2015-08-30

【八田木枯の一句】天の川熟水は死のごとく在り 角谷昌子

【八田木枯の一句】
天の川熟(ゆざまし)は死のごとく在り

角谷昌子


第5句集『夜さり』(2004年)より。

天の川熟水
(ゆざまし)は死のごとく在り  八田木枯

窒息しそうになるほど暴力的だった猛暑がはたとおさまり、夜風が心地よく家の中にも吹き入るようになった。虫の声に誘われて庭に出てみると、月は煌めきを取り戻している。夜空を仰ぐには良い季節になった。秋到来の実感である。

かつて海外派遣先のオーストラリアの乾燥地帯で天の川を仰いだことがある。はっきりと太い流れをなす天の川は、銀砂子をぶちまけたようで、その迫力に圧倒された。粒立った星々の中に、あこがれの南十字星を見たことよりも、銀河の生々しい脈動の方がはるかに強烈だった。

我々の宿舎は羊の毛刈り職人のためのもので、時期外れで空いていたため、使うことができた。実に簡素な木造のバラックだった。砂漠の気候と同じく、昼は大変暑く、夜は気温が低くなる。仲間のなかには、屋内も戸外も同じだと、ベンチを寄せて簡易ベッドを作り、満天の星を仰ぎながら眠りに着く者もあった。

砂だらけの大地には、あちこち滑らかな岩が露出している。それらは、何百万年も前、氷河が移動した跡だと地元の住民が教えてくれた。夜中には周囲に灯がひとつも見えない。迫る星々を眺めていると、太古から脈々と続く時空の中に呑み込まれてしまいそうな怖ろしさで潰されそうだ。平原のかなたに突然、稲妻が走ると、天と地の近さを眼前とする。まるで聖書の天地創造の場面のようで、思わず粛然となる壮大な光景だった。

掲句〈天の川熟水(ゆざまし)は死のごとく在り〉を読んだとき、豁然と目の前にあのオーストラリアの銀河がよみがえった。頭上の神秘なしろがねの帯から、ひとすくいの水をいただき、死出の旅立ちのときは、唇を湿したいものだ。天の川を眺めると、ふつふつと生死の思いが胸にこみあげる。作者はというと、天の川を仰ぎながら、〈熟水は死のごとく在り〉という感慨を抱いた。しかも「湯冷まし」ではなく〈熟水〉を用いて「ゆざまし」と読ませている。「湯冷まし」だと煮沸して滅菌処理をしたものなので、水そのものが有機性を失い、或る意味、死んでいるのかもしれない。それを敢えて「熟水」としたところに、熱湯から人肌へ、さらには冷えてゆく水の変遷過程を捉えた意味合いが出るだろう。その時間経過を含んだ「熟水」の存在は、雑念を払い、次第に純化される魂への思いを仮託しているとも思える。この世のしがらみに煩わされることこそ「生」だとすると、さまざまな絆を断ち切り、此岸に別れを告げて彼岸に渡る「死」は、時充ちて成熟に至った水そのもののようなのだ。「死」を成熟の到達点としてあらたに仰ぎ見る天の川は、いのちの源のように輝きを増して澄み渡っている。

『夜さり』にはほかにも、天の川を描いた〈父老いて銀漢の尾を捌きをり〉〈軍服はたるみ銀河にぶらさがる〉〈天の川われも鱗はしろがねぞ〉〈笄をひるの銀河に匿しおく〉がある。広大な宇宙の中の「天の川」と対比させ、いずれもいのちの哀しさを凝視した末の、無常観のにじむ句である。



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