2015-04-12

名句に学び無し、 なんだこりゃこそ学びの宝庫(2) 今井聖

名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫(2)

今井 聖

 「街」96号より転載

林檎一顆撫でて孫曰ふ「はいつてる」 
中村草田男『大虚鳥』(2003)

なんだこりゃ。

リンゴイッカナデテマゴイウハイッテル

曰ふと書いて「いう」と読ませる。孫曰(いわ)くということ。

二〇〇三年刊の『大虚鳥(おほをそどり)』は、中村草田男の九番目の句集に当る。因みに大虚鳥とは鴉のことである。

生前最後の句集『時機』は八番目の句集で、昭和三十七年までの作品を収録。それ以降、没年の五十八年までの作品は、草田男全集には収録されていたが、全体の五千余句の中から、その時期の七百六十五句を精選して一巻に纏めたのがこの句集である。

孫が林檎を撫でて「はいってる」と言ったという句である。幼児の言葉には時折はっとさせられることがある。草田男は孫が林檎を撫でて「はいってる」と言ったときはっとしたのである。

草田男は幼児を無垢な魂の塊りとして捉えている。無垢というのは世俗的な何ものも先入観として持っていないということ。生まれたての、原初の、本能だけの塊り。草田男はそこに聖性をみる。

孫という自分の血をひく存在の可愛らしさというのではない。人智が付加していく以前の無垢に対する畏れと言っていい。

草田男は旧制高校生のとき神経症に苦しむ期間が長くつづいた。その頃或る旅行の途中で天からの「啓示」を享ける。瞬間にして「永劫」を見てしまう体験である。

「天地の幔幕ただ両断さるる、ある異常な心理的体験に遭遇した。このことは爾後の我が内的外的生活を規定せずには置かなかった。(中略)幔幕両断の比喩は直接には『死の恐怖』というかたちでやってきた。」と草田男は記す。

啓示を享けた草田男は同様の「啓示体験」を持つニーチェに傾倒。その著書「ツァラツストラかく語りき」が生涯の指針となる。俳句もまたツァラツストラの物語に沿っているかのごときである。

ツァラツストラは反聖書の目的をあらわすために彷徨し啓蒙を与えるキリストを戯画化した超人。ニーチェは人間の本来の「生」を生きるべき在り方が「神」という概念(存在)によって歪められてしまったと説く。

人間のほんとうの「生」は、神はいないというところから出発しなければならないということ。「神は死んだ」というのがニーチェ哲学の根本理念にある。「永劫回帰」というのもニーチェの思想。すべてのことがらはすでに経験されたことであり、人間は永遠に同じことを繰返すという絶望の認識。

ニーチェはそれを言うことで「神」に捉われることからの脱出を説き、絶望を認識してそこからのほんとうの人間の始まりを説いた。それが超人思想である。

ニーチェの思想は難解をもって知られているので僕もその理解度にはまったく自信はないが、草田男の句を読んでいるとニーチェの語の片々と実に重なる。

ふるさとの春暁にある厠かな
母が家近く便意もうれし花茶垣

故郷の外厠に思う自分の原点。母を思った途端に便意を兆す「子」と「母性」の関り。

あかんぼの舌の強さや飛び飛ぶ雪
萬緑の中や吾子の歯生え初むる
の赤子に寄せる「無垢」への希求。
空は太初の青さ妻より林檎うく
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る

の妻恋や性愛の聖性。

いずれも排泄や性愛を俗な笑いとして捉えてきた「俳諧」とは一線を画す。清冽な「生」の営みとしてみる思想が込められている。

その認識は晩年の『大虚鳥』まで一貫していて

妻の裸身(はだかみ)白脊(しらせ)掻きやる赤らみぬ
時を違へてみな逝きましぬ今日は雪
熟睡(うまい)赤児のそこここ微動百千鳥
桃の実の上に母乳のしぶきたる
拭きにこよと厠に呼ぶ嬰天に燕

等、まったくその姿勢がブレることがない。

妻の裸身に軽く爪を立てて掻いてやる。その肌に爪の痕が赤く残る。生きている自分の爪が立てた生きている妻の肌への愛の刻印。

「生」ということの真髄。生きている全員は必ず死者となる全員である。無数の舞い降りて地に消えていく雪をその象徴として捉えている。

寝ている赤子の肉体がそこらじゅうぷるぷるしている。無垢な生というもの。
果実の上に飛び散る母乳。聖なる命の水。

爺、拭きに来てと幼子が厠から呼んでいる。排泄に対する恥の意識は後天的に獲得されたものである。人間の聖性の原点がここにある。

冒頭の句。

林檎を撫でて、「はいってる」という幼子。幼子は林檎の中に「存在」を見ているのだ。その言葉には機能や用途や目的によって「もの」の名前が名付けられる以前の奇蹟のような出会いがあると草田男は感じているのだ。

なんだこりゃ句こそ学びの宝庫。

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