2015-11-08

自由律俳句を読む 115  「鉄塊」を読む〔1〕 畠働猫

自由律俳句を読む 115
「鉄塊」を読む1

畠 働猫


私は、(現在のところ)どこかの結社に所属しているわけではない。
それは、自らの句を客観的に評価し指導を受けるような機会や、定期的な句会のように発表の場がないという難点を抱えることである。
しかしその分、このような場においても「難しいことはわかりません」という免罪符を持って好き放題に意見を述べられる、とも言えるかもしれない。

かつてインターネット上での活動を中心に行っていた、「鉄塊」という自由律俳句の集団があった。

鉄塊ブログ

2012年の春に活動が始まり、20156月を持って活動を休止した。
私も天坂寝覚に誘われて、20131月より参加し、その活動休止まで所属した。

「鉄塊」の特徴は、なによりも「代表」を置かないことであろう。
活動内容は、毎月のメールによる互選句会であり、その集計とブログ編集を輪番で行う。また、なんらかの合意形成が必要となったときのために、議長も毎月輪番で置いた。
句会は「鍛錬句会」「研鑽句会」の2つを行っていた。
「鍛錬句会」は参加メンバーの投句を互いに評価するもので、「研鑽句会」では、メンバー以外の句について検討した。
また、定期的に「バーリトゥード句会」と称し、広く自由律句と定型句を公募しての句会も行った。
「代表」がいない、すなわちリーダー不在の集団が、3年以上も存続したという点ですでに自分は奇跡的だと思う。
そもそもの「鉄塊」の始まりは矢野錆助(当時、風狂子)の呼びかけによるものであるが、彼自身201210月には退会している。
私は常々「鉄塊」は水滸伝における梁山泊のようなものだなあと感じているが、錆助はその初期の頭目晁蓋と人物的にもイメージがかぶる。余談だ。



さて、今回から数回にわたり、「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
まずは第一回(20124月)、第二回(20126月)から。



◎第一回鍛錬句会(20124月)より
片目の伯父を父は見るなと 藤井雪兎
よい句だ。痛みがずしりと入り込んでくる。
描かれる人物すべてが違う悲しみを抱えている。
その複雑な心境を会話の一瞬を切り取ることで表現している。

マルクスの詩集だよかわいいね 藤井雪兎
この句も屈折した感情を切り取っている。
「かわいい」は思考停止を表現しているのだろうか。
それとも持ち主がそれにそぐわない様子を皮肉っているのだろうか。
なんにせよ、「うん、かわいいね」と返事をすべきなのだろう。

ひみつ基地に妹忍び込んでいた 藤井雪兎
ノスタルジックな記憶をくすぐる。こんな記憶はないのだけど。
きっとどこかの誰かの記憶を二次的に受け継いでいるのだろう。
テレビで見たのかもしれない。漫画で見たのかもしれない。
こうした情景を切り取るためには、共通の空気の中にありながら、どこか醒めているかのように眺めることのできる客観的視座がなくてはならない。

貧乏を揺すって桜を見上げる 馬場古戸暢
「貧乏」は諧謔を込めて自分を言い表したか。
揺すっても小銭の音もしない。やれやれと見上げた空に桜が咲いていたものか。
桜だけはただで楽しめる。

今日からニートの女と歩く 馬場古戸暢
結果だけを提示されているがために、読者は「女がなぜそうなったのか」を想像する。そしてその女との関係性を考える。想像の幅のある、開かれた句であると言える。
句のリズムが小気味よいため、悲惨さは感じず、むしろ爽快感を覚える情景である。

貸した本から落ちて陰毛 馬場古戸暢
貸した相手にもよるのだろうが、やり場のない思いを抱くことになる。
怒りでも悲しみでもないとほほ感とでも言うべきか。
よくこんな些細な感情を発見し句にしたものである。

日付けをとり替えて暮れる 天坂寝覚
無為な一日であったことを端的に示している。
それしかないものを示すことによって、空虚さを際立たせる。これは一つの技法と言ってもいいかもしれない。

