2015-06-14

【俳誌を読む】追伸・形式という地図を手に、 『オルガン』創刊号を読む(2) 小津夜景

【俳誌を読む
追伸・形式という地図を手に、
『オルガン』創刊号を読む(2)
小津夜景

  春暁をしばし冷たき雲の空
  白梅にして遠空を担ひけり
  紅梅の頃や家居の使はぬ門
  紅梅の犬小屋とはに灯ともさず
  ちりぢりに梅見て川の流れだす

これは『オルガン』1号、生駒大祐さんの連作「しばし」の冒頭です(今回は柳本々々さん風の文体で書いてみます)。

生駒さんの「しばし」を読んでいておもったんですが、これはある意味完璧な作品なんですね。共感性が高く、句のトーンが一定していて、なにより隣の句とのバランスが良い。俳句の型を信じ、それを十全に活かそうとした形跡もある。いま「形跡」と書いたのは、様式をつかいこなしたというよりもむしろその内側に落ち込んでしまったかのような音のうごきを連作の冒頭に感じたからなのですが、それもほんの一瞬のことで、最後まで読めば、考え抜かれた音の運びでこの作品のスコアが書かれていることがよくわかります。俳句の先生がお手本に書いたかのようでもあり、最初ぱっと見たとき「科挙の答案か!?」と思わずのけぞってしまいました。

隙が一切ない句作りをして何の新しいものが生まれるのかという問いはあると思う〔*1〕生駒さんがこのような類型性を追及するスコアを書いた動機はさておき、わたし自身はこれを〈神目線〉をめぐるコンセプチュアル・アートなのではないか?と感じつつ読みました。

俳句の世界には「写生」という金科玉条があります。でも別段俳句に限らず、芸術というのは一種のミメーシス(模倣)だと長い間かんがえられてきました。たしかアリストテレスが「人間は、本能的にミメーシスを好む体質にあり、ミメーシスによって現実を学ぶ」といった話をどこかでしていたとおもうんですが、これをわたしなりに説明すれば「神さまがつくった〈見えない世界〉の上にトレーシングペーパーを置いて鉛筆で正確になぞったら、世界の輪郭が写しとれます。不思議なかたちですね。でもそれがイデアの〈写し=型〉なのです。ちなみに〈見える世界〉というのはすでにひとつの〈写し世・映し世〉なので、巷で言われる写生とは模倣の模倣、つまり二次コピー(かそれ以上)です」ということになります。

ここで生駒さんの「しばし」にもどると、この作品は俳句の理想とみなすに相応しい型を(過去の諸作品から)まず持って来て、ついでその型に「梅」だの「空」だの「門」だのといった言葉をぺたっと貼り付けた感じになっている。ここに貼り付ける言葉はなんだっていい。もっといえば「『俳句』を外れた言葉が浮いて見えるという問題〔*2〕避けるために、なるべくさりげない方がいい。意味に必要以上に頼らなくても、俳句らしい構造を提示するだけで作品は十分成立する、と。こういった〈骨格美人を目指すエステティック・ラインの追究〉が生駒さんのひとつの狙いだったのかもしれない、とおもうんです。

ここまでをざっと整理すると「しばし」とは、意味を希釈しつつ、様式美を前景化した、ノー・クライマックス構造、の美の開示である。わたしがコンセプチュアル・アートだと感じたのは、まずこの文脈においてです。

で、つぎに考えてみたいのは、この作品が今回『オルガン』の巻頭を飾ったことの重大さです。この意味を考えるのはおそらくかなり大事なことで、というのも、この雑誌の表紙をめくるとですね、読者は真っ先に以下の序文と遭遇するんです。

 息をする、と言う。
 息を、と。
 でも息と、それをするものとは分けられない。
 むしろ、息がする、と言ったほうがいい。
 息が、するのだ。

 俳句もまた、そうではないか。
 俳句を、するのではなく、俳句が、するのだ。

 俳句がする、4つのオルガン。

「俳句が、俳句をする」とは「ものそれ自体が、みずからの形を決定する」という意味ですから、この辞は「目的論的な統合性(=制作)を解体し、ものごとの自然な成長性(=生成)を紡いでゆこう」といった〈俳句オーガニック宣言〉ととみて差し支えないでしょう。世界(=俳句)の成り立ちをプラトン的制作(=俳句を、する)ではなく、アリストテレス的生成(=俳句が、する)として捉えるこうした見方は、歴史上いくども繰り返されてきました。

仮に「制作」が、余分な要素をすべて削ぎ落とした機能美・骨格美へ向かうとすれば、「生成」というのは絶えず隙のある、芯の弛んだ湯のみのような美しさを追いもとめます。またその〈ゆらぎの美しさ〉を掴まえるために、どんないびつな息吹をも、型の〈生きられた多様性〉に対する挑戦とみなし、作者はその息づかいに耳を傾けねばならない。なんだか説明が柳宗悦っぽくなったのでその路線で最後まで言い切ってしまうと、こうした生成主義の俳句には、どんなに言葉がふざけた、しまりのないように見えるときでも、高邁な理念をなにひとつ代弁しないことから来る〈つつましい静けさ〉が宿っている、というのが生成派の物の見方です。

