれば「酸素」や「宇宙」や「愛」や「正義」はどうだろうか。

書かれた俳句が、複数の読み手の一人ひとりに対してありありとその姿を現すとき、そこに書かれた「もの」は、その読み手の数だけ何度も繰り返しながら、しかしそれらは「同じもの」として、読み手の内に共有される。ある人にとってのたんぽぽが、他のある人にとってチューリップであったら、それはそれはややこしい。

方程式解なしわかめ噛み続け

しかし一方で、同じたんぽぽであるということは、あくまでも意味の世界での出来事であって、当然ながらそれを読んだ複数の読み手のそれぞれに、各々のたんぽぽが現前するに違いない。

その複数のたんぽぽは、それぞれの読み手の時空のなかで少しずつ異なる様相をもち、それゆえに読み手の立ち位置によって見え方を変える。言わば、そこでのたんぽぽはある一つの読み手の眼から見て誰にも侵されることのない唯一無二の「もの」である。

けれどもこの時点で「もの」はすでに「もの」ではない。それは異なる時空でその都度「違ったもの」として現れる、もはや「同じもの」として「繰り返す」ことのない、時間性を帯びた出来事である。

人間が時間的な生き物であることは言うまでもないが、それゆえにあらゆるものに時間がながれていて、そこで「同じもの」として留まるものは何一つ無い。

それでも確かに私たちのなかには「同じもの」が湧き出るように繰り返していて、それを常に「同じもの」として詳らかにすることはひとつが不可能性を帯びつつも、奪うことのできない私たちの幻想そのものである。

山本健吉が「挨拶と滑稽」のなかで「時間性の抹殺」として語ったのはこれだ。

俳句は時間の法則に反抗し、様式の時間性をみずから拒否する。言わば時間を質量感の中に圧縮してしまう。(「俳句とは何か」山本健吉 角川ソフィア文庫)

花ぐもり鯉やはらかく衝突す
春どなり汽笛の真似をする二人

さて、では最初の問いに戻る。俳句を「具体的に書く」とは、どういうことなのか。

それはやはり秋元不死男や山本健吉が言ったように「もの」を詠むことなのである。しかし、すでに述べたとおり「もの」とは名詞化された単語や物質的なものと一致しない。

それはひとつの幻想として私たちのなかに留まる時間のかたまりのようなものである。それは一つひとつのことばとしてそこに固定化されるものではなく、それを支える別のことばとの関係性のなかで明滅する。

ことばとことばが関わりあうなかで次第に時間性が剥がされ、むきだしの偶然としてかけがえのない瞬間を描き出すのである。

さて、それでも俳句という形式は時間のなかで書かれ、時間のなかで読まれるに違いない。そこで俳句はいつから意味を成し、いかにして価値を生成するというのだろうか。

〈第七章〉へつづく

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