2015-04-12

常ならず過剰(あまりのこと)へとブーストされる地上の事物 竹岡一郎『ふるさとのはつこひ』の一句 西原天気

常ならぬ過剰(あまりのこと)へとブーストされる地上の事物
竹岡一郎ふるさとのはつこひ』の一句

西原天気




竹岡一郎『ふるさとのはつこひ』(2015年3月/ふらんす堂)は鮮烈でユニークな装画・装幀・造本で、書物との出会いを感じさせてくれる句集。

さて、

鋼鉄の蛹を割つて超てふてふ  竹岡一郎

アイアン・バタフライというロックバンドがいたことを急に思い出したが(忘れ去っていたサイケデリック系)、それはとりあえず無関係。

蛹は、幼虫(アオムシ)、成虫(チョウ)と比べて硬い感じがする。といってもそれほど硬いわけではないだろう。少し硬い。その「少し」の差異が増幅(アンプリファイ)されて(今どきの用語だとブースト?)、「鋼鉄」の語が与えられる。

鋼鉄を割って羽化するくらいの蝶だから、並みの蝶ではない。スーパー・バタフライ。「超てふてふ」というわけです。

《鋼鉄を割る→超》という理路、というか展開は、ある意味、稚気に属するものかもしれない。だが、この稚気は句にとって、広く俳句にとって、けっして負の価値ではない。楽しいじゃないですか。文句なしに。鋼鉄にまで質感を高められた(ブースト)蛹、あのちょっと装甲車を思わせるようなメカニックな形象を突き破る《超=スーパー、シュール》な蝶。

ちなみに「超」の振り仮名は「てう」。てうてふてふ。

かうてつのさなぎをわつててうてふてふ

この句集には、この句にかぎらず、作者がブースター、アンプリファイアーとなって、事物・事象を詩的にか俳句的にか、誇張する展開が多い。シンプルにいえば大袈裟な意匠へと一句が設えられている。

掲句のすぐ後には、

厠にてがなるドナドナ窓など無い
  同

蟹共喰パイプオルガン誤爆され  同

と続く。

「ドナドナ」は屠られにいく子牛を歌った哀歌。それを厠でがなる。

蟹のカニバリズム(共食い)は実際にあるそうだ。そこに壮大なパイプオルガン。しかも誤爆。

分厚い絵の具を塗り重ねるように、モチーフ(ネタ)やイメージがひつこくたたみかかられる。

日常の感覚からちょっと飛躍し、イメージが変容するという意味でサイケデリックと言えないこともない(アイアン・バタフライを思い出した理由がいまわかった)。

こうした書法上の作為は、あきらかに「攻め」の姿勢だ。

そして、総じて、気取ったところがない(いい意味の稚気と勢いで押し切ろうとする)。

それらはすべて美点。

作者がやりすぎてくれているので(バロックである!)、こちらはその興奮に付き合ってページをめくればよい。

おほいなる精子地底湖へ着床  同

スケールの変換。大袈裟で、笑える。どんだけ大きい精子やねん!と反応しつつ、笑顔で読み進める。

乳に蛸載せて行き交ふ女たち  同

おっぱい句は数あれど、かなり強烈な部類。

載るのか? 吸い付かせてるのではないか? デカいと載るんじゃないの? (このあたりはどうでもよかった)

おまけに、ひとりではない。女たちがすべて乳に蛸を載せ、行き交う。

強烈な「絵」に笑う。

cf≫画像)。


つまり、「あまりのこと」に笑ってしまうのだ。『ふるさとのはつこひ』という句集は、そんな瞬間がたびたび訪れる。読者にとって快感、と言って差し支えない。

「バロック」という語を用いたが、この句集の「過剰」は、装飾の過剰でなく、対象の取り込み方(インプット)、句としての展開(アウトプット)そのものが過剰。

繰り返しになるが、作者がブースターとして機能し、既存の地球上の事物が「なんだこれ?」的に高められる。ただ、その「高まり」は、伝統的な高低・価値のヒエラルキーとはちょっと違う。ヘンに高まるのだ。



一方で、つまらない(と私が思う)部分も多かった。例えば頻出する「少年」「少女」。

ひとつには、語の趣味・嗜好の問題もある。「少年」「少女」という甘美でこっ恥ずかしい語に抵抗のない人もいる。抵抗なく、臆面もなく、句に使う俳人もいる。けれども私もどうもダメ。ただ、これは初めに言ったように趣味・嗜好の問題。

