2015-05-17

対岸の過去~関戸橋フォーエバー 中嶋憲武

対岸の過去~関戸橋フォーエバー

中嶋憲武


「山手線が事故らしいよ」と、テンキさんが言った。ぼくとテンキさんは国立駅で待ち合わせ、小津さんを待っていた。じゃあ、ちょっと遅れて来るのかなと思った。小津さんが山手線を使っているのかどうかは分からないが、事故、遅延という発想でそう思ったのだろう。その会話のわりとすぐ後に、はにかんだ笑顔とともに小津さんは現れた。

折しも昼どきだったので、食事でもという話になり、ぼくは裏通りにある想像を超えた大盛りで名高いアモーレ茶房を思い浮かべたが、テンキさんはそれとは逆の方向にすたすた歩き始めた。

テンキさんが連れて行ってくれたのは、表通りから脇に入ったところにあるビルの三階にあるタイ料理屋だった。すでに満席で、ぼく達三人は店の裏の外階段で待つように案内され、狭いデシャップを通り抜け、非常口を出て外階段の猫の鼻っつらほどの踊り場へ出た。楽屋のようなその踊り場の混沌たる惨状は、愛らしくもあり懐かしいものでもあった。かつては店内に貼られていたであろう寺山修司のポスターが、御祓い箱となって置かれていたかと思うと、清掃用ワックスの四角いブリキ缶や、使用済みのおしぼりがぎっしり詰め込まれたプラスチック籠などが乱雑に積まれ、放置されていた。

祝祭空間のような猥雑さを彩るものは、この空間の中心とも言える場所に干されているタオルだろう。外階段の手摺に吊り下げられた物干しのクリップに、白いタオルとショッキングピンクのタオルがおのおの二、三枚ずつ、だらんと干されてあった。ぼく達はそのタオルを取り囲むようにして、寺山修司だねとか、最近またイエローマジックオーケストラを聴き出してねとか、お店の人が出してくれたつめたいタイ式紅茶、甘い香りのすっきりした味わいで、ややスパイシーなお茶、を飲みながら喋っていたのだが、そうしている間にもあとからあとからお客さんが、店員に案内されて外階段へ来るので、階段はかなり下の方まで行列が出来てしまっていた。そこへいつの間にかテンキさんの奥さんのユキさんが、ひょっこりと姿を見せていて、四人で席の空くのを待った。

バイキング方式だったので、さもしくお代わりを重ねたぼくは、かなり満腹になって店を出た。そのままぼく達は歩いてユキさんの買物につき合い、サノキヤというすべてがアッパーミドルの匂いのするスーパーマーケットへ移動した。ユキさんが車を回して来る間、三人で大通りをぶらぶら歩いて、サノキヤの前まで来ると、テンキさんは「ちょっと待ってて」と言い残し、指呼の間にある煙草屋へ向かって行き、ぼくと小津さんは所在なくその場に取り残される恰好になった。その間に小津さんがニースに住んでいる事、夫君は理論物理学者でブルバキ右派である事、北海道生まれである事、夏の日ざかりにあまり暑いので着ているものを脱ぎ、小学校から裸で帰って親に叱られた事などを聞いた。

その裸で帰った話を聞いた時、ぼくも小学校四年の頃、夏の日にあまり暑いので、着ているものを全部脱ぎ、部屋で眠り込んでしまって、買物から帰った母に叱られた事を思い出した。ぼくも裸で叱られた事があるんですよと、話さなかったのは、小津さんの無邪気さから起った行為に対して、ぼくのは些か性的な色彩を帯びていたので、気恥ずかしかったのだろう。部屋でタオルケット一枚を掛けて寝ていたぼくは、すぐ眼前にやはり裸で眠るクラスの好きな女の子を夢想していた。その肌の匂いさえ感知していて、体の一部を硬化させていた。

その頃、永井豪の「ハレンチ学園」に傾倒していたぼくは、とても破廉恥な子供だった。その性癖は今に生きていて、今でも充分破廉恥である。眼前に眠る裸のまぼろしの少女を、十兵衛と呼ばれていた柳生みつ子というヒロインと重ね合わせていたのかもしれない。

サノキヤで買物を終えて車でテンキさん宅へ行き、すこし休憩ののち、再び車で夕食のための食材を買いに日野へ向かった。日野と聞くと、ひどく遠い気がしていたのであるが、多摩川を越えて、しばらく走ると日野であった。単調で殺風景な幹線道路をずっと走行していたゆえにか、関戸橋から眺めた多摩川およびその周辺の丘陵の、萌え出た若々しい緑と水の色がやけに鮮やかに見えた。ユキさんは「うわあ、きれい。いいところだね」と言った。その言葉が風のように通り過ぎて風景にすっかり同化してしまった頃、きっと車中のみんなは、遠い昔の感傷がこっそり忍び寄って来ている事に気が付いていなかった。

