2015-05-17

BLな俳句 第7回 関悦史

BLな俳句 第7回

関悦史


『ふらんす堂通信』第142号より転載

少年に城傾きぬ鉄線花   川口真理『双眸』

「傾城」といえば絶世の美女をあらわす言葉だが、この句の場合、そうしたイメージを少年にまとわせながら、視覚的にも城が傾いているところを思わせる。魚眼レンズか何かで撮られた、歪曲され、閉ざされた画面のなかで上端が接近し合う城と少年といった構図である。

しかし「少年」と「城」とが緊密に関係し合っていることは確かであるにせよ、これらがことさら耽美性によって閉ざされた狭い異空間をかたちづくっているとは限らない。

「少年」の細さ、硬質さ、鮮やかと呼応するごとく絡み入ってくる蔓植物「鉄線花」の曲線は、この構図を現実と地続きの場とも、あるいは美意識によって閉ざされた異空間ともつかないものへと変えてゆき、場に奇妙に有機的で緊密な秩序を与える。それはあたかも写実的に描かれた人物の比率の狂いが幻想性を呼び起こすパルミジャニーノあたりのマニエリスム絵画のような、歪みをおびて、しかも端正な秩序である。

もっと単純に、かつて稚児に血道を上げた挙句に身を滅ぼした城主がいたといった説話に上五中七を還元してしまうことも可能ではあるのだが、それではこの句の、「少年」に対して「城」が「鉄線花」を介して「傾」くという、生物・無生物の境を野放図に無化してゆく感応と、その先にある官能を取り逃すことになりかねない。

具体的な物しか登場しないにもかかわらず、それらが具体性を超えた非実体的なところでかかわりあう、その静かで、ダイナミックで、清冽な妖気を汲むべきだろう。


少年の裾のきしみや浮寝鳥   川口真理『双眸』

こちらの少年も一見どうということもないようでいて、やはり微妙に妖しい。「少年」が「浮寝鳥」に変容する途中、あるいは「少年」が「浮寝鳥」の化身ででもあるかのような感触が句のどこかにあるのだ。

それが「少年の裾のきしみ」という省略された表現によるものであることは見やすい。俳句に省略が多いのは当たり前なのだが、この和服からも洋服からもずれた「少年の裾」とは一体何なのだろうという違和感が嵌め込まれているのである。そしてその違和感をおびた「少年(自身)の裾」はただちに「きし」み、ごくかすかな痛みをともないつつ「浮寝鳥」へと至る。この一連の動きが、変身する身体の眩暈を感じさせるのだ。

これを省略を利用した単なる手品のようなものと解してはならない。この言葉はこびの裏にあるのは機知などではなく、「少年」や「浮寝鳥」を、その外にいながら、同時に内在的にくぐりぬけ得る、水のような主体であることは明らかだからだ。

季語の「浮寝鳥」は、毎年日本に渡ってきて冬を越す水鳥の総称で、鴨・雁・鳰・鴛鴦・白鳥などが含まれる。白鳥あたりがもっとも美少年という印象になるかもしれないが、仮に句中の言葉を「白鳥」に置き換えてしまった場合の、身体感覚の裏付けを失った書割めいた貧弱さを思えば、種類を特定しないという季語の選択は適切この上ないといえるだろう。

切れ字の「や」をもっと現実に即した強い意味に取る、すなわち「少年の裾がきしんだ/それに近くの浮寝鳥が気づいて目を開けた」といった解釈をくだすこともできるのだが、この句の妙味はそうした素朴なリアリズムの文脈を手放さないまま、「少年」イコール「浮寝鳥」という異類婚姻譚をも連想させるような非現実の文脈を忍び入らせたところにある。この少年が世の常のものにとどまらない、化生のものじみた美しさをまとうのは、そうした文脈があればこそなのだ。

ちなみに作者、川口真理は田中裕明に師事(田中裕明没後は中嶋鬼谷、大牧広に師事)している。そう聞くと、この奇妙に非実体的なものを含み込んだ清潔な妖気と艶にも得心がいくのではないか。


