2015-07-26

BLな俳句 第8回 関悦史

BLな俳句 第8回

関悦史


『ふらんす堂通信』第143号より転載

日焼の子すでに師ありてバッハ弾く  望月 周『白月』

アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に主人公・碇シンジがバッハの無伴奏チェロ組曲を弾き始めるシーンがある。最近の句であるだけに、その印象につい引きずられそうになるのだが、句中にチェロとは書かれてはいない。稽古事としての普及度からすればピアノをイメージする方が妥当なのだろう。あるいはヴァイオリンの可能性もある。そしてもう一点、碇シンジは内向的だったが、こちらは「日焼の子」であり、いかにも健康的で子供らしく、それが突然バッハを弾き始めたという意外性が華になっている。

扱う楽器によって「日焼の子」のキャラクターが多少変わってはくるものの、いずれにせよ、思いもかけぬ相手が楽器を見事に演奏し始めるとき、そこには不思議な官能が立ち上がる。言語的コミュニケーションでもなければ、粗雑な肉体的接触でもない、ヒトにはもともと与えられていなかったような天界的なコミュニケーション手段を体得した存在へと、相手が不意に飛翔を遂げてしまうからである。この「弾く」は、単に「日焼の子」が稽古事に耐えうる従順さや利発さ、忍耐力を持っていることを示しているだけではない。「すでに」はこの子がそうした、羽化にも似た変容を果たしつつあることを示しているのである。

伝承されてきた知と技の体系の側から手をさしのべ、変容を促すのが「師」である。ここに普通の暮らしからは離れた次元での師と子のふれあいといったもの要素も入ってくる。そして曲がバッハであるところが、一句の情調を決定づける。峻厳な構築性や崇高さ、それと豊麗な生命感の横溢をあわせもったバッハにして初めて、「日焼の子」が参入する世界を十全に表現することができるのである。ショパンやプーランクであったら句は別ものになってしまう。参入と変容が帯びる聖性が、「日焼の子」の、おそらくはまだ華奢な手足へとはね返り、輝かせる。


炭焼は猟人を師と慕ひをり  望月 周『白月』

望月周の「師」の句をもう一つ。

「慕」っているとはっきり説明されているが、一句の具体性を担っているのは「炭焼」「猟人」という二人の属性のみ。そこから二者二様の野趣あふれる身体性があらわれ、世間から隔絶した山中という場に包み込まれることになる。

閉ざされた環境での密接な関係ととれなくはないものの、しかし定住性が強く、薪炭林相手の「炭焼」と、自在に山中を移動して動物を狩る「猟人」との間に師弟関係とは成立するものなのか。句からわかることは「炭焼」側が慕っている(そして相手が自分の知らぬ智を持っていると思っている)ということだけで、「猟人」側がどう思い、どう扱っているのかについては何の手掛かりもない。片思いのようにも見える。読者も「炭焼」の視点と情報以上のものは共有できないので、結果として読者にも「猟人」が謎めいた魅惑を帯びた存在として提示されることになる。

現実と無関係な説話のような風情で設定が決まっている句なので、もはやBL読みされても文句がいえないというか、むしろそう読まれることを狙っているような感じさえする。紹介してはみたものの、そうした誘いにあえて乗るべきなのかどうか。ジャンルBL作品なみに設定やシチュエーションといったデータベース的な部分が剥き出しになっているので、妄想を膨らませるには、俳句としてかえってどこか過不足がある気もする。そしてそれは、あえてBLとして読まなくても、句がもともと持っている性質でもある。

なおこの句集『白日』には、ほかにも〈殴られにゆく夏シャツをたくし込み〉〈秋気澄む普段を知らぬ山仲間〉〈椿ふたつ井戸を落ちゆくさま思ふ〉など、BL寄りの鑑賞を誘う状況や設定が詠まれた句が幾つもある。


梅を噛む少年の耳透きとほる   西東三鬼『旗』

「少年の耳透きとほる」という中七下五は、今では手垢のついた始終あちこちで見かけるフレーズで、ネットでちょっと検索しただけでもすぐ幾つかの作例が出てくる。「少年の耳」に限らず、何かが透きとおり、それが美しいというのは、初心の頃にやりがちなことでもある。この句が収録された『旗』は、昭和十五年(一九四〇年)に出た三鬼の第一句集なので、当時は清新な表現だったのだろうし、上五に何を据えるかについても「梅を噛む」以上の作例は見ていない。

「透きとほる」は、物質がそのままで物質であることを超えてしまう事態へのややせっかちな感動をあらわすが、「梅を噛む」で酸味、香り、力感が付加された。というよりも、「梅を噛む」ことで生じた少年の体内感覚への直観をあらわしているのが「少年の耳透きとほる」なので、この句は上五に何を据えるかという作り方ではなく、初めから全体がワンセットで発想されたのかもしれない。ともかくこの句では、「透きとほ」って細工物のようになりかけた少年のきれいなイメージと、その肉体性とが、張りをもった統合を見せている。

この少年が人形か、ナノテクで作られた人工生命のような非人格的な存在に見えるのは、「噛む」ことで立ちのぼった味覚や嗅覚が「口」や「鼻」に行かず、「耳」を変化させるというすれ違いを演じているからである。つまりこの句で少年にまつわりついている視線は、少年の体内感覚を直観しながら、その身に同化してはいない。「噛む」ことで「梅」と相似た清冽さに浸潤された少年の生身を、顔の一部でありながらその個性や内面を全くあらわさない「耳」を通して、視姦するように味わっているのである。相手をモノ化してしまう視線は、このようにこぎれいさを外から賛美するだけの句には終わらせないほうが面白くなる。