夕食は手巻き寿司と決まっていたので、鮮魚と海産物専門のマーケットで食材を仕入れ、テンキさん宅へ戻って夕食の準備に取りかかるには、まだたっぷりと時間があったので、先ほど通りかかった多摩川へ行ってみる次第となった。関戸橋を越えて府中へ入り、だいぶ走ってからそんな話にまとまったので、車は引き返す態となった。再び関戸橋を渡り、多摩市に入った。

幹線道路から外れて、住宅街を抜けて道を登ったり下ったりしながら、河川敷へ出た。車を停めて堤へ上がると、清々しく晴れ晴れとした気分になった。
「あそこまで行ってみようよ」ユキさんが指差す方を見ると、鬱蒼とした丘があり、そこは囀りに満ちているようで、ぼくたち四人はその方へ歩き始めた。与謝蕪村の「春風馬堤曲」の一節をふと思い出した。母と弟を残して、大坂へ奉公に出て三年ぶりに帰郷した少女が、川べりの春草の中からタンポポを摘み取り、茎の折れたところから出る乳色の汁から、母の恩を思い、三年もほったらかしにしていた事を反省するくだりだ。春風や堤長うして家遠しという句もあった。この薮入りする少女は、いくつなのだろう。十五で奉公に出たとすれば、十八くらいだろうか。この少女は幼さも残っているが、そこはかとなく色気もある。少女が堤を降りて草を摘もうとすると茨が道を塞ぎ、着物の裾がはだけて太腿に引っ掻き傷を付ける。

多摩川の堤を降りながら、この少女に淡い恋慕のような感情を抱いている自分を認めた。一言で言うなら「萌え」である。またしてもまぼろしだ。

河川敷の青きを踏んで行くに、木の杭に鉄線が張られ囲われている一角があり、青々と草の茂った中をムクドリの群れがさあっと飛んでは、ひとところへ固まり何かを啄んでいた。ぼくたちが歩いて行くと、ぴりりと鳴きながらムクドリはまたさあっと飛んだ。

日は西の空の丁度いい高さにあり、穏やかな光を発していた。木の杭に張られた札に、警察犬の訓練用の土地である旨が記されてあった。なるほど、飛び越えるための障害物等が置かれている。

堤の上に、信号機が見えた。普通のものよりも幾分か小さめのサイズのような感じがした。信号機があるよ。ほんとだ。信号、小さいね。そのような会話を微風に貼り付けて飛ばせて、堤の上へ上がるとそこは小さな交通公園だった。信号機や標識、横断歩道などがスモールサイズにまとまってあり、足漕ぎのカートや自転車に乗った子供たちが賑やかに行き来していた。空にはヒバリが半狂乱のようになっている。

この場所にあるすべての風景が、フィルターをかけられた過去の風景のようだ。対岸の水色のビルディングの「東京エレクトロン」という会社名さえも。東京エレクトロンの「エレ」のあたりに郷愁がある。

よちよちと歩いて行くと、支流の流れ込んで来ているところがあり、先ほど車を降りた時に見えた鬱蒼とした丘陵は、この支流の対岸にある上に少々距離があった。支流の対岸は草木が繁茂していて、ウグイスやアオジ、センダイムシクイ、セッカ、モズなどが囀りの交響を繰り広げていた。その中で最も目立つウグイスの声にぼくたちは立ち止まった。テンキさんが、ウグイスって、黄緑色なのかなと言うので、ぼくは何年か前に、仙川沿いの道を歩いている時、ウグイスを間近で見た話をした。ウグイスは緑がかった茶色をしていた。
「ウグイスっていうと、黄緑色ってイメージあるけど、あれって、メジロと間違えてんのかね」
「そうですね。鶯餅は黄緑色だし、ウグイスパンの餡も緑ですね」
でも確か、印刷の色見本帳のカードに、鶯色として登録されているのは、緑がかった茶色だった筈だ。なんで鶯餅は黄緑色なのだろう。そういえば封筒のカラーにもウグイスがあって、それは黄緑色をしている。どうも世の中には二種類のウグイス色が存在しているようだ。
「ウグイスの声って、やっぱり一番目立つし、よく通るね。回りであれだけ他の鳥が囀っているのに」言われてみれば、その声は際立っている。俳句をやっている人は、きっとこういう時に俳句が出来るのだろう。

もと来た道を引き返そうかと歩き始めた時、交通公園の係員らしき人が来て、フォルクスワーゲンの鍵を落とさなかったと尋ねられた。ぼくたちは顔を見合わせた。落としてないですとテンキさんが答えると、その人はにこにことそうですかと言うと、公園の方へ戻って行った。手当たり次第にいろんな人に聞いているらしい。

ぼくたちは自然とテンキさんとユキさん、ぼくと小津さんという二組になって、車の停めてある場所へ向かってゆっくりと歩いていた。その間にも、公園の事務棟のスピーカーからフォルクスワーゲンの鍵の落とし主への呼びかけがあった。公園の駐車場に一台の空色のフォルクスワーゲンが停まっていた。落とし主は、鍵を落としたままどこか別の場所へでも行ってしまったのか、容易に現れないらしかった。

