2015-06-14

【句集を読む】下降する鳥たち 村上鞆彦『遅日の岸』を読む 福田若之

【句集を読む】
下降する鳥たち
村上鞆彦遅日の岸』を読む

福田若之


村上鞆彦『遅日の岸』(ふらんす堂、2015年)にはさまざまな鳥が登場するが、それらの鳥は、どれも一様に、ある動きを決定的に封じられている。それは、上昇すること、飛び上がることである。それゆえ、『遅日の岸』の生態系のうちには、雲雀の姿を一羽たりとも見出すことはできないだろう。バシュラールが「純粋な雲雀はそれゆえ、とりわけ昇華のしるしである」(ガストン・バシュラール『空と夢――運動の想像力にかんする試論』、宇佐見英治訳、法政大学出版局、1968年、129頁)と述べているように、文学的なイメージとしての雲雀の本質は、上昇することに他ならないからだ。『遅日の岸』における雲雀の不在は、素材の選択によってもたらされる単純な捨象を超えている。もし、この不在がそうした捨象にすぎなかったのなら、書かれなかった雲雀の飛翔を『遅日の岸』の余白に想定することができただろう。しかしながら、『遅日の岸』においては、その余白にさえも、雲雀が存在する余地は一切ない。その代わり、人々はこの世界において、鳰の沈潜、鵜と鴨の墜落、雀の投身を目撃することになる。

鳰の潜く間の街暮れにけり  村上鞆彦
枯野の日さかしまに鵜を落としけり
鴨撃つて揺るる日輪水にあり
雀みな梢を下りて梅雨夕焼
降ってきて雀なりけり春の土

それでは、ここでもバシュラールに倣って、これらのイメージを墜落の想像力のもたらしたものとみなし、この想像力を「上昇の想像力の一種の病として、高さに対する贖ないがたい郷愁として検討してゆく」(『空と夢』、前掲書、136頁)ことにするべきなのだろうか。

実際には、それでは『遅日の岸』を捉えそこなうことにしかならないだろう。バシュラールは墜落の想像力について考察するにあたって、客体の墜落を周到に排除してしまっている。しかし、自分自身の墜落と他者の墜落とはまるで異なるイメージに違いない。それゆえ、『遅日の岸』における墜落および下降のテーマを、ここで改めて取り上げることには意味があるはずだ。

『遅日の岸』の鳥たちの多くは、水上か地表に見出されるか、あるいは声のみによって把握されるので、羽ばたく鳥はそれらに比べると希少である。もちろん、存在しないことはない。だが、こうした鳥たちは自らの高度を維持することだけで精一杯に見える。それらは、けっしてより高く昇っていくことはない。

ポケットのなかに握る手鳥渡る
街空の鷗を春のはじめとす
鶺鴒がとぶぱつと白ぱつと白
きさらぎの鳥まつすぐに木へ入りぬ

これらの鳥はどれも、上へ飛んでいるのではなく、前へ飛んでいる。天はこれらの鳥たちからしても、さらに遥か上空にひろがっている。鳥の生きる領域は低空より上にはない。

上昇はといえば、これは天体の特質である。

沖星に高さ加わる猫の恋

しかしながら、こうした星の上昇は極めて機械的な運動にすぎない。世界のからくりにしたがって、星は上へ押し上げられていく。星の上昇は志向ぬきになされるのだ。この句において、上昇の志向が見出されるのは発情した猫たちにほかならないが、この猫たちが向かおうとしているのがあの星空ではなく、心理的な絶頂であるのは言うまでもない。

鳥が上昇する筋力を持たないこの世界にあっても、空へのあこがれは決して絶えることがなかった。しかし、そうしたあこがれは鳥たちによって体現されるのではなく、むしろ、猫たちがそうであったように、地上のものたちによって体現されるのである。たとえば、空へのあこがれを最も強く表わしているように感じられる次の一句において、そのあこがれを体現するのは羽をもたず土とともに生きる昆虫―‐蟻である。

指先の蟻大空を感じゐる

また、空へのあこがれの強さでこれに匹敵する別の一句においては、空は靴というモチーフを通じて大地と隠喩的に結びつけられている。

ぶらんこの空へそろひし靴の底

『遅日の岸』においては、空へのあこがれが上向きの飛翔として表れることはない。そのあこがれは、むしろ、大地との何らかの結びつきがあってはじめて生じるものなのである。それゆえ、空を自らのからだの中に取り込もうとするとき、人は足に力をこめ、大地に力強く立っていなければならないだろう。

息深く吸ふ青空の寒さかな

そして、このような空へのあこがれは、上方から落下してくるモチーフを空が大地にもたらす恩寵として描き出すことにつながる。

歯に当てて眩しき果実五月の空

ここで、樹上から得られる果実は大地の恵みではなく空からの恩寵と見なされている。『遅日の岸』の世界において、木を育てるのは土や水ではなく、降り注ぐ日の光と青空である。

『遅日の岸』の語り手は、汚物さえ空からの恩寵として認識するだろう。地上のものたちの糞尿は語るに値しないただの廃棄物に過ぎないが、空から降る糞尿は恩寵であるがゆえに語るに値する。地上のものは、これらの肥料が大地にもたらす養分を、あの果実を通じて、自らのものとして受け取っているのである。

日盛りのぴしと地を打つ鳥の糞
蟬の尿浴び今日の空今日の青(「尿」に「しと」とルビ)

蟬の尿を浴びる語り手は鳥の糞を受ける大地と同一化しながら、自らを空から遠いものとして位置づける。下降する鳥のモチーフへの執着は、ここに至ってはじめて理解されるだろう。イメージとしてはあきらかに空に属している鳥たちをこうした語り手が自らにひきつけるためには、それらの鳥が大地や水の上へ、さらには水中へと下降する必要がある。鳥たちは、下降することによってはじめて語り手のものとなる。下降する鳥を言葉にすること、それは、鳥を自らの側へひきつけ、それを所有することなのである。落とされる鳥や下りてくる鳥を描くとき、語り手は鳥たちを言葉によって想像的に撃ち落としているのだとさえいえる。狩人たる語り手は、俳句という弓矢を肌身離さず持ち歩き、鳥たちを、さらにはこの世界に空がもたらしたあらゆる対象を、射落として自らのものとするのである。狩りの対象は鳥たちばかりではない。あらゆるものが根源的には空からの恩寵によっている『遅日の岸』の世界にあっては、なにかを能動的に手に入れることは、それが直接的であるにせよ間接的であるにせよ、すべて空からの略奪なのである。

兎撃つとき青空に罅走る

ただし、この兎はけっして偶然そこに「兎」として与えられたのではない。言葉としての「兎」は鵜と鷺に通じるのであって、この動物は一羽二羽と数えられる。兎と鳥たちの言語的なつながりによって、地上の動物もまた空からの恵みによって生きていること、それもまた究極的には空から語り手に与えられたものであることが示唆されるのである。語り手が青空を傷つけたことが、数ある動物種の中でも兎を撃つことを通じて認識されるのはそのためだ。狩りは空から何かを奪い取ることに他ならないが、一方で、こうした略奪は仕方のないことでもある。『遅日の岸』の語り手は、ただ空から与えられたものによってのみ生かされているのであるから。そして、それゆえにこそ、青空に走った罅は語り手自身の心をも痛めてやまないのである。



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