2015-11-15

自由律俳句を読む 116 「鉄塊」を読む〔2〕 畠働猫



自由律俳句を読む 116

「鉄塊」を読む2



畠 働猫



前回に引き続き、「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。

今回は時間の都合もあり、第三回(20127月)のみより。







◎第三回鍛錬句会(20127月)より

あー死にたい。でも死ねないのは君のせいだよ 渋谷知宏

「初めてのチュウ」かな。

句点の使用や散文調が、当時は斬新だったのかもしれない。今見ると素直に過ぎる気もする。

渋谷氏は「俳句とは何か」と問う自己テーマを持っていたように思う。



くそ暑い日の昼飯の味噌汁 渋谷知宏

泣きっ面に蜂のような句意を読むべきなのかもしれない。

しかし、「食べたくないもの」が食卓にあるという状況は、それが他者に供されたものであることを示している。

ゆえにこれはある面で幸福を詠んだ句と言える。

当たり前のように享受している幸福を発見し詠んだものとすれば、実に鋭敏な感覚の持ち主と思う。

「不自由と嘆いている自由がここにある」(「パール」吉井和哉)



空蝉のくるぶしあたり 渋谷知宏

「空蝉」そのもののくるぶしは想像しがたい。

このくるぶしは誰のものか。

ともかく「の」が切れ字となって、視点の移動が行われていることはわかる。

詠者の目線はもともと低い。

座っているのかもしれない。しゃがんでいるのかもしれない。

夏の夕暮れ。少年はしゃがみ込み、うつむきながら待っている。

見知らぬ足ばかりがその視線の先を通り過ぎてゆく。

そして止まった足。

そこで初めて気づく。そのくるぶしと同じ高さにへばりついた空蝉を。

(「の」の切れは、このように、発見の順番が「くるぶし」→「空蝉」であることを示している。)

路肩のブロックだろうか。

低い。こんなところで脱皮を始めてしまったのか。

生き急ぐ蝉の姿に少年は何を重ねるのか。

夕焼けに顔を上げれば、優しい母の顔があり、少年はそのくるぶしと並んで帰る。



「またコロッケか蝉しぐれ」(働猫)



うらぶれて私の影を踏む 春風亭馬堤曲

会いに来た者が誰であるか、で読みも変わろう。

そんな者に踏まれている自分の影を気にするエゴイズムが心地よい。



日陰ばかり歩く 春風亭馬堤曲

「人生であった」と続けば、陳腐の極みであるが、実景かもしれないととれる余地を残すことで句として成功している。

下校時に「日陰から出たら死ぬルール」で帰っている小学生を詠んだものかもしれない。



いつまでも玄関先の野あざみ 春風亭馬堤曲

寂しく静かであるが、どこか懐かしく胸を打つ。

「いつまでも」とは、本来はそうであってはならないというだ。

家人の不在、あるいは変調のために、雑草が抜かれなくなってしまった状況を詠んでいるのだろう。

かつて足繁く通った家の変化。

引っ越していってしまった女の子の家かもしれない。

これも小学生の姿が浮かぶ。



朝刊に裏切られる試合の結末 白川玄斎

なんだか今風ではない。インターネットの無い時代であろうか。

自分はスポーツ観戦の習慣がなく、新聞も読まないので馴染まない景だ。

ただ、「昔の大人」はこうだったんだろうな、という感がある。



君への仇討のために幸せになろう 白川玄斎

「仇討」という語が選択ミスではないかと思う。

恐らく「あてつけ」くらいの意であろうかと思うが、「君への仇討」という用法には無理がある。

「君の仇討」であれば、亡くした君のためにその分も幸せになるという意になろう。しかし、「君への」では、おそらく仇は「君」となり、討つべきも「君」となる。意味がよくわからない。