なお「梅」だけでは春季の梅の花になってしまうのだが、ここでは実梅として鑑賞した。無季句が多い句集の作品だからということもあるが、何より、梅の花びらを噛んでいるのでは、少年の体内感覚の変化という要素がほとんど消えてしまうからである。


聖燭祭工人ヨゼフ我が愛す
  西東三鬼『旗』

「聖燭祭」というのは、ウィキペディアを引き写すと「主の奉献の祝日」とも呼ばれる西方教会(カトリック教会・聖公会・プロテスタント諸派)の祝日で、《イエス・キリストが聖母マリアとナザレのヨセフによって神殿に連れて来られた際の出来事を記憶して祝う》とある。イエスやマリアに比べて極度に影の薄いヨセフ(句中では「ヨゼフ」)だが、ここではちゃんと役割があるのだ。マリアは処女懐胎したことになっているので、ヨセフは「養父」でしかないのだが、篤実にその役割を果たしているといった立場である。

その控えめで奥ゆかしいところを「我」は「愛」しているとも取れるのだが、その裏には、史上最も有名な「寝取られ亭主」を虚仮にするかのような加虐的な「愛」という面も透けて見える。イエスやマリアそっちのけの濃密な感情のもつれが「我」と「ヨゼフ」の間に始まりそうであり、この「我」はさしずめ「鬼畜攻め」といったところなのだろう。人の悪い内容であるだけに、表面的にはごく敬虔に見える仕立て方が効く。

しかし一方、句集『旗』では、この句は〈咳きて神父女人のごと優し〉〈聖燭祭娶らぬ教師老いにける〉といった有名句と並びあっている。穏やかな高齢者への、奇妙に性的なもの(はっきり言ってしまえば性的不能性への偏愛)をはらんだ、しかし確かに敬意がないわけではないという視線は共通しているので、もし「我」が時空を超えて「ヨゼフ」にまみえたとしても、そうひどい扱いはしないのではないか。


冬天に彼と我が翼を搖る挨拶  西東三鬼『旗』

バスやタクシーなどでもすれ違うときに運転手同士が挙手の礼をとっているのを見かけるが、飛行機では翼を揺すり合うという形になる。ロックウィングと呼ばれるらしい。句集のなかでは「天路」という章題の、飛行機搭乗経験を詠んだ一連の中に位置しており、いわゆる戦火想望句ではない。

確かな腕前を持ったプロ同士による、すれ違いざまの軽業じみた無言のやり取りというだけでも色気があるが、冬天を飛ぶ機体同士の冷たさ、硬さがそれをさらに引き立てている。


さくら咲く少年遍路ふたりづれ  黒田杏子『花下草上』

普通の旅行ではなく「遍路」、それも若い人となると、何らかの事情や悩みがなければまず思い立たないのではないか。しかし「さくら咲く」「ふたりづれ」という言葉に挟まれた少年遍路は明るい風景を形作っている。背後に悩み苦しみがあることを自明視し、その上であえて希望を見いだそうとしているというよりは、連れ立って遍路に出る行為自体にユートピア性を見出しているようだ。あるいは少年遍路自体を仏の化身か何かのように見ているというべきだろうか。

また遍路同士は、遍路に出た理由を聞かないのがマナーらしい(自分から打ち明ける分には問題ないのだろうが)。そのことにより、この二人には、秘められた事情を介した紐帯という要素が発生する。初めから一緒であれば当然事情は共有されているだろうし、途中から道連れになったとすれば、互いの来歴を打ち明けるか否かのドラマ性が発生するからである。いずれにしても遍路中の少年二人は、さしあたりそうした事情の重さからは解放されている。「さくら咲く」により、少年同士の遍路道中の清浄さが、そのまま官能性に結びついているからである。


僧衣脱ぎ青年となる夏座敷  川本美佐子『水を買う』

仏教と若者を扱いながらも、この句は戒律の世界から生身の「青年」に返る瞬間を詠んでいる。初めからの裸体とも単なる脱衣とも違い、「となる」で存在の位相が変わっているのである。がらんとした直線性の際立つ「夏座敷」のなかで、「青年」の身の充溢はいやでも目に立つ。その身と「僧衣」の拘束性との矛盾や葛藤は、身がある限りおそらくゼロになることはない。その揺れ動きが発する色気が捉えられているのは確かなのだが、「となる」の連体形に、それだけでは片付くことのない目立たない飛躍がある。現実にはありえないが、文法上は「夏座敷が僧衣を脱いで青年となった」という意味が発生してしまうのである。青年の身の欲動も、「僧衣」との葛藤も、全ては「夏座敷」の空性のなかでの出来事というニュアンスが秘かに生じている。これが仏法に則っただけの一般論に落ちていないのは、「夏座敷」が空っぽの場であると同時に、ごく狭い一区画という性質をも持っているからだ。この句の事件を構成しているのは「僧衣」と「青年」だけではなく、そこに「夏座敷」を加えた三者の揺らめき合いなのである。〈真中に僧が帯解く夏座敷〉柿本多映のBL的変奏とも取れる。

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関悦史 はーと

野郎からの宛名に「♡(はーと)」冬雲雀

白大理石のガニュメデス抱く如く冬

ぶつかりてヤンキー華奢やクリスマス

冬ぬくく後輩無防備に寝るよ

二少年もぐりうごめく毛布かな

冬薔薇白し「同性愛は死刑」

枯野われ美少年らの尿を浴び

恋猫を真似て吼ゆるや男の子

抱き付かれ男体硬し生ビール

裸身毛深く縛られ男の娘(ヲトコノコ)に入れられ

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