2015-10-25

【石田波郷新人賞落選展を読む】思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章 〈終章〉 田島健一

【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章

〈終章〉

田島健一

≫2014「石田波郷賞」落選展


思いもかけず時間がかかってしまった。気がつくと、今年の石田波郷賞の選考も終わったようで、あやうく一周おくれになるところだった。あぶない、あぶない。

本来なら半年ほどで書き終える見込みだったが、最後の一章に書くことを迷っているうちに私生活の忙しさなどもあって、ずるずると時間が過ぎてしまった。その間に、私自身の生活においても第、三子が生まれたり、転職をしたり、「オルガン」という同人誌を始めたり、といろいろ大きな変化があり、おのずと自分の考えにも変化があった。

当初、十二編の作品について「読む」ことの依頼をいただいたとき、そもそも俳句を「読む」とはどういうことだろう、という疑問があった。俳句を「読む」とき、そこにはそれを読んだ読み手の「評価」が反映されるのは自然なことである。

しかし、既に「石田波郷賞」の選考をうけ、そこで一定の「評価」を受けた作品に対して、私がそれと異なる「評価」を読み与えたとしても、それは俳句を「評価」の多様性に落とし込むだけだろう。この十二編は十分に「評価」を受けているはずで、それについては作者各々が何かを感じとっているに違いない。

また、俳句を「読む」とは、俳句を別のことばに翻訳することでもないだろう。それは私たちが映画や絵画を観るときや、スポーツを観戦するときに、そこで観ている対象に別の文脈を与えるよりも前に、そこから直接に何かを感じ、そのあとにその感じたことから思考が飛躍していく。俳句を「読む」とは、そのような飛躍のなかで、対象と私のなかにある別の言葉が結びついて、あたかもそこに書かれた作品(句)とは結びつきのないような印象を構築することでもある。その意味で俳句を「読む」というのは創造的なのだろう。

そういう意味で俳句を「読む」ことを、その「評価」と「翻訳」から解き放つにはどうしたらいいか、ということが私自身の課題だった。

だから、これまで書いた十二章は、十二編それぞれについての「鑑賞」ではない、と感じられる方も多いだろう。実際にこの十二章は対象となった十二編の作品「について」書いたものではない。そうではなく、その十二編が書かれたことから感じとった俳句の構造について、私自身のなかに問いかけながら書いたつもりだ。

当初〈序章〉で「俳句は、天才がつくる文芸である」と書いた。それは、俳句が一部の天才のためのものだ、ということではなく、誰もが自分自身のなかに埋もれている言語化されていない「天才性」と向き合いながら書くものだ、ということだ。

誰の中にも「天才性」がある。その「天才性」に触れるためには、自分自身のふかいふかいところに自ら降りていかなければならない。それは、私たちの日常的な思想や、社会的な地位・立場、年齢、性別、などとは全く無関係なものだ。

この十二編について書くことは、私にとって「偶然」に他ならない。その「偶然」を受けて、私は自分のなかの深い沼に糸をおろした。それは「私のために」書いたに違いないのだが、同時に、それは「俳句のために」である。

この「偶然」は、いつか遡及して「意味」を生成するだろう。

最後になるが、そのような「偶然」を与えていただいた週刊俳句のスタッフの方々と、十二編の作者の皆様に御礼を申し上げたい。

平成27年10月   田島 健一


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