木の下のあいつ、あいつの汗が好き   坪内稔典『百年の家』

この句については「船団の会」のホームページに坪内稔典による自解がある。

いわく、《少女か娘の気分になって作ったのだが、ちょっと同性愛的な雰囲気もありますね、と評した人がいる。まあ、どのように読んでもらってもよいが、要するに私は汗が好き。》

つまり作者はもともとそのつもりではなかったが、同性愛的な読み方も事後になかば公認されてしまった句ということになる。「少女か娘の気分になって作った」という時点ですでに倒錯的な、あるいは同性愛的な要素が挟まっていると見ることもできるのではあるが。いずれにせよ恋愛感情に限りなく近い好意を寄せられ、見られている「あいつ」は、その呼ばれ方からして男性だろう。

「汗が好き」という判断と自覚に行きつくからには、これまでにも幾度も汗をかいたあいつを見ているのだろうし、晴れた野外でのスポーツ後の休息であるらしいことを思い合わせれば、いや、そんな面倒な読み取り方をせずとも、これが学校内の生徒同士を描いた句であることは誰にも直観される。

そして「あいつ」という呼称は上下関係を伴う部活の先輩後輩などではなく、同格の者にふさわしい。その同格同質ぶりがまた異性よりも同性の印象を補強することにもなるのである。

しかし、たとえ内言であるにせよ、「好き」と何のてらいもなくさわやかに言い放つこの語り手の内面には、それが「同性愛」の一語で呼ばれるにふさわしい感情であるという自覚や、そこから発生するもろもろの煩悶もいまのところ全くない。
この語り手の無邪気なさわやかさが、そこに気づいたときのショックや混乱に転じる可能性を秘めながら、句はあくまでも明るく、翳りがない。


眠る少年たとえば感電死の白鳥   高野ムツオ『陽炎の家』

少年愛、同性愛を詠んだ句はなぜか前衛系の男性俳人に多く、女性俳人にはかえって少ない。そして男性俳人の少年愛句の多くも、ジャンルBLの身も蓋もない「実用性」に比べると良くも悪くも隠喩的・文学主義的な重さに満ちている。一方で女性俳人が詠む少年は、肉体性や実体感が稀薄で、風か植物の化身であるかのような描かれ方をされているものが多い。古典的な少女マンガの絵柄がそもそもそうした肉体忌避の傾向が強く(少女マンガの絵では、尻が尻として描かれることが少なく、男性の下半身などはただの棒のように直線的に描かれる)、俳句もそれと同じ美意識・身体意識の線上で作られているようなのである。

近年は主に東日本大震災に直面した句の数々で知られることとなってしまった高野ムツオも、初期には前衛系の男性俳人らしい少年句を数多く詠んでいた。

掲句は、句集の中では以下のような句とひとまとまりに配列されている。《白雨織りつつ少年の睡る性器》《少年睡りて致死量の水の重み》《眠る少年たとえば感電死の白鳥》《眠る少年たとえば雨期の鎌一丁》《少年眠りて即ち気圏に至るかな》《臓腑まるごと眠り少年は虫の類》《危機もなければ少年逆立つ夏来たり》。この後にもまだまだ続くので、興味のある向きは句集『陽炎の家』か『セレクション俳人10 高野ムツオ集』に当たっていただきたい。

少年の無意識のなかに潜む、鋭敏であるがゆえに危機的なものを喩にしていくことで探った一連だが、こうした作は寓意的に読んでしまうと痩せ細るので(射精後の虚脱を詠んだというだけにもなりかねない)、今読みかえすのであれば、むしろそうしたものから句を解放することを心掛けなければならない。