「エトピリカって鳥がいるんですよ」小津さんは川面を見やりつつ言った。ぼくはその鳥を図鑑で見て知っていた。知ってますよと言うと、小津さんは軽く驚いた。
「面白い顔の鳥だったんで、エッチングの作品にしてみました」
エトピリカは、アイヌ語で「くちばしが美しい」という意味で、日本では北海道にしか生息していない。体長四十センチくらいのずんぐりとした海鳥だ。嘴と足が橙色で、全体に黒いが、顔のところだけ仮面をつけているかのように白い。小津さんは郷里の釧路の海で見た事があるらしかった。ぼくは釧路の荒れた天候の海に、エトピリカの浮かんでいる景色を思った。曇り日の鈍色の海に、黒、橙、白の鮮やかなコントラストの鳥が数十羽、波に揺られている。ぼくの描いたエトピリカは、岩の上にじっと立っている。背景は雪の降る海だ。

「いいなあ、あの建物」テンキさんの声に、その方を見ると、屋根が真っ平らな倉庫のような建物があった。窓はあまり無い。背凭れに明治牛乳とロゴの入ったグリーンのベンチが置かれている。昔、遊園地などでよく見かけたタイプのベンチだ。牛乳の自動販売機もある。どうやら乳業を営んでいる会社のようだった。あんなところで牛乳売って暮らしてみたいよと言って、テンキさんは笑った。その付近に四角く柵で囲われた一角があった。かつては牛でも飼っていたのだろうか。今は治水のためなのか、テトラポッドという商品名の波消しブロックが、たくさん積まれていた。海の沿岸に何体も積まれていて然るべき物体が、多摩川の土手下の草むらに積まれているのが場違いな唐突さに満ちていて、哀れな者どもよのうというセリフが、この場合は似つかわしいのではと思った。すこし苔むしているのも、哀れさに拍車をかけていた。四脚の形状もどこか生物めいていて、遥かな星雲からやって来て、捕らえられて放置されている生命体と考えられない事もなかった。ウルトラマンに出て来た四次元怪獣ブルトンも充分想起される。細野晴臣のてのひらに乗るグロビュールとも取れない事もない。まあ、そういう訳で四脚の波消しブロックは、どこか哀れな生命体っぽいのだ。

「あの木のある空間は特別ですね」と小津さんが言うので、その方を見ると川のほとりに桜と思える一本の木が立っていた。花はすべて散って、蕊だけが残っているのか、木の全体がブラウンに見える。妙に風情のあると言うか、雰囲気を醸し出していると言うか、独特の存在感を放っていた。木の下に小さな子供用の自転車が二三台停まっているのも、絶妙な配置に見えた。
「一本だけぽつんとして」
「童話の一節のようですね」
「やかまし村に生えていそうな木だね」
そんな会話を土手下に落として行きながら歩いて行くと、前方の堤の下に、人という字の型をした杭のような物が地面に並んでいるのが目に入って来た。
「またまた謎の物体が」
「何でしょうね」視力が弱く、乱視のぼくにはそれらが木製のように見えていたけど、近付いて来るとコンクリート製であるらしかった。一定の間隔で、ある法則に沿って規則正しく並んでいるようだった。先頭に一つ立っていて、間隔を置いて二つ横並び、また間隔を置いて三つ横並び、あとはずっと四つずつ並んでいる。遊具でないのは明らかだ。人が足を前後に大きく開き、上体を後ろへぐっと反らせたような形をしている。ラジオ体操でこんなポーズの体操があったような気もする。
「人間っぽいですね」
「むかしは人間だったんすよ」
「何の為に置かれているんでしょうね」
「イースター島的に世紀の謎っす」
ぼくと小津さんは、堤の下のオブジェを見ながらずんずん歩いていたが、ふと振り返るとテンキさんの車をだいぶ通り越してしまっていて、テンキさんとユキさんが車の方へ歩いているところだった。ぼくと小津さんはいたずらの見つかった子供のように、テンキさんの車へ近付いて行った。

運転はユキさんで、助手席にテンキさんが座り、後部座席にぼくと小津さんが座り、車は走り出した。曲がりくねったアップダウンの道が、住宅街の中に続いている。カーステレオからオスカー・ピーターソンの「ジョーンズ嬢に会ったかい?」が流れた。弾くたびに小さな光の雫がぽろぽろ零れるようなピアノの音色に耳を傾けながら見る窓外の風景は、例えば建物の材質や窓の形、敷地に車の停まっている陣形などが、やはりいつだったか遠い日に、どこかで見ている筈の風景と思えて来るものだった。関戸橋を渡ってしまえば、この風景は失われる。だが帰るためには渡るだろう。

小津さんが先住民の話をしている間、いつの間にか関戸橋を越えてしまっていた。

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