たった一つのめしを食う夜 天坂寝覚
こちらも上掲の句と同様に空虚さを表現している。
「一つ」という語の選択がこの句のポイントであろう。
一般的には「めし」は一つとは数えない。では一つは何を数えているのか、と考えてみる。「夜」にかかっているのであろうか。しかしそうするとかえって句意がよくわからなくなる。やはり「一つ」は「めし」なのだろう。
あるいは、その「めし」を食う自分自身を物体として「一つ」と見ているのかもしれない。
結果よくわからないが、味気ない一人のめしをもそもそ食っていること、そしてその喪失だけは伝わってくる。

なにか捨てて来た道をかえりみる 天坂寝覚
その道は誰もが通る道なのだろう。
「捨てる」という行為は意識的なものである。
だからここでは「かえりみる」行為は弱さを表す。
後悔、悔恨。あるいは懐かしさであろうか。
しかし捨てたものはけしてもう一度手に入れることはできない。
また前を向き進むしかない。
おそらくこの「道」は人生なのであろうから。

春の雨の軒下の知らない猫と居る 渋谷知宏
優しくあたたかな情景である。どの語もひどく甘やかである。
「春の雨」「軒下」「猫」「知らない何かと雨宿りして居る」
非常に詩的であるし、健全だ。

意を決して出るあたたかい雨だ 渋谷知宏
世界は思ったよりも優しい。
そんなことを信じさせてくれるような、救いのような優しさがある句だ。
自分も世界の構成する大人として、意を決して出てくる若者に対し、このように接してやりたいと常々思う。

ポンと出た月がまあるい 渋谷知宏
絵本や童話の世界のようだ。
なんともほのぼのした世界である。
まあるい月の明かりの下では狸が躍り、狐が跳ねるだろう。
影絵でいつか幼い日に見たような気がする。

ふらふらと来て故郷の空き家の荒れ草 矢野風狂子
こんな句を詠んでいたのか、という印象である。後に短律の傾向がどんどん強まっていく作者の句としては、やや冗長に感じる。
「ふらふらと来て」のおさまりが悪いか。
尾羽打ち枯らし、故郷へ帰ってきた様子なのだろう。したがって「ふらふらと来て」にこそ感動の中心があるはずだ。しかしそのあとの漢語が強いためかうまく馴染んでいないように思う。

春の麗らの万年床の下のカビ 矢野風狂子
「万年床」や「カビ」のような俗な部分に視点を向けることは、新しい美を探すことになるだろう。ただここではその両者が付き過ぎか。

道暗くやけに黄色の濃い満月だ 矢野風狂子
月の輝きが、今いる道の暗さを引き立てている。
月は一つしかないはずなのに、ふとした時に違和を覚えることがある。
「やけに」にはそうした違和が込められているのだろう。
田舎の道ならば、狐や狸に化かされていることもあり得るのかもしれない。



◎第二回鍛錬句会(20126月)より
躑躅の甘い匂いがして学生はまだ知らないらしい 渋谷知宏
電車の中などで、同乗の学生たちの会話を聞くでなく聞いている様子を想像した。大人になって知ってしまった者には、その「知らない」状態は羨ましいことでもあるだろう。「躑躅の甘い匂い」が象徴するのは、そうした「若さ」ではないか。

犬、踏切を渡る線路のその先を見た 渋谷知宏
犬はたぶん何も考えていないのだろうが、ちらりと顔を横に向けた様子から、線路の先、つまり未来を見ているように感じたのだろう。
ポジティブな句である。

萎えてしまった電話だ 渋谷知宏
萎えてしまったのは電話のせいなのか、それとも電話のせいにしたのか。
男性は案外デリケートなものである。愛情の多寡ではない。何かのせいにしたい夜もあるのだ。

恥で済めば安いものだと六十八の父 白川玄齋
重い言葉である。この重さは愛情の重さであろう。
いくつになっても親は親、子は子なのだ。

前を向けば霧 後ろを向けば闇 白川玄齋
おそらくは自身の境遇を比喩的に表現したものであろう。
見えなくとも、それでも前に進むしかないのだろう。

姫百合のおしべ取り除けず 白川玄齋
花粉が出る前に取り除こう取り除こうと思いながら、結局取り除けなかったのであろうか。飛散した花粉は花びらを汚し、服を汚し、やがて猫を死に至らしめるのであろう。