美しさと衝撃的なむごさ、そして受苦をあらわす「感電死の白鳥」は、「眠る少年」の「たとえ」として提示されてはいるものの、句中の言葉としてはどちらかがどちらかの主であるというより、同等の重みを持ったものとして迫ってくる。「眠る少年」が同時に「感電死の白鳥」でもあるという、次元を隔てたままでのイメージの重層が、人格性を剥ぎ取られ、力のぶつかりあう危機の現場となった少年を詩へと昇華するのである。

語り手自身が通過してきた少年期の危機性を内在的に描いたものと、ひとまずは取れる。少年の「危機」とは、語り手当人のものでもあるのだ。

しかし「眠る少年」はここでは外から眺められており、それが「感電死の白鳥」のようだというのは、語り手から何らかの加虐行為を被った挙句の失神のようにも見れば見えてしまうのである。この句が妙な不穏さをもって迫ってくるのは、そうした加虐・被虐の錯綜に語り手自身、句自身が気づきかけているような趣きがあるからであろう。少年=白鳥を「感電死」させるのは少年自身であり、語り手であり、句である。

そうした錯綜を経てはじめて、《少年抱けば陽を抱く思い逝く夏の》《晩夏少年抱けば甲虫の皮膚感》のような、和解と違和を残したままながらも、より落ちついた抱擁の句があらわれることができたのだろう。「白鳥」は句中ではほとんど自然とも季語とも無縁の、意識の産物に見えている。これら抱擁を描いた二句が、季語を通風孔のようになし得てはじめて寛解にいたったことは示唆的である。


呼んで応へぬ執事さながら秋の雲   筑紫磐井『我が時代』

この句も喩えには違いないが、文学主義・文学趣味をつきぬけた比喩である。「執事」というのが少々現実ばなれしていて、マンガやアニメなど、フィクションでばかり見る職業という印象。「呼んで応へぬ」となればなおさらである(ちなみに、ジャンルBLでも「執事」は一ジャンルを成している人気の職業である)。

「秋の雲」は巻雲、巻積雲(うろこ雲、いわし雲)、高積雲(ひつじ雲、むら雲)などをさす。細かい塊が同じ高さにまとまって空を覆う形状のものが多く、整ってすがすがしいが、夏場の積乱雲(入道雲)などにくらべると、ひとつひとつの個性や表情に乏しく、つかみどころがない。

したがって「呼んで応へぬ執事」という喩えは適切といえばいえるのだが、これは物の様相をうまくいいとめ、そのクオリアを呼び覚ますといった種類のうまさとは関係がないし、まして「秋の雲」の擬人化がアニミズムの発露だというわけでもいささかもない。この句は「秋の雲」という季語を、二次元の作品じみたキャラクターにつなげ、その見え方を変えてしまったところが面白いのである。

呼べば当然応えてほしいところだが、この「執事」は端然と無視するのみ。しかしものが「秋の雲」だけにあまりドロドロした確執にはなりそうにない。そもそも「秋の雲」を相手に呼びかけようという欲望を抱いてしまったのがまずい。応えぬほうが当たり前なのだが、これが全く崩れないつれない相手、あるいは意地の悪い相手への片恋を想像して愉しんでいるようでもあって、BLのジャンル的欲望をもあっさりと包容しつつ受け流し、俳句として成立させてしまっているあたりの人の悪さは、この語り手も「執事」とどっこいどっこいであろう。「執事=秋の雲」は語り手当人の似姿なのでもあり、この両者がもしBL的創作物のキャラクターとなったら、その読者・視聴者は、さりげなく互いの意を察しあいつつ、一向に進展しない両者の仲にやきもきすることになるはずである。

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競パン  関悦史

抱き付きあふ競パンの身を光とす

ハンカチを男子生徒が不意に呉れる

夜の秋子のネクタイは父が解く

朝風呂や青年総身(そうみ)秋光這ひ

秋澄めり青年の尻湯を弾き

月ガ綺麗デスネと碧眼の男が

美青年ゆゑ秋冷を首輪ひとつ

下級生に肩貸されきて布団の上

われを睹(み)て冴ゆ人形か少年か

競パンで雪へ飛び込むバカきれい

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