2015-10-25

俳句の自然 子規への遡行46 橋本直

俳句の自然 子規への遡行46

橋本 直
初出『若竹』2014年12月号 (一部改変がある)


芭蕉の高弟である宝井其角が、その編著『句兄弟』において以下のように書いている。

  縦の題には古詩、古歌の本意をとり、連歌の式例を守り 
  て、文章の力をかり、私の詞なく、一句の風流を専一に
  すべし。横の題にては、洒落にもいかにも、我思ふ事を  
  自由に云とるべし。

すなわち、横題の季語は本意本情を尊ぶ必要がなく、自由に詠んでいいということである。前回も触れたが、いま注目している季語「鶏頭」は、この横題にあたる。

前回、子規の分類した近世の鶏頭の句から、その詠まれ方の傾向を整理し一一の項目にわけたが、それはいわば、その其角の言うところの「自由」が江戸時代にどのように行われていたのかの中味を分析したことになるだろう。そして、虚子の『新歳時記』の説明は、その詠まれ方の傾向にも合致していることを最後に指摘しておいたが、紙幅の都合で書き足りなかった部分を補足しておくと、具体的には、「妖艶といふよりどこか陰鬱」な印象、「佛花」に使われること、「小さい花が無数にむらがり咲いてゐる」特徴、「霜が降りはじめる頃まで枯れない」花期の長さ、「小さい實を一杯持つてゐる」(つまり種が多い)等の性質やイメージのことをさす。

この、近世以来自由に詠まれてきたはずである鶏頭の、その詠まれ方をさらに時代を下って確認してみようと思う。

まずは、子規の鶏頭の句についてである。子規の鶏頭と言えば、なんと言っても明治三三年の句会で詠まれた「鷄頭の十四五本もありぬべし」がよく知られているだろう。この句については後に検討するとして、まず全体の傾向を追う。子規が鶏頭を詠んだ句は、確認できたところで五十三句あった。そのうちいくつかを引く。

まず、写生を知る前の習作期。
 
  イ 鷄頭や壁のやぶれた夕日影    明治二四
  ロ 鷄頭や馬子がきせるの雁首に     二五
  ハ 何もかもかれて墓場の鶏頭花     二五
  ニ 百姓の垣に菊あり鶏頭あり      二六
  ホ 裏町は鷄頭淋し一くるわ       二六
  ヘ 鷄頭や賤が伏家の唐錦        二六

イは花の色や形のイメージを「壁のやぶれた夕日影」と「夕日」に重ねる点で、前回あげた①の「色から連想される日・火・炎・灯への見立てや対比」に当たる。ロは葉鶏頭の異名「雁来紅」ときせるの「雁首」をかけた着想であり、ヘも同じく鶏頭の古名「韓藍」と「唐錦」の連想を指摘できよう。これらは前回挙げた⑤「異名(韓藍・雁来紅)からの連想」にあたる。さらに、このヘの句の貧家の鶏頭を上等な織物と見たてる趣向は、前回挙げた⑤の例句b「鶏頭や紅錦繍の裏住居」との類似を指摘できよう。子規は、自作に先行する類句がある場合は削除しているが、どうやらこの句には気づいてはいなかったようである。

ハ句は⑧「仏前に供える花」にあたろう。ニホ句は貧家の侘びしさの中の句である。虚子の歳時記の解説にいう「どこか陰鬱」に通じる傾向であり、イハニも同様である。その中で花に一縷の明るさを見て取れる点で①に当たると考えることができようか。いずれにせよ、これらは総じて、近世の発句の趣向をでていない句群とみてよいと思う。次に、子規が写生を方法に取り込んだ明治二七年以降の句をみる。

まずはその写生の句をいくつか引く。

  鷄頭のうしろを通る荷汽車哉     明治二七
  鷄頭の夕影長き畠かな          二九
  村會のあと靜かなり鷄頭花        二九
  鷄頭に大砲ひゞく日午也         三一
  鷄頭の短き影や蟻の穴          三一
  鷄頭の花にとまりしばつた哉       三三
  萩刈て鷄頭の庭となりにけり       三三

これらのように、近世の句にあったなんらかの趣向を念頭においた句作りとは違って、なんでもないただの風景をただの風景として詠んだこれらの句群は、子規の真骨頂と言っていいのかもしれないが、案外にそのような句の数が多くない印象を持つ。さらに、写生を称え始めて以後の子規がすべて写生の句を詠んでいたわけではなく、引き続き近世のそれと同様の趣向の句がある。再び前回の近世の句を分けたものを用いて子規の句にあてはめてみると、

 ①色から連想される日・火・炎・灯への見立てや対比
  鷄頭や油ぎつたる花の色      二七
  鷄頭や雨の夕日の壁を漏る     二七
 ⑥花期の長さによる
  秋盡きんとして鷄頭愚也けり    二九
  鷄頭や二度の野分に恙なし     三三
 ⑩仏前に供える花  
  佛壇に鷄頭枯るゝ日數哉      三一
  鷄頭活けて地藏を洗ふお願哉    三二

①の句の「油ぎつたる」というのは、鶏頭花の生命力のぎらぎらした感じを子規なりに言い留めた工夫かもしれないが、油と「灯・火」との連想の親和性は高いだろう。その他も、先の江戸の句群に混ぜるとほとんど大差のない句と言えるのではないだろうか。次回では、子規独特の鶏頭の句の表現について検討し、さらに子規以外の句にも触れてみたいと思う。

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