蚊の音たたく音して蚊の音 天坂寝覚
何もなさを強調する、かすかな音への注目である。
一人ではない状況らしくユーモラスでもある。
蚊がたくさんいるのか。たたいても外れであったか。

かげろう立つ恋をしそうな影もある路 天坂寝覚
「恋」を幻のようなものと見ている詩情がある。
内容はあいまいながら、リズムとしては字余りの定型句であり強い印象を残す句である。

ひとりで来た顔をして墓へ 天坂寝覚
この連載の102「天坂寝覚を読む〔2〕」で読んだ句である。
佳句と思う。

さわやかおばさん自転車の怪異 中筋祖啓
いったい何を言っているのかわからないが、こう見える、ということなのだろう。どこに怪異を見出すのか。おばさんのさわやかさなのか、自転車なのか。
わからないが、おもしろい。

Uターンおばさん撃たれたみたいに 中筋祖啓
これは「さわやかおばさん」のその後なのか。
「撃たれたみたいに」という比喩がおもしろい。
撃たれれば、死ぬか倒れるだろうに、「Uターン」するとはどういうことなのか。
ゲームか何かのように見ているのか。
謎である。

アリ影や今となっては面影よ 中筋祖啓
「アリ影」が何のことやらわからない。
「面影」を思っていることから、追憶の対象なのであろうが。
うーむ、と、考えてしまっていてはたぶん追いつけないところで詠まれた句なのであろう。恐ろしい。

階下のいびきも朝となった 馬場古戸暢
眠れずに夜を過ごした様子が見てとれる。
深夜と朝とではいびきに違いがあるのだろう。
それに気づくほど、眠れぬ夜を繰り返し経験しているのだろう。
自分もかつて不眠を患ったことがあるので、情景はよくわかる。

夕餉のにおいの間を走る 馬場古戸暢
幼い日を思い出した。夕方の公園。
一緒に遊んでいた友人らが、次々に母親に呼ばれて帰ってゆく。
自分はいつまでも呼ばれず、順番を争っていた遊具を独占できる喜びもなく、一人遊びにも飽きてゆく。そしてしかたなく公園を後にする。
あちこちから漂う夕食の匂い、団欒の声。
それら幸福の象徴を、意識しないように走って帰る。
そんな寂しい記憶を刺激された。

深夜の道漕ぐ少年四人 馬場古戸暢
暇を持て余した中学時代、よくこうして過ごした。
あてもなく自転車であちこち行ってみたり、大人用の自販機を物色してみたり。
思春期のエネルギーは、夜を静かに眠らせなかった。
この句もまた、過去の記憶をくすぐるものだ。

うでをひろげてそらのまね 藤井雪兎
秀句である。
情景が目に浮かぶだけでなく、妙に納得してしまう力がある。
「そらのまね」をどうやったらできるのか。実際にはよくわからないし、「うでをひろげて」それが表現できるものか、これもわからない。
しかし「うでをひろげてそらのまね」と言い切られてしまうと、それはそれで納得できるような気がするのだ。
思うに「そら」のように実体のないもの、よくわからないものについては、「こうだ」と言ってしまったもの勝ちなところがあるのだろう。
これが「そらのまね」だ。と言い切られてしまえば、「ああなるほどそうか」と思わざるを得ない。
半ば狂人のような思い込みの力が世界を形作っていくのだ。この句にはそんな力がある。

子守唄思い出して眠れないニートです 藤井雪兎
自分を客観視して嘲う余裕がまだあるようだが、眠れないのは辛いことだ。
自責の念、愛してくれた親への罪悪感。
不本意ながら陥った自分自身の状況を、ああ「ニート」じゃないか、と発見している夜でもあったのか。

