2015-08-23

山口誓子「マドロスの悲哀」と「走馬燈心中」 福田若之


山口誓子「マドロスの悲哀」と「走馬燈心中」


福田若之

「群青」第5号より転載

それは山口誓子『黄旗』に現れる二つの連作の連続であり、それぞれ、「マドロスの悲哀」と「走馬燈心中」という題が付けられている。
マドロスの悲哀

紅き帆の練習船の走馬燈

船體の透き間だらけの走馬燈

走馬燈船の上にも海を()

消えんとて海のかぐろき走馬燈

海底に餘燼なほ見ゆ走馬燈



走馬燈心中

走馬燈海藻郡の海を描く

舳のかるき舟に男女(なんにょ)や走馬燈

走馬燈死にゆくふたり舟を漕ぐ

青潮の流れ(しるけ)き走馬燈

水上署ボート端艇あやつる走馬燈
ここに登場する「走馬燈」は、もちろん装置としての走馬燈だ。虚子は『新歳時記』でこれを盆の時期のものとし、八月の季題に分類している。「走馬灯」を夏の季題とし 、秋の盆とは季節が異なるとする認識も一般的だが、誓子は連作を句集に収めるときに季節順のかたちをとっていないので、誓子がこの季題をいつのものと捉えていたのかは判然としない。ここではさしあたり、同時代の虚子の季題認識にしたがってこの連作を考えてみる。 

誓子の連作俳句と映画のかかわりを意識するとき、走馬燈がモチーフとして興味深いのは、それが、古くから日本に伝わる、映画前史上の主要な光学装置のひとつだということである。このことが意味しているのは単に技術的にではなく、むしろ美学的に、走馬燈は映画の基礎を形成したということだ。つまり、芸術形式として、走馬燈には映画との深いかかわりがある。このことに誓子がどれほど意識的だったかは分からないが、この季題の選択には、映画のモンタージュを連作俳句に取り入れようとした誓子の意識の反映を読み取ることができる。 

まず、「マドロスの悲哀」から。第一句と第二句は走馬燈の映し出す船の描写である。第一句では、火の色を反映した――あるいは、カラーセロファンのようなものを使った色の表現とみてもいいかもしれないが――「紅き帆」を描き、第二句では、切り紙という媒体の特質による「船體の透き間だらけ」という幻想的なイメージを語っている。そして、第三句から第五句にかけて、「描く」「消えん」「餘燼」という語によって、光学装置としての走馬燈のありようを描写することで、火の弱まりとともに幻想から帰ってくる意識、幻想の終わりによって幻想が幻想であったことを再認する意識を再現している。 

「マドロスの悲哀」が幻想から現実へ立ち返る物語だとすると、「走馬燈心中」はそこから再び幻想へ戻っていく物語だ。この第一句は「マドロスの悲哀」の第三句と似ている。「描く」と述べることで、まさしく走馬燈に何が描かれているかを語ったものであることがはっきりと示してある。つまり、この句では、意識は走馬燈を外から眺めている。しかし、第二句以降はどうか。 

ここに現れるのはある一組の男女の心中の物語であって、走馬燈はフィクションの枠として存在を明示されながらも、その物語の中心にはなっていない。唯一、第四句が明確に全体として走馬燈を叙述するかたちをとっているが、その描写の中心は第三句で描かれた「死にゆくふたり」を飲み込む「青潮」にある。そして、第二句、第三句、第五句については、「走馬燈」と他の叙述とはそれぞれ独立の文を構成しているように読める。この語りは、単に描写の中心をフィクションにすることで比重をそちらに置くという以上に、文の断裂によって、心中事件の全体が、走馬燈とは別個の実体をもって存在しているかのような印象さえ与える。フィクションがフィクションであることを支えていたはずの「走馬燈」が、繰り返される言及のなかでそうした働きを弱めていき、最後にはその機能をもはや果たさなくなってしまうどころか、形骸化した具体物として、あたかも同じ現実の層の上に心中と走馬燈が並んで存在するかのように語られることで、ついにはフィクションであるはずの出来事の現実性が引き出される。「マドロスの悲哀」で走馬燈が具体物として充分に描写されている分、ここでのそうした手法はいっそう効果的だ。そして、この手法がもたらすものこそ、T・トドロフが『幻想文学論序説』のなかで「幻想はためらいの間しかつづかない。このためらいは読者と作中人物に共通のものであり、彼らは自分の知覚しているものが、世の常識で言う「現実」に属するものかどうか、決定しなければならないのである」と語った、テクストを幻想的なものにするあのためらいなのである。 

そして、「走馬燈」の季題が内包する、死者の魂が帰ってくるとされる盆の時節に独特の感慨と、死ぬ間際のフラッシュバックの比喩としての「走馬燈」という語のもつ象徴的な意味、さらには、原義的な意味でのアニメーション――生きていないものに生を与えること――の装置としての走馬燈に伴う擬似的な生のイメージが複合的に働きながら、この現実と非現実のあいだの往来の物語、幻想的な物語を、「心中」という生から死へ向かうあいだの物語へと引き寄せていく。これらのイメージの力と手法の効果によって、誓子は、連作全体の「走馬燈で絵が動く」という出来事を物語る言葉に、さまざまなニュアンスを付加したのである。




ウェブ版のみの付記:本稿は、「群青」連載記事のひとつ、福田若之「物語としての俳句1として書かれた

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