ここまで書くともうお分かりかもしれませんが、生駒さんの「しばし」は、この雑誌の序文の真逆を向いています。俳句が、俳句を、ぜんぜん、していない。生駒さんが、俳句を、ばりばり、している。

「しばし」は一見主体の薄められた世界のようでいて、実のところ内省から始まる作品の見本のようなものです。またこのことは内省こそが「すべてのものを、徹頭徹尾、まず調整し、単純化し、図式化し、解釈する」(ニーチェ『権力への意志』)方法である以上必然でもあります。別の言い方をするなら「それが『主体』をとりのぞきえたとナイーヴに信ずるとき、実は超越論的な主観性に依拠していることを忘却しているのであり、逆にいえば、そのような〈構造〉は、主観性のただなかでしかとり出しえない」(柄谷行人『内省と遡行』)。

つまり「しばし」においては、作者の我執は捨てられたのではなく、風船のように高次へと上昇し、俳句のイデア(!)に感情移入・同化するに至った、と予想できる。〈主観=俺目線〉から〈超越論的主観=自称「神」な俺目線〉へのシフトです。

だから「俳句は形式の文学だとも思う。それは、俳句は俳句自身にとって『気持ちのいい』形式に忠実だ、という意味であり、そういう意味で俳句は人間によく似ている〔*3〕と生駒さんがお書きになる際、そこで想像されている「形式」とは(自然成長的な俳句の姿ではなく)俳句に内在する純粋公理のようなもののはずで、またそれを探究するのは(俳句自身ではなく)生駒さん自身です。生駒さんの作品がたいへんストイックに書かれていながらも静寂へと向かわない理由は、おそらくこの辺にあるのではないかと思います。そもそも様式美という神殿の中にあるとき、その作品はもっとも安定的株価が保証された状態なわけですし、その安定のために禁欲に励むというのは「形式」の側ではなく「主体」の側が気持ち良くなりたいからです、というか「形式」 は生物じゃないのでぜったいに気持ち良くなったりしない、はず(物事を〈超越論的主観=自称「神」な俺目線〉で見たりしていない限り)。

ここで再び話をもどして、生成主義の序文からはじまる『オルガン』の巻頭が、これでもかというくらいごりごりの制作主義的作風であった、というのは雑誌にとってプラス以外のなにものでもない、とわたしは思うんです。今これを書きながら、生駒さんが以前「作者と読者とは常に対立・緊張関係にあってほしいという個人的信条〔*4〕を述べていたのを思い出しているのですが、この信条をシンプルに実現する方法があるとすれば、それはひとつの雑誌を共有する作者同士が「常に対立・緊張関係にある」ことでしょうし、場の内側に趣味の斥力が働いているというのは、その場がクールでおしゃれであるための最低条件でもあるでしょう。

もちろん現実的には、ものをつくる際に「生成」と「制作」とを単純に分離して考えることなどできません。けれどもそこをあえて分離するつもりで、生駒さんの「しばし」のような制作派の作品が書かれる(また別の場所で、鴇田智哉さんの「乱父」のような生成派の作品が書かれたりする)ことの意義。わたしが生駒さんの作品を「コンセプチュアル・アート」であると感じたもうひとつの理由は、そういった〈方法の純度を上げる〉態度に対してでもあります。

最後に〈追伸〉的な視点から。

わたし自身ほんものの科挙試験の答案をつかってこういうものを書きたくなるくらい制作主義&古雅な趣の作品が好きなこともあり、生駒さんの「俳句を、ばりばり、する」態度には考えるところが多くありました。それは、いつも私の中にぼんやりとある「結局、形式の旅を通じてしか、形式の外には出られないのだろう」というほんのささやかな流浪感覚とも関係していますし、またたとえば「美しい形式へと飛び込んでゆけば、その先にあるよくわからない〈あちら側〉のようなもの、超越論的主観では躱しきれない〈ふしぎな風〉のようなもの、に出会えるのではないか、それがわたしをふっと持ち上げて、形式の外の言葉の前に立たせてくれるのではないか」といった期待にも似ています。形式というのが、俳句を旅するための有効な地図であること。またその地図に触れることでこそ、地図の外側の世界の潜在性を感じとれるかもしれないということ。そしてそのあとに始まる言葉のふるまい。すなわち、

そうなると、定型というのは、ひとつの〈理性〉だということができます。定型を守る時、ひとは歌の〈理性〉をまもっている。でも、おもいがけないあちら側がきたときに、とまどいとして定型からことばがあふれもれていくことはあるかもしれない 柳本々々〔*5〕

 

【註】
〔*1〕〔*2〕〔*4〕生駒大祐「美しいバランスについて考えているうちに書きあがった文章 角川俳句賞候補作4作を読む」http://weekly-haiku.blogspot.fr/2013/11/4.html
〔*3〕生駒大祐「かよひあふ」11月4日
〔*5〕柳本々々「プールサイドに寝そべる少女らのなかにこちらを見る眼があつて狙ひをつけられてゐるらしい僕/松平修文」http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-787.html

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