2015-06-21

【俳句を読む】なんにもしない句を読む できればそうせずにすめばありがたいのですが 筑紫磐井・宮本佳世乃・バートルビー 柳本々々

なんにもしない句を読む
できればそうせずにすめばありがたいのですが
筑紫磐井・宮本佳世乃・バートルビー

柳本々々



バートルビーは徹底して「動かない人」である。……自己創造の理念に、『バートルビー』という作品は、本当にそんなことが可能なのか、という疑問符をつきつけているように思える。
(柴田元幸『改訂版 世界の名作を読む』放送大学教育振興会、2011年、p.96)

うるふ日をなんにもしないことにする  筑紫磐井(筑紫磐井『我が時代』実業公報社、2014年)
夏の墓何もしないで帰つてくる  宮本佳世乃(宮本佳世乃句集『鳥飛ぶ仕組み』現代俳句協会、2012年)

さいきんちょっと思っていたことに〈なんにもしない〉ということはどういうことなんだろう、というのがありました。

なぜ、〈なんにもしない〉のか。もっといえば、なぜ〈なんにもしない〉ことが〈俳句〉になるのか。

考えてみると、

古池や蛙飛びこむ水の音  松尾芭蕉

というあまりにも有名なこの俳句のカノンの語り手も、かえるが飛び込んだ水の音を〈聴く〉ことさえしていないのではないか、つまりここに語られていたのはやはり古池を、かえるを、水の音を、前にして、〈なんにもしな〉かったひとだったのではないかとおもったのです。

筑紫さんと佳世乃さんの句をみてみます。どちらも上五に「うるふ日を」「夏の墓」と〈なにかしなければいけない感じを誘う設定〉を施しているのが特徴的です。「うるふ日」という特別な日だから、「夏の墓」参りという特別な行事だから、なにかを〈する〉んじゃないかと読み手は期待します。

ところが、「なんにもしないことにする」「何もしないで帰つてくる」と、どちらの語り手も〈なにもしてい〉ません。それどころか「しないことにする」「しないで」とその言辞には〈なにもしないこと〉に対する積極的な〈そぶり〉さえみえるような気がします。それは「なんにもしないで過ごしてしまった」「みすみすなにもできずにいた」という失念や悔悟としての〈なにもできなかった〉ではなく、〈積極的になんにもしない〉でいる/いたのです。

私は彼に声をかけ、早口で要求を伝えた……私の驚きを、否、驚愕を想像してほしい。何とバートルビーは、つい立ての奥から動きもせず、不思議と穏やかな、きっぱりした口調で「そうしない方が好ましいのです(アイ・ウド・プリファー・ノット・トゥ)」と答えたのである。
……「どういう意味だ? 気でも狂ったのか? さあ、この書類を点検するのを手伝うんだ──受けとりたまえ」私は紙を彼の方に突き出した。
「そうしない方が好ましいのです」と彼は言った。
(ハーマン・メルヴィル、柴田元幸訳「書写人バートルビー──ウォール街の物語」『柴田元幸翻訳叢書 アメリカン・マスターピース 古典篇』スイッチ・パブリッシング、2013年、p.91-2)

ここでひとつの補助線として、〈なに(か)をしろ〉とわれても、〈なんにもしない〉ことを貫きとおした文学史上もっとも有名な〈なんにもしないひと〉バートルビーを思い出してみたいと思います。「法律文書の書写以外はいっさいやろうとせず、次第にそれすらやらなくなってしまい、最後は食べることさえやめてしまう不思議な男の物語『書写人バートルビー』」。

彼は「なにをしろ」と命じられても、「できればそうせずにすめばありがたいのですが」と、〈なんにもしないこと〉を〈やわらかく・堅く〉選択します。しまいには、食べ物を食べることさえ、「できればそうせずにすめばありがたい」状況におちいり、最終的にかれは死んでいきます。

このバートルビーの言辞「できればそうせずにすめばありがたいのですが(I would prefer not to)」が非常に独特な〈言い回し〉だと思うんです。なぜなら、〈じぶんはほんとうはできるのだけれど、でもじぶんの本心としてしたくないんだよ〉と、〈できる〉〈する〉ことの可能性は潜勢態=潜勢力としてつねにもっていることを示しつつも、それらを否定しているからです。やろうとおもえばできるのです。でもしたくないのです。だから、バートルビーの雇い主もおののいているわけです。びびってるのです。こいつはなんだ、なんなんだ、だいじょうぶなのか、どうなっているんだ、俺のほうがおかしいのか、なにがいったいくるっているのか、と。