この手のひらを選んでくれた雨粒 藤井雪兎
降り始めのパラパラとした雨の中に手を差し伸べているところであろうか。
掌に落ちて濡らした雨粒に、何かの縁を感じたものか。
それとも何らかの啓示を読み取ったものか。
選ばれなかった痛みがあったのかもしれない。心なのか身体なのか、渇き、潤いを求めていたのかもしれない。
いずれにせよこの瞬間、この状況の作者にとって、これは慈雨であったのだろう。

五月雨を殴って気が済むか 松田畦道
「五月雨」を殴るとはどのような状況なのか。
やり場のない怒りや憎しみのまま、雨の中でシャドーボクシングをしているものか。

次の準急で構わない雛罌粟揺れてる 松田畦道
目的地は遠くなのであろう。しかし急ぐ旅ではない。
一本電車を遅らせてもいい何かがここにあるのだ。
それは故郷を離れる惜別の思いかもしれない。この町に残していく人との別れの時間かもしれない。旅の終わりを惜しむ気持ちかもしれない。
心は千々に乱れているのか、それとも穏やかに凪いでいるのか。知ってか知らずか雛罌粟は風に揺れているばかりだ。

鴉の形した咳を闇へ放す 松田畦道
漱石の「夢十夜」を思った。そんな話はないのだが。その挿絵にありそうな情景と感じたのである。
幻想的な見立てである。悪いもの、病の形を鴉としているのだろう。
放たれた鴉は闇に溶けて、再び自分にまとわりついてくるのだろう。
夜の咳はしつこく、心を身体を蝕んでゆく。

寒いと一言先輩の彼女 春風亭馬堤曲
「先輩の彼女」の発見が、この句の物語を豊かにしている。
実際の体験なのかもしれないが、たったこれだけの描写で、二人の関係性や状況について豊かに紡ぎ出されていて見事だ。
秀句と思う。

外れ馬券にこやかにやぶる白髪 春風亭馬堤曲
余裕があるのか悟ってしまっているのか。
あるいは煮えたぎる思いを隠しているのか。
私は知らない世界だが、競馬場では日常茶飯事なんだろうか。
「白髪」のキャラクターをもっと具体的にしてもよかったかもしれない。
歯がないとか。

ひねもすぐうだらたばこのから箱 春風亭馬堤曲
リズムが気持ちよいが、内容は空箱のように空虚だ。
煙草を吸って煙を吐き出す機械としての一日を終えたのだろう。
「働いたら負け」という積極的ニートの言葉を思い出す。

ぬるい夜が俺の五感を塞ぐ 矢野風狂子
「五感」が塞がれているのであるから、この「ぬるい」は触角で感じる温度ではない。
ここでの「ぬるさ」とは、つまらなさや厳格さがない状況を指すのだろう。
五感を研ぎ澄まし、より高みを目指そうとしているにも関わらず、この夜はそれを与えてくれない。
時代に対する閉塞感とも取れるし、詩情を求めて得られぬ甘えともとれる。
句材のなさを返って句にしたような無理矢理感もあるようだ。

仏さんの飯に蠅二匹 矢野風狂子
夏の情景であろう。仏への尊崇であるとか、慈悲の心であるとか、そういうところに諧謔を見出そうとしている視線を感じる。
他者が見落としそうな些細なところに目を向けるからには、そこに引っかかる作者のスキーマがある。俳句としてどんなに主観を排そうとも、その場面の切り取り方にどうしても主観は表れるものである。

潰れた毒毛虫の黄色のハラワタ 矢野風狂子
毛虫など小さなものである。
たまたま目に入ったのでなければ、これを潰したのは詠み手自身と考えるのが妥当だ。
カラフルな毛虫もあろうが、この毛虫は真っ黒であったものと思う。
だからこそ、その内部にあった黄色に強く心を惹かれているのだろう。
句材、視座はおもしろいと思うが、「ハラワタ」という表記の有効性には疑問が残る。ひらがな表記にしなかったのは、我々世代がどうしても思い浮かべてしまう、サムライミ監督の「死霊のはらわた」と距離を置くためか。違うか。



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次回は、「鉄塊」を読む〔2〕。

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