2015-04-05

〔ハイクふぃくしょん〕毛 中嶋憲武

〔ハイクふぃくしょん〕


中嶋憲武


『炎環』2014年9月号より転載

姉ちゃんは待っていた。僕と母は顔を見合せて頷き合った。夕べ姉ちゃんが唐突に、入学のお祝いは何がいいかと聞いてきたので、僕は無理すんなよと答えたけれど、ちょっと考えて動物園がいいと言った。姉ちゃんは笑うかと思ったけど、真面目な顔つきになって、いいねと親指を立てたのだ。

芝田学園の入学式のあと、僕は慣れない詰襟(首を回すと、詰襟のカラーが痛かった)のまま、母はシマダジュンコのクリーム色のワンピースの胸元に水色のコサージュを付けたまま、アブアブの前で待っている姉ちゃんへ近づいた。姉ちゃんも午前中、部活があると言って家を出たので、紺色の制服姿だった。僕と母に気づくと、ニッと笑った。

入学式の時からずっと、くすぐったいような気恥かしいような心持ちが続いている。それはきっとささやかな幸福感だ。朝、ハッと目が覚めて、いつもの起床時刻をとうに過ぎているのに慌てて、どうしようと思うが、ああそうだったと思い直し、今日は休みだったんだと再びゆっくりと眠りに落ちて行く時の、あの幸福感。いや、違うな。とにかく桜は満開だし、僕は芝田学園中等部に入学したって事なんだ。

あんたは今ちょうど、あの猿だね。姉ちゃんが指差す方を見ると、猿山の裾でしきりに林檎を矯めつ眇めつしている猿があった。人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとしだよ。姉ちゃんの分かったような物言い。中学合格くらいで調子に乗るなって事だろう。

でもね、よかったわよ。受かって。しみじみと母が言う。受かるなんて、これっぽっちも思ってなかったから、合格の報せを聞いたら栃麺棒を振っちゃったわよ。母は母で嬉しかったのだなと思う。

あの猿はうちのお父さんだ。山の頂きに近い所で大きな猿の背の毛を探っては、その手を口に運んでいる実直そうな猿を指差し、姉ちゃんが言った。どこがお父さんなんだよ。僕が問うと、あの神経質そうな手つきと額の辺りが。そう言って姉ちゃんは、小鼻を人差し指で擦った。父がよくやっていた癖だ。僕も真似て、人差し指を小鼻へ持って行くと、袖口に代赭色の細く長い毛が一本、纏わり付いていた。ネリの毛だ。ネリとは二月の寒い晩に老衰で亡くなった牝のシェットランド・シープドッグの名だ。どうしてこんな所に付いていたのだろう。その一本の毛を見ていると、ネリの濡れたような真っ黒な瞳が思い出された。僕はそっと毛を手に取り、頬へ当ててみた。そうする事でネリに触れている感覚が蘇るような気がしたのだ。夜遅くに塾から帰って、寝静まった玄関の戸を開くと必ず迎えに出て来てくれた。僕はそんなネリに声も掛けず、眠いので自分の部屋へ入って寝た。そんな事も思い出された。

姉ちゃんと母にネリの毛を見せた。ネリも入学をお祝いしてくれてるんでしょ。母の言葉に俄に首肯する事は出来なかった。その毛を指から離すと、風で飛んで行ってしまった。

花冷えや猿は一生蚤を取る  竹内美穂

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