そこが面白さかもしれないが、汲めない。



政治を憂いて元気な老人たち 白川玄斎

定年や隠居によって、様々な世俗の義理から解放されることで、老人は政治を語りやすくなるのだと思う。

「元気な」をあえて詠んでいるところから、そこに詠者の覚えた違和がある。

恐らく病院の待合だろう。

体調を崩して行った病院で、侃々諤々、政治について議論を交わす老人たちを見る。明らかに今の自分よりも元気である。

こんなに具合が悪いのに、老人で込み合う病院ではなかなか順番が来ない。

政治も診察も若者は後回しである。

次代を担うべき若者は疲弊し、搾取されるばかりだ。

わずか3年前の句である。

当時は一般的に「政治」を語るのは老人だけであった。

今現在、若者中心の政治活動やパフォーマンスが行われている状況を思うと隔世の感がある。

私は未だ俗世に生きる身であるので、それらについて是非を述べるのは控える。



雨が長居させてくれた 天坂寝覚

佳句と思う。

寝覚には雨の句が多いが、最近思うのは、彼が特別雨を好んでいるわけではないのだろう、ということだ。

恐らくは「ア・メ」あるいは「AME」という音が、彼の心情を刺激し、作句に至らせる働きもつのだ。

これは私自身が最近自句の傾向について思うことでもある。

私は「雨」「雪」「月」「猫」「風」「影」を詠むことが多い。

それらは多くの場合、音、あるいは音楽の一要素として頭に浮かぶ。

たとえば「月」は「~ヅキ」「ゲッコー」など濁音で浮かぶ傾向を自覚している。

寝覚の「雨」もそのような素材ではないか。

この句においても、「雨」は別になんでもよいのだ。

出発や別れを引き留めるものであれば「雪」であろうと「闇」であろうとかまわない。

しかしそこで「雨」を選ばずにおれないこと。

そこには恐らく音楽的な理由がある。



もういい月がでた 天坂寝覚

「もう、いい月がでた」とも読めるが、それでは詠む意味がない。

「もういい」は投げやりな打ち切りであろう。

出口の見えない諍いや、解決できない悩みを投げ捨てるように視線を空に向ける。月が出ても何かが変わるわけではない。

ただ、今の状況を一瞬忘れることぐらいはできる。

人間はそんな風にして太古から月を見上げてきたのだ。



みんな棄てて帰る海風がすずしい 天坂寝覚

「棄てて」という表記には、意思が強く表れている。

決意とは棄てることでもある。

昨日までをすべて海に投げ棄てて、帰る道の清々しさ(あるいは強がり)を思う。



小さきおなら駅から歩め 中筋祖啓

ユーモラスであるが、おならが下痢の兆候であれば、途端に場面は緊迫する。

駅から目的地までどれくらいかわからないが、無事に着いたことを祈る。



ガソリンスタンドは、まばゆい 中筋祖啓

発見だったのだろうが、このままでは素材の提示だけにとどまっている。

原始の眼による発見は、時としてこのように相手に通じない言葉になってしまう。ここに、言わば翻訳ともいうべき操作を加えなければ、他者に響く句にはならない。

禅の公案の答えが我々凡人には不可解であるように。



キィーン!ポールにカバンが当たったぞ 中筋祖啓

これも素材感が強い。

音とそのあとに音の説明があり、状況は過不足なく理解できる。しかしそこには想像の余地がない。

音か説明のどちらかを省略して感じ取らせる余白を作るべきだろう。



酔いたい夜の酔えない 馬場古戸暢

飲んでも酔えないのか、飲んではいけない夜なのか。



若気の至りの上限にいる 馬場古戸暢

「鉄塊」のキャッチフレーズとしても提示された句である。

「上限」には、もはや降って行くばかりの悲しさもある。

「鉄塊」が恒久的なものではないことは、誰もが予想していた。

一瞬の望月を愛でるように、我々は同じ時を過ごしたのだ。



汗臭く日の暮れる 馬場古戸暢

労働句であろう。一日働いた作業着の臭いであろうか。



乾いた土に雨のまるさ 藤井雪兎

降り始めた雨が、乾いた土に落ちる。すぐには吸収されずに丸い水滴のまま残っている。確かに見たことのある景である。

しかしこんなに小さな対象の、それも一瞬のできごとを切り取る視点の鋭さを感じる。

まるで時間を止めてしまったかのような、緊迫感さえ覚える静けさ。

時折、句を「つかむ」「拾う」瞬間がある。

句を「つくる」のではなく、句が「できる」瞬間だ。

これもまた、そうした句の一つであったのではないか。



花の名前で雨に濡れている 藤井雪兎

美しい句だ。

その名前は読み手の記憶に委ねられるのだろう。

ユリ、スミレなど、花の名を持つ女性との記憶が、胸の痛みとともに呼び起こされる。もうその髪や頬を拭うこともできない。手の届かない情景が、後悔と悲しみとともに眼前に広がるようだ。



稲妻にこの姿見せに行く 藤井雪兎

どうにも全裸であろうかと思う。

悪天候における高揚感がよく表れている。



心配して損した前歯欠けてる 松田畦道

前歯が欠けているのは、心配した方かされた方か。

された方なら、不幸中の幸い。その程度で済んでよかったね、という景か。

微笑ましい状況のようでもある。



なにができるミシンの音か 松田畦道

日曜の午後の安らぎに満ちた時間を思う。

結婚もよいものかもしれないと感じさせてくれる句だ。



花の名を忘れた口へ匙を運ぶ 松田畦道

小説や映画のタイトルのようだ。

物語を感じさせる。

介護であろう。かつて自分に花の名を教えてくれた母親であろうか。

美しい親子愛である。

現実の介護は美しいばかりではないが、こんな風に愛を感じる瞬間が救いになるだろう。



桃そっと置かれたまま腐っとる 矢野風狂子

仏壇であろうか。墓であろうか。

「そっと」は、桃自体の佇まいでもあり、また置いた者の心情でもあろう。

「腐っとる」と見ている視点は誰のものか。

供えられている故人の目と見るのもおもしろい。

しかし供えたもの、供えられたもののどちらでもない、第三者の目とするのが最もふさわしかろう。

まず、匂いがあったはずである。

爛熟した芳香から、視線が誘導された先にそっと桃が置かれているのを発見したのだ。それから黒ずんだ桃に触れてみたのかもしれない。ぶよぶよとした果肉がぐずぐずと指先で崩れただろう。

桃を五感で感じる句である。

句材として選んだ「桃」自体が優れているとも言える。



蟷螂の子がポトリと落ちてもがくメダカの水槽 矢野風狂子

やや饒舌に過ぎるか。

カマキリは卵嚢から出てきた瞬間からあの形をしている。

それはとても不思議だ。

以前、小学生の頃であったか、孵化したカマキリが部屋中に溢れだしたことがあった。虫かごに入れていたのだが、蓋の隙間が広すぎたようだ。

捕まえようとすれば潰れてしまう。

思案の末、ガムテープで捕らえたのだった。

無数のカマキリがテープに張り付いてうごめいている様子は、阿鼻叫喚、地獄のような状況だった。



どっかの犬が吠え続ける夜を帰る 矢野風狂子

吠えたてられるように、責められるかのように聞いているのだろう。

また何かに負けた。そんな夜であったのだろう。







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次回は、「鉄塊」を読む〔3〕。


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