2015-08-30

自由律俳句を読む 107 「尾崎放哉・種田山頭火」を読む〔1〕 畠働猫

自由律俳句を読む 107
「尾崎放哉・種田山頭火」を読む〔1〕

畠 働猫


せきをしてもひとり  尾崎放哉

まっすぐな道でさみしい  種田山頭火


<略歴>

尾崎放哉(おざき ほうさい 1885 - 1926)
本名、尾崎秀雄。鳥取県邑美郡吉方町に生まれる。
14歳から俳句や短歌を詠む。無論、この頃の句は定型である。
1902年(17歳)、第一高等学校(一高)文科に入学。
翌年、荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)と出会う。
1905年(20歳)、東京帝国大学入学。24歳で卒業、通信社勤務を経て東洋生命保険に就職。この年、井泉水が句誌『層雲』を創刊。1915年頃より『層雲』に寄稿。この頃より自由律俳句を詠むこととなる。
1921年(36歳)、東洋生命保険を退職。翌年、朝鮮火災海上保険に入社し、朝鮮へ赴任するも約1年で免職。その後満州へ渡るが、肋膜炎が悪化し、帰国。妻とも離縁する。
1923年、京都の修行場・一燈園へ。翌年から知恩院、須磨寺、常高寺の寺男として転々と所在を移す。
1925年、常高寺の破産に伴い、一時、京都の井泉水のもとへ身を寄せる。
8月、「海の見える所で死にたい」という放哉の願いに、井泉水は八方手を尽くし、小豆島西光寺奥の院、南郷庵(みなんごあん)を紹介する。以降、最後の8か月を過ごす。そこでの句作は3000句にも及ぶ。
享年41。


種田山頭火(たねだ さんとうか 1882 - 1940)
本名・種田正一。山口県佐波郡西佐波令村の地主の家に生まれる。
1892年(10歳)、母フサが自宅の井戸に身を投げ自殺。
1896年(14歳)、私立周陽学舎入学。俳句はこの頃より詠まれ始めた。
1902年(20歳)早稲田大学大学部文学科に入学。2年後、神経衰弱のため退学。
この頃、種田家は相場取り引きに失敗。
1906年(24歳)、父竹治郎が古くからの酒造場を買収し種田酒造場を開業するも2年後、酒造に失敗、防府に残っていた家屋敷を全て売却。
1909年(27歳)8月、結婚(妻サキノ)翌年に長男(健)誕生。
1913年(31歳)、荻原井泉水主宰の『層雲』へ投稿。俳号に「山頭火」を用い始める。
1916年(34歳)種田家破産。妻子と熊本へ移る。熊本市内に古書店(のちに額縁店)を開業。2年後、弟(二郎)が自殺。
1919年(37歳)、妻子を残し、上京。翌年離婚。
1923年(41歳)、関東大震災に被災。熊本の元妻のもとへ身を寄せる。熊本市内で路面電車を止める事件を起こしたことをきっかけに、市内の報恩禅寺へ預けられ寺男となる。
1924年(42歳)、得度。「耕畝(こうほ)」と改名。
1925年(43歳)から以降7年余り、鉄鉢を持ち、九州から四国、中国地方へと行乞の旅に出る。旅先で句作を行い、『層雲』へ寄稿。
1926年4月、『層雲』同人の尾崎放哉死去。山頭火にとっては3歳年下の放哉の死に思うことがあったのであろうか、1928年(46歳)には、小豆島の放哉の墓を訪ねている。
1932年(50歳)、行乞の旅を終え、郷里である山口県小郡町に「其中庵(ごちゅうあん)」を結庵。以後、自殺未遂、東北地方などへの旅を経て、1938年(56歳)に山口市湯田温泉街に「風来居」、翌年、松山市に「一草庵」を結庵。
1940年10月10日、「一草庵」では句友たちが集まり、句会が行われていた。山頭火はその間、隣室でいびきをかいていたと言う。実はこれは脳溢血であり、山頭火を起こさないように帰った者たちの一人が翌朝、様子を見に戻ったところ、すでに亡くなっていた。享年58。
句集に『鉢の子』、『草木塔』、『山行水行』