またひとつには、「少年」「少女」という概念語・観念語では、その姿が見えてこないことがある。

仄聞するに、宮﨑駿はアニメ制作に際して「クルマの絵など存在しない。ミニの絵、ブルーバード1961年型の絵がそれぞれ存在するのだ」と言ったという。「少年」「少女」と範疇語もそれに近いかもしれない。顔やからだや挙措が見えてこない。

細部や個性を説明する字数の問題ではない。ある種の句においては、「ひと」という2文字だけでもリアルな人物像が見えてくる。「少年」「少女」には、そうした事態が起こりにくい。この句集の場合も、その例に漏れない。

おそらく文芸においては「少年」「少女」というだけで、ある種の感傷や興趣を引き起こしてしまう(と信じられている)がゆえに、言いっぱなしになるからだろう。概念・観念にとどまってしまう。

さらには、その、語の持つ喚起力から、やすやすとドラマが成立する(よう気がしてしまう)。ドラマを背負ってしまう。

ところで、俳句におけるドラマ性についても、趣味・趣向、好悪が分かれる。句がドラマを感じさせるという場合、ドラマを抱え持つという意味のようだが、そこに俳句の旨味はない、というのが私個人のスタンス。

ドラマを背負う句は、鈍重で、遅い。

句とは、そうではなく、句そのものにおいて「ことばのドラマ」が起こるときが快感。

ドラマは「事件」と言い換えてもいいだろう。この一文の前半で挙げた句には、こうした「ことばのドラマ」「ことばの事件」があった。それは、句がドラマを背負うこと、ドラマを感じさせることとは大きく異なる。

ただ、ここまで「少年」「少女」が頻出するのだ。作者なりの意図や作戦があるのだろう。私は、そこを理解できず、感応することもできなかったというだけの話。


(付言すれば、俳句におけるドラマ性については、大きく俳人たちを分かつ要素とも考えられる。「ドラマを感じさせるから、いい句だ」と「ドラマを背負っちゃってるよね」の間に横たわる溝、スタンスや見識の相違はぞんがい大きい。)




2 コメント:

竹岡一郎 さんのコメント...

拙句集ご高覧頂き、誠に有難うございます。
超てふてふをスーパー・バタフライと読んで頂いて、ああ、良かったです。何の事?と問われたことがあったので。
「精子」の句と「乳に蛸」の句は、どうしようと思ったのですが、大先輩の奥坂まやさんが、句集に絶対入れろと強硬に主張し、まやさんがそこまで言うならと入れてしまいました。天気さんに斯くも丁寧に鑑賞して頂いて、以て瞑すべしです。
ドラマ性の問題は、確かに意見が分かれるところですね。俳人によって、真反対に分かれるようです。私は、鷹の創始者・藤田湘子が兄弟子の波郷を尊敬していた影響で、波郷が好きですので、ドラマ性に惹かれます。ティラミスが好きか、杏仁豆腐が好きかみたいなものかもしれません。
藤田湘子はまた、少年少女の句が大好きでしたが、私が句集に頻出させたのは、また別の意図であります。しかし、そういえば、子供の頃、アナトール・フランスの「少年少女」が好きで、繰り返し読みました。
関係ありませんが、「蛆」という季語が割と好きで、草田男の「獣屍の蛆如何に如何にと口を挙ぐ」に出会ったのがきっかけでした。あの句は「蛆」の最高傑作だと思っています。疲れたときに良く思い出しては、心慰められます。あの位の句が作りたいものですが、なかなかできません。
思い返せば、3年前、天気さんに週刊俳句に10句出して頂戴と言われて、それが「比良坂變」へと変化したのでありました。天気さんから御依頼なければ、この句集は三分の一が無かったわけで、誠に感謝します。縁とは不思議なものであります。

西原天気 さんのコメント...

恐れ入ります。

この句集にとって私はは果たして良い読み手であるのかどうか、心許ないところもあるのですが、楽しんで書かせていただきました。

週刊俳句に最初にご寄稿いただいたのは、この号でしょうか。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/02/302-201323.html
これよりも前かもしれません。
ともかくご縁に感謝です。