2015-08-09

【週俳7月の俳句を読む】ひらひらして夢のなかへ 陽 美保子

【週俳7月の俳句を読む】
ひらひらして夢のなかへ


 陽 美保子



佳き句より付箋はみ出て梅雨籠   仮屋賢一

句集を読むときに共鳴句に付箋を付けてゆくのは読者であることはいうまでもない。また、読者によってその付箋の場所が異なるのもいうまでもない。付箋が付けられた句集の状態をただ客観的に詠んだだけのように見える掲句だが、このように詠まれると、しかし、佳句が自ずから付箋を生やして、句集からはみ出し、「私を読んで!読んで!」と叫んでいるような錯覚を覚えて面白い。「梅雨籠」であれば、付箋も梅雨茸のようににょきにょきとさぞかしたくさん出ていることであろう。

扇風機表紙の海のひらひらす   安里琉太

作者が沖縄出身という先入観があるからだろうか、掲句からは「ひらひら」しない大きな海がその向こうに広がって見える。扇風機は首を振っている。扇風機が本に当たるたびに、その表紙の絵または写真の海が「ひらひら」と音を立てて舞う。この海は「ひらひら」として飛んでいき、その向こうに広がる海へと戻るところ。これはもう半夢半醒の世界・・・いつの間にか一眠りして、目覚めると相変わらず扇風機が首を振っていた。

吾もまた灼くるひとつとしてゐたり    安里琉太

『季寄せ』で「灼く」の項を見てみると、「灼くる道」「灼くる岩」「灼くる砂」「灼くる雲」「夜雲灼く」「舗道灼く」「灼け渚」「灼岩熱砂」「日焼岩」などの傍題がある。水・雲も鉱物の範疇と拡大解釈すれば、灼ける対象は鉱物と限定してもさしつかえない。ちなみに「鉱物」の定義は、「地殻を構成する天然の均質な無機物」とある。さて、すべてのものが灼けそうな暑さの中、自分も物のひとつとして、いや、もはや有機物ではなく無機物のひとつとなって灼けてしまうと感じる。「ゐたり」はすでに無機物となっている表現である。これは、理屈ではなく実感かつ直観。

髭剃りへ風来る窓だ   馬場古戸暢
吊れない首が汗かく

一連の作品はさながら現代版山頭火。自由律俳句は山頭火や放哉が出し尽くした感はあるが、時代が変わればまた違う俳句もできるかもしれない。しかし、音数が少ないだけに(音数が多ければもはや俳句ではないだろう)素材は変わっても、一度使われたリズムには既視感が纏いつく。「自由律」といいながら、かなり不自由な形式である気がする。定型俳句は五七五であるが、そのリズムに乗っても、それだけでは既視感は生じない。そう考えると、定型俳句のリズムはかなり堅牢だと言える。無論、作者はそれを百も承知で挑戦しているのだと思う。今後どのように自由律を追求されるのか楽しみだ。


第429号2015年7月12日
仮屋賢一 誰彼が 10句 ≫読む
安里琉太 なきごゑ 10句 ≫読む
第430号2015年7月19日
馬場古戸暢 一日 10句 ≫読む
竹岡一郎 炎帝よなべて地獄は事も無し 30句 ≫読む
第431号2015年7月26日
青本柚紀 円 10句 ≫読む
生駒大祐 夏の訃 10句 ≫読む

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