2015-10-04

自由律俳句を読む 111 「中筋祖啓」を読む〔2〕 畠働猫

自由律俳句を読む 111
「中筋祖啓」を読む2

畠 働猫



趣味 すばやさ  中筋祖啓
この世のものとは思えない この世のものの味がする  同
何もいないだったのが 何もかもが居る そして涙 ただの味  同
なんかちょっかい出したくなる髪だ  同
今一度生まれ変わった星に居る  同
虹色に暮れてゆくのが農村だ  同
野焼きの山覚醒する夕日オレンジまみれ  同
溶けたのか世界が雲へ消えてゆく  同


前回に続き、中筋祖啓の句を鑑賞する。
今回は【問題句】を一句、【無】についての二句、【無邪気さ】の見える一句、そして【原始の眼】が味わえる句を四句、合計八句を紹介したい。



【問題句】
趣味 すばやさ  中筋祖啓
祖啓句の中で、最も問題であり、最も代表的な句がこれであろう。
誰もが初見で意味はとれず、この句の前に思わず足を止めてしまうだろう。
いったい何を言っているのか。「すばやさ」が趣味とはどういうことなのか。
「なんだこりゃ」と笑い飛ばせるならそれが一番である。
以後、人間として幸福に生きてゆくことができるだろう。
しかし修羅として生きる表現者にはそれはできない。
まずこれは句なのか?という疑念が湧く。
無論、以前の回で述べた、私の考える名句の条件からは逸脱している。
ではこれは句ではないのか。
そもそも句とは?
自由律俳句とは何なのか?
この句の前に私たちは自らの定義を揺さぶられることになる。
自らの定義から遠いからと言って、これは句ではない、と切り捨てることもできるだろう。しかし私はそれは表現者として敗北であると思う。
ではこれを積極的に句として認めるように「自由律俳句」を定義できるのか。
「句」と「それ以外」を分ける定義が明確にできるのか。
「趣味 すばやさ」は、自ら勝手に自由律俳句を定義し、作れるつもりになっていた私たち表現者の肩を警策で打つ。
自らの作句を振り返り、自由律俳句を名乗りながら、なんと不自由であったかと嘆く。できるつもりでいたことがなんという思い上がりであったことかと赤面する。
句とは何か?
禅における公案のような問いを、「趣味 すばやさ」は発しているのである。
そして私はまだそれが解けないでいる。



【無】
この世のものとは思えない この世のものの味がする  中筋祖啓
何もいないだったのが 何もかもが居る そして涙 ただの味  同
夏目漱石の「夢十夜 第二夜」にも取り上げられている公案に「狗子仏性」がある。
ある僧に「犬にも仏性はあるか」と問われた趙州という高僧が「無」と答えた。という公案である。「仏性」すなわち、仏と成る性質は、本来すべてのものが備えている物である。しかし高僧である趙州の答えが「無」であった。では、「無」とは何か?
私自身はこの公案を「夢十夜 第二夜」で知り、和尚の薬缶頭を刎ねるべく「無」について考えるようになった。私も悟りを得たいと考えたのだ。
数年前に一応の解答案を得ることができた。
以下は私なりの解釈である。
「無」とは、「何もかもが無く、何もかもが在る状態」である。
つまり趙州曰く「無」とは、犬の中には「無」すなわち「何もかもが無く、何もかもが在る状態」が在り、仏性もまた可能性としてそこに内在されているということだ。「一切衆生悉有仏性」の通り、犬にも成仏の可能性は在る。しかしそれは可能性として存在しているのであって、「無」の状態のままでそこに必ずしも至れるということではない。
このように論理によって私は「無」を完全に解いたつもりでいた。
ところがその何年か後、ある女性に「『わからない』を論理で解くことは理解ではない」と反駁され、ハイボールのせいもあり、ひどい混乱状態に陥った。
悟りは論理では至れないものなのだろう。
さて、祖啓の句である。
ここに挙げた二句は、その「無」への回答であるように思うのである。
「趙州曰く『無』。『無』とは何か?」
そう問われて、上記の私のような理解をつらつら述べても、薬缶和尚は嘲笑うだけだろう。
しかし祖啓ならば、同じ問いへの答えとして
この世のものとは思えない この世のものの味がする
と答えて舌を出したり、或いは履いていた草履を頭に乗せて、
何もいないだったのが 何もかもが居る そして涙 ただの味
と言って帰ってゆくのだろう。
悟りとはどうもそういうものらしい。
Don't think Feel
私には難しいことだが、祖啓は自然体でそこに至る。
「原始の眼」とは大悟へ至る道なのかもしれない。



