2015-05-31

【澤田和弥さん追悼】澤田さんありがとう 佐藤文香

澤田和弥さん追悼
澤田さんありがとう

佐藤文香





澤田さんは早大俳研の先輩だ。

1日で100句つくろうと言い出したのはわたしではなかったのだが、たぶんわたしの東中野のマンションで、たしか目白の女子学生会館を出てすぐだったと思うから大学3年生のはじめごろだろう、何人か集まって俳句をつくるということになり、でも誰がいたかはあまり覚えていなくて、ただし澤田さんが来たのは覚えている。

なぜ覚えているかといえば、その夜結局皆家に帰らず、わたしの家でぐだぐだとしていたはずで、ベランダに出る側のカーテンに触れるか触れないかのところに、澤田さんは寝転がっていびきをかいていて、腹が少し見えていて、うわっと言うほど毛深くて、ほかのみんなと笑ったような気がするからだ。

翌朝皆を駅まで送るため全員で家を出て、あれはてっちさんだったか、何も考えずに信号待ちをしているわたしを斜めに誘導したようなおぼえがある。どうしたんですかと問えば、逆の斜めうしろで澤田さんがほぼ吐きそうな風にいて、うわっなるほどと思った、気がする。結局そのとき澤田さんは吐かなかった、それは確かだ。

寝酒して琥珀の網の内にゐる   澤田和弥




それから半年後くらいだろうか、些細な苦しさが重なって一定量を超えたらしくだめになってしまったわたしが、その日澤田さんに会うことに決めていたのは今思えば偶然で、澤田さんに会っても泣いていたように思うけれど覚えているのは早稲田の、地下鉄の出口のある交差点、わたしのバイトしていたカフェ華の見えるところの、秋の光の具合。

それは鬱というもので、そのあと躁鬱という症状に変わってわたしは今に至るわけだが、澤田さんが病院に行きなよと言ってくれなければ、もう少しだいぶだめな状態が続いていただろうと思う。




地方の県立高校で優等生、指定校推薦で大学に入り、しかし精神的に調子を崩して次の進路がうまくいかず、少しは東京で足掻いたけれども結局実家に帰り、地元の役所につとめるも辞めざるを得なくなり、無職。友達はみんな、結婚してゆく。

というのは澤田さんの人生の一部分であり、また、わたしの人生の一部分である。

誰にでもつゆだくの愛を注いだ澤田さんが、こんなに似てるところの多い5歳下の後輩に親近感を感じて愛してくれたことは言うまでもなく、わたしとしても澤田さんは恩人であったため、仲良くなった。

澤田さんとの大きな違いのひとつは恋人に困っているかどうかで、困っていなかったわたしの方は、実家に戻ったものの結婚するとかなんとか言って2年で東京に帰ることにした。しかしその彼とは上京して1ヶ月で別れたし、松山時代のバイト先のハム屋でつないでもらった東京の店では1ヶ月もたず、具合が良くなく、次に付き合いだした年下の彼の家で昼も寝ていた。その人とも別れ、そのあとも3人くらいと付き合っては別れた。なのでお互い、会うと恋愛がうまくいかない話をしていた。

プールからプールサイドに呼ばれけり   澤田和弥




最近は、銀座の小料理屋卯波が閉店するというので、澤田さんがキープして忘れていたボトルの焼酎を飲んでおいて、と連絡をもらったり、浜松の句会にゲストで呼んでくれたり、日本酒の一升瓶を送ってくれたりした。わたしは自分の仲間と飲んで、みんなで澤田さんありがとう写メを送ったり、無駄にかわいい礼状を書いて、「無駄にかわいいのが届きますが残念ながら差出人はわたしです」とメールしたりした。

そしてわたしの第二句集が出て、「天為」に句集評を書いてくれた。

第一句集『海藻標本』上梓後六年間の一六一句に佐藤文香の成長を、
 そして成長せずにいつまでも「さとうあやか」でいてくれる部分を見
 る思いがする。
            「天為」平成二七年二月号 「新刊見聞録」より

