2015-10-25

【八田木枯の一句】子どもには子どもが見えて秋のくれ 角谷昌子

【八田木枯の一句】
子どもには子どもが見えて秋のくれ

角谷昌子


第五句集『夜さり』(2004年)より。

子どもには子どもが見えて秋のくれ  八田木枯

かくれんぼをして遊んでいたものの、見つけてもらえず、忘れられたまま、ほかの子どもたちは、みんな帰ってしまった。あたりがとんと暗くなり、急に不安になって物陰から出て来たその子は、きょろきょろと木立や道を見回し、自分だけが取り残されていることを知る。

その子は、〈子どもには子ども〉なんて決して見えていないのだと、いや、見えないより、忘れられることのほうがもっと哀しいと、拳を握りしめて帰ってゆく。
その子は、自分の夢想の友人を持つようになる。期待しなくてもすむ、現実には存在しない、座敷わらしのような、特別な力をもつ子どもを友とする。その友は、いつでも一緒に居てくれて、その存在を常に感じられ、呼べばにっこり現れる。どんなことがあっても、自分を見捨てたりしない。

掲句の〈子ども〉は、そんな不思議な存在のように感じられる。普通の〈子ども〉ではなく、必要とする者にだけ、見える友なのだ。純粋なこころを持つ者が求めれば、ちゃんとその姿を見ることができる。秋の暮の闇が迫るころ、ひそかに名前をつぶやくと、ひょっこり顔をのぞかせてくれる。やがて〈子ども〉が成長してそんな特別な〈子ども〉なんて居ないと思うようになると、もう全く見えなくなってしまうのだろう。

八田木枯は、この句を、大人には子どもがちゃんと見えておらず、見えるのは子供同士だから、などと教訓的な意味合いをこめて、作ったとは思えない。異界から現世にやってきて、ふっと物陰からこちらを上目づかいに見ているような〈子ども〉を描きたかったのではなかろうか。郷愁をさそう、だが、ちょっと怖いような〈秋のくれ〉、「夜さり」の雰囲気を一句に詠み込んだに違いない。


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