2015-03-08

【八田木枯の一句】ひるひなか小笹ゆれあふひひなの日 太田うさぎ

【八田木枯の一句】
ひるひなか小笹ゆれあふひひなの日

太田うさぎ


あたりまえな眺め、何気ない行為が言葉によって切り取られたときに思いも寄らぬ姿を現す。

俳句と付き合って以来そのことに毎度驚くのである。

たとえばこの句。

ひるひなか小笹ゆれあふひひなの日 八田木枯(『於母影帖』1995年)

どこぞの庭先か、道のべか。あるなしの風に笹の葉が揺れ動いた、たったそれだけのことだ。ゆれあふ、だから一斉にぞめくようにではなく、一枚が揺れると別の一枚が揺らめき返す、そんなささやかな景色。雛祭の日という時候的背景がその現象を淡い輪郭で包んでいる、とは言えよう。

しかし、「ひるひなか」。これはどうなんだ、という話である。

春浅い日の光のなかで笹の揺れあうさまが作者の機微に触れた。それを言い表すときに昼を形容するなら、まひるまの、白昼の、昼過ぎの、昼下がり、昼深く、昼ながら・・・候補の長い列が出来る。そして選ばれたのは「ひるひなか」だった。この言葉の持つ「こともあろうに」な語感がたかが小笹の揺れあいをただならぬものにしてしまう。

「ただならぬ」だなんてまた大袈裟な。

一句として取り上げれば確かにそうかもしれない。けれども、この句の収められている『於母影帖』という句集の文脈のなかで眺めるとどうだろう。

ご存じの方も多いだろうが『於母影帖』はその名の通り母恋をテーマとしていて、母への慕情がときに性愛幻想にまで高じた作品も並び、読む者をたじろがせずにはいられない。
句集の中ほどには「母ほどく春は小笹のゆるる中」という句がある。そこから二十数ページ先で掲句に立ち会うとき読者は「母ほどく」の句との関連性をどうしても考える。そうして、うしろめたいことをしているかのような「ひるひなか」が選ばれた必然性に気づいたりするのである。わずかな風に傾き傾かれる笹の葉は秘めやかな一瞬の相聞のようでせつなく美しい。

この『於母影帖』を光源氏の枕元にそっと置いてみたい。そんな妄想が頭を過る。耽読すると思うんだけどなあ。源氏物語も違った展開になったかも、なんて。






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