*     *     *


私が初めて自由律俳句に触れたのは、おそらく中学生のときの教科書であったかと思う。掲載句に放哉の「せきをしてもひとり」があった。
初見の衝撃は、句そのものではなく、「自由律」という言葉にあったように思う。
昭和に思春期を過ごした自分にとって「自由」という言葉には特別な意味があった。当時の少年にとっては、体制や権威は反抗しなくてはならない対象であり、ルールや支配は壊すべき檻であった。我ながら青かったと思うが、そういう時代の空気は確かにあったのだ。
教科書で習う俳句や短歌の定型は、ひたすらに退屈なものだった。そんな折、ページの端に申し訳程度に紹介されていた「せきをしてもひとり」が目に飛び込んできたのである。
「ああ、こいつはいいな」と思った。その自由さが気に入った。
中学一年生のとき、父が精神を病んだ。
「せきをしてもひとり」との出会いはその前後であったように思う。
私が中学までを過ごした町は小さな田舎であり、父のことは誰も彼もに知られているように思えた。私は自然と人を避けるようになり、少し大きな街の高校へ進学し、故郷を逃げるように離れた。
一人暮らしをし、新しい友人や恋人もできた。このまま順調に生きてゆけると思っていた高校一年の秋に、父が自殺した。
悲しみよりも先にほっとしたのを憶えている。
「病んだ父」ではなく「死んだ父」であれば、もう隠す必要はない。
そう思った。
そして私の心には「人は死んでしまう」という思いが、深く根を張ることになった。些細なこと、些細な言葉で人は死んでしまう。
父に最後に投げかけた言葉が、父の背中を押したように思い、長く罪の意識を抱くことになった。人と関わることへの恐れが生まれた。そして、家族を築きいつかそれを自分で壊してしまうことへの恐怖に支配された。
いつか自分も父と同じく病んで自ら命を絶つだろう。それを定められた運命のように信じた。
書くことは小学生の頃からしていたが、この時期、中学から高校にかけての時期は、書いても書いても次々に描くべきことが浮かびあがり、書けば書くほど過呼吸のように苦しくなった。書かなければ生きてはいられず、書けば自分を傷つけるように思えた。
のちに恩師となる方が自分を「存在の根源から発する哀しみ」と形容してくれたように、自分の主題は一貫して「孤独」と「哀しみ」であったように思う。
放哉の「せきをしてもひとり」はいつも頭の片隅にあった。
その後、大学へ進み就職し、仕事に没頭するようになった。詩や小説に理想を描き続けながら、現実においても自他に厳しく理想を求めた。
しかし現実は理想とは異なるものだ。危惧した通り、何年かのちにバーンアウトを経験することになった。
呪いのようにそれは起こった。
そして復職を境に、何も書くことができなくなっていることに気づいた。
それまで湧き続けていた井戸が枯れたように、「書くべきこと」が何もなくなっていた。
しかしそれを自分は肯定的に受けとめていた。
その必要がなくなったのだ、と。
32歳からの5年間を、書くことなく心穏やかに過ごした。
すでに過去の記事で述べたように、そのような時期、2011年から2012年にかけての時期に又吉直樹の句集に出会うのである。
私には「存在の根源から発する哀しみ」があった。
どんなに心穏やかに過ごしているつもりでいても、結局自分は修羅であった。
自らの心中を表現せずにはおれない衝動が再び蘇ってきたのである。
「せきをしてもひとり」。
その放哉の句が、真の意味で光を放ち始めたのはこの時である。
自由律俳句こそ、自らの主題である「孤独」を表すツールとして最適であるように思えた。
そして私は再び、表現するという修羅の道に足を踏み入れることとなった。

今回取り上げた2句は、そのような「孤独」をほとんど完全な姿で表現した句である。


せきをしてもひとり  尾崎放哉

「せきを」「しても」「ひとり」。3・3・3の音で構成されるこの句は、最小限の要素で完成された宇宙である。まったく過不足がなく、完全なかたちで孤独が表現されている。「孤独」を単に寂しさや惨めさとして捉える者には、この句の真意はつかめないだろう。
「孤独」から目を逸らさずに、向き合ってきた者のみが感応し得る世界が、この句の背後に広がっているのである。それは禅宗における「無一物」の境地かもしれない。全く違う何かかもしれない。残念ながらまだ自分にはそれを表す言葉がない。実感できる何かではある。だが何と言えば伝わるのかその術がない。
しかしほかの言葉でこの句の「孤独」を説明できるのであれば、句である意味はないのである。
自句も含めて、自由律俳句において、未だこれを超える句に出会ったことがない。


まっすぐな道でさみしい  種田山頭火

どのようにも共感できよう。
私は「まっすぐさ」にさみしさを読み取る。あそびのない道である。どこまでも見通すことができる。そして見渡す限り、誰もいないのであろう。
まっすぐなのはこれから進む道だけではない。振り返る道もまたまっすぐで、同じく誰もいない。来し方行く末を、その孤独を思うのである。
山頭火の句の特徴は、自らを客観視する視点であると思う。
この句でも、道をゆく自分を離れて、はるか上空から眺めているような印象を受ける。この先も、これまでも長く続くまっすぐな道の上に、ぽつりと立っている自分を思う。


*     *     *


放哉の「孤独」と山頭火の「孤独」は全く異なるものである。
「せきをしてもひとり」が完全なる宇宙の「全体」であるのに対して、「まっすぐな道でさみしい」は切り取った「部分」である。
切り取られた向こう側に、他者とつながる余地がある。
放哉の孤独を「本来無一物」に近いものとするならば、山頭火の孤独は、カムパネルラを失ったジョバンニの孤独に近い。
一般的な共感の度合いは、後者の方が高いだろう。
世間的には山頭火の方が認知度や評価も高いように感じる。
その理由の一端には、「孤独」の描き方があるのかもしれない。


次回の予定は、「尾崎放哉・種田山頭火」を読む〔2〕。

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