【無邪気さ】
なんかちょっかい出したくなる髪だ  中筋祖啓
「松島や野分は妻の髪にも吹く(橋本夢道)」への連れ句として詠まれた句である。これも句なのか、と問われると少々つらい。しかし祖啓句によって感覚を麻痺させられた者は、なんかいいかもと思ってしまうのである。
これも「原始の眼」に付随する無邪気さの発露のように見える。
ただ、この句が単一で句会に出たら取るか、と言われると取らないだろうなあとも思う。



【原始の眼】
今一度生まれ変わった星に居る  中筋祖啓
この句こそが「原始の眼」を端的に示しているのではないだろうか。
生まれ変わって見るこの星のすべては、驚きと発見に満ちていることだろう。
今まさにそうした眼を持って、あらゆる物を見つめている。
その興奮がこの句にはある。

虹色に暮れてゆくのが農村だ  中筋祖啓
そうした眼で見たとき、この星の何の変哲もない農村にここまで様々な色を見出すことができるのか。
そして、これこそが農村だ、という発見の報告である。
「原始の眼」でしか見ることのできない世界をどうにか我々に伝えたいという意志を感じる。
「末期の眼」に比して、原始人や赤子の眼である「原始の眼」はポジティブで明るいもののようにも見える。
しかし実際には、どちらも孤高であることに変わりはない。
だから同じ眼を持ち得る者を狂おしく求め続ける。
表現者とはかくもひどく悲しい修羅であるのだ。

野焼きの山覚醒する夕日オレンジまみれ  中筋祖啓
「覚醒」という見立て、「まみれ」という主観が「原始の眼」の賜物である。
少々冗長で語り過ぎに見えるが、祖啓句の場合、語り過ぎても結局のところ何を言っているのかわからないことが多く、「言い仰せて何かある」という句にはならない。

溶けたのか世界が雲へ消えてゆく  中筋祖啓
観念的な句と見えるかもしれない。
しかし、作者の「原始の眼」を知った上で鑑賞するとき、この光景を実際に見ているという可能性を捨て切れないのである。
それは同じ眼の持ち主にしか感応できない光景。
ヨハネが見た啓示のように、ある種の者にしか見えない世界。
中筋祖啓の表現欲求とはまさにそうした、自分にしか見えない世界を伝えたいという意志(或いは使命感)に根ざしているのかもしれない。



*     *     *



今回取り上げた句群のうち三句がそうであるように、中筋祖啓の句は575の定型を取ることが多い。
より強いリズム、より心地よい音楽性を追求した結果そうなるのであろう。
それだけ575のリズムは強力なものだ。
内容は何であっても、575に落とし込めば、とりあえず俳句らしいものになってしまう。
しかし祖啓の句の場合には、世界観自体が自由すぎるために、定型に当てはまってしまったとき、まるで標語のような陳腐な句になってしまうことがしばしばある。
定型の甘美で強いリズム。
しかし、より自分の世界観を表現するためには、安易にそこへ拠ってはいけない場合もあるのだ。

さて次回からは、そうした定型からより遠くへ表現の幅を広げようとした俳人を紹介したい。いわゆる長律と言われる作品を多く残した俳人、平松星童を取り上げる。




次回は、浪漫派「平松星童」を読む〔1〕。

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