澤田さんのPCメールの表示名は「さわだかずや」なので、我々は「さ」と「か」と「や」が共通しているな、とこのとき気づいた。「さ」さいなことで「か」なしくなってしまう「や」さしいわたしたち。なんてね。

蠟梅は面会室を満たしけり   澤田和弥




わたしの句集の出版パーティーのメールを送ると、「年末から体調芳しからず、当日よもやのドタキャンの可能性もありますが、万難振り切ってなんとか参加させていただきたく存じます」とのことだったので、体調第一で、ご無理なさらず、と言ってあったが来てくれた。

ちょっと前のエキレビインタビュー(わたしの句集と双極性障害に関して)を読んだこと、澤田さんの一言がそのタイトルになっていることに気づいたことなどを話してくれた。うちの親も澤田さんにお礼を言ったらしい。

「文香ちゃん、それは病院に行きなさい」と言われて。俳人・佐藤文香「そううつ」と診断される 1
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20141222/E1419182685337.html

パーティーの最後のわたしの挨拶のとき、澤田さんはチャチャをだいぶ入れた。ふつうの人からすれば、調子に乗りすぎ、元気良すぎに見えるだろうが、かなり躁だな、調子わるいんだな、と思った。

終わってから「今日は勝手にピエロになって、ごめんね」とわざわざメールが来た。かわいい絵文字がたくさん使われていた。いつものことだ。心と体に気をつけてお過ごしください、と返事をした。集合写真をプリントしてみたら、澤田さんは一番うしろで『君に目があり見開かれ』にチューしていた。最高のパフォーマンスだった。




ゴールデンウィーク、恋人とどこかに遊びに行こうという話になったとき、浜松行って澤田さんに会おうか、という案もあって(結局群馬に行ったのは交通費が安いという理由だ)、実家に置きっぱなしにしていた澤田和弥句集『革命前夜』を恋人に貸すために取り寄せていて、だから澤田さんが亡くなったと聞いたとき、それは目につくところにあった。まだまだ家にたくさんあるから宣伝しといて、と言われていたのを思い出したし、同時に、わたしは寺山修司アレルギーがあって、修司忌のところで読みすすめられなくなっていたことも思い出した。

澤田さんとの大きな違いのふたつ目は、寺山修司が好きかどうかだ。さらに三つ目は、下ネタを俳句に持ち込むかどうかだった。わたしは、しゃべるのは好きだが俳句に入れるのは結構許せなかった。だから澤田さんには読んでもらうばかりで、わたしが澤田さんの作品をとりあげたりすることがなかった。申し訳ないけど、仕方ない。わたしが澤田さんくらいやさしかったらよかったかもしれない、でもここで、わたしは、何が愛なのかわからない。俳句なんてなければよかった、でも俳句があったから澤田さんに会えたんだった。

マフラーは明るく生きるために巻く  澤田和弥

わたしはもう、元気出しなよ、とはあまり言われなくなってきて、それは自分が元気そうに見えることが多いのもあるし、躁鬱のことを知ってくれている人も増えたからなんだけれど、がんばらなくていいんだよ、と言われるたびに、がんばりすぎないようにがんばって調整してこれなんです、と言いたくなるのを、がんばって言わないようにしていたりするんだけど、澤田さんはどうでしたか。わたしは、澤田さんのつらいときの話を、もっと聞きたかった。

結婚もいったん諦めたし、仕事ないし、もともと野望とかもないし(澤田さんは実は野心家でしたよね)、お酒はちょっと制限するようにしてるし、大好きな下ネタを話す相手も減ってきて、どうするのがいいですかねぇ、澤田さん。また時間あるとき聞いてくださいね。

今までありがとうございました、そっちではたくさんのやさしくてナイスバディな奥さんにおしくらまんじゅうされて過ごしてください。で、わたしがダメそうなときは、神の啓示を頼みます。いや、顔的に、仏か。





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