できるのに・しないこと。それをバートルビーは〈あえて〉選択しているわけです。

さて、佳世乃さんの句集『鳥飛ぶ仕組み』にはこんな句があります。

きらきらと夏を歩いてきて洗ふ  宮本佳世乃(宮本佳世乃『鳥飛ぶ仕組み』現代俳句協会、2012年)

「きらきらと夏を歩いてきて」いるので、たとえば「夏の墓」に行ったとしても〈なんにもできない〉語り手ではなかったことがわかります。「きらきら」することもできるのです。〈なにかをしよう〉と思えば〈きらきらと歩く〉こともできる。そう思えば、です。でも「夏の墓」では「そうせずにすめばありがた」かったので、〈そうしなかった〉。

〈なんにもしない〉ことの選択。そうできる可能性は句集の内部でほかの句として提示しつつも、しかし〈なにもしない〉ことを選択する。〈なにもしない〉ことを出来事化し、俳句化する。

それは、どういうことなのか。

ふたたび、バートルビーに戻って考えてみたいとおもいます。バートルビーが〈なにもしない〉ことで示したのは、あらゆる枠組みの放棄だったのではないかとわたしは思うのです。〈なにかをする〉ということはなにかの〈枠組み〉にのっとり行為を行うことになる。たとえわたしが意図しようが意図しないでおこうが、なにかのアクションをとればそれに準じた枠組みも附随してくる。バートルビーは〈労働〉をできるけど・しないというあり方を選択することで、資本主義体制における労働主体という〈枠組み〉を破棄しています。そしてそれによって〈近代〉的な市民主体という枠組みも放棄している。〈枠組み〉のない場所におもむくことで、〈枠組み〉のない場所から、〈枠組み〉を問いかけている。

この世に参照点(レファレンス)(身元保証)をもたず、住み着く家(ホーム)もなく、所有財産(プロパティ)(固有性)もなく、「性的差異も廃棄した」(ドゥルーズ)バートルビーは、近代的意味での「人間」を構成する要素を捨て去った同定不可能(アンケ-アイデンティファイアブル)な存在だと思われる。
(竹村和子「生政治とパッション(受動性/受苦)」『境界を攪乱する-性・生・暴力』岩波書店、p.257)

あらゆる〈枠組み〉を放棄して、〈枠組み〉のない場所で〈行為〉や〈主体〉のありかたを「できればそうせずにすめばありがたいのですが」とさぐること。そんなバートルビーはすこし〈俳句〉という形式に通底していたのではないかとも、おもうのです。

俳句のひとつのありかたとして、俳句は、あらゆる〈枠組み〉を〈さておいて〉なんにもしないでいることを選択できる形式なのではないか。「できればそうせずにすめばありがたいのですが」というふるまいをみずから選び取るできる形式が俳句なのではないかともおもうのです。

行為遂行の目的化を〈仕組み〉ながらも、なんにもしない〈仕組み〉をみせる(それらを同時に仕組み、同時に解除する)。そうあるようにかたむきながらも、そうならないようにかたむきなおす。〈なにもしないでいる〉ことの積極性として。できればそうせずにすめばありがたいのですが、と古池の前にたたずむ積極的なバートルビーとして。

だから、バートルビーのやわらかい・しかし・タフな拒絶としての「できればそうせずにすめばありがたいのですが」をあえて俳句訳すれば、こんな訳になるのではないかとおもうのです。

さういふものに私はなりたくない  筑紫磐井(筑紫磐井『我が時代』実業公報社、2014年)

答えは一人ひとり違うだろうが、ひとつのありうる答えとして、働かないこと、動かないこと、食べないことによって──要するに、《生きないことによって》──働くこと動くこと食べることの意味は何なのか? 生きることの意味は何なのか? という問いをバートルビーが我々につきつけているから、ということは言えるだろう。そして言うまでもなく、我々はみな、生きることは意味あることだというふりをして日々を生きているけれども、実は誰も、生きることの意味など知りはしないのである。
(柴田元幸『改訂版 世界の名作を読む』放送大学教育振興会、2011年、p.99)


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