2015-11-22

自由律俳句を読む117 「鉄塊」を読む〔3〕 畠 働猫

自由律俳句を読む 117
「鉄塊」を読む〔3〕

畠 働猫



前回に引き続き、「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
今回は第四回(2012年8月)~第五回(2012年9月)から。

◎第四回鍛錬句会(2012年8月)より

風に吹かれて転がる蝉だ 渋谷知宏
8日目の蝉であろう。昨日まで激しく鳴いていた蝉の儚い姿を描写した。
切れをどこに読むかで解釈に差異が生まれる。
「吹かれて」に切れを置くと情景の単なる描写となり、平凡な句となってしまう。
しかしおそらく作者は、「転がる」で切り、対象が「蝉」であったという発見(驚き)を句の中心に据えることを意図している。
口語で詠まれる自由律俳句において、「切れ字」は馴染まない。したがって、切れ字を用いない切れを表現する工夫が求められることになる。
この句では切れをもっと明確にすべきであったように思う。

車の中の独り夢から覚める 渋谷知宏
営業途中でコンビニや公園脇で仮眠している姿を見かけることがある。
朝から晩まで職場に居なくてはならない自分から見ると、多少の憧れを感じる光景でもあるが、そこにはまた違った苦しみが存在しているのだろう。
どんな夢を見ていたものか。前世に蝉であった記憶を見ていたものかもしれない。

この蝉の声を俺は聞いたか 渋谷知宏
「風に吹かれて転がる蝉だ」の続きの句であろう。
死んだ蝉は生きた証を残しただろうか。それを思い、自分自身の人生を思っているのであろう。

時計草さるすべりと並び夏夜 春風亭馬堤曲
「時計草」「さるすべり」「夏夜」と夏の季語を3つ盛り込んだ句である。
おそらくは季語の豊潤さを陳腐化しようという狙いがあるのだろう。
実験的な句(あるいは挑戦的な句)であるとは言える。

賽銭箱から千円落ちポッケへしまう 春風亭馬堤曲
行為自体はただの窃盗である。しかしここに、日本における神と人とのおおらかな関係性を確認することができる。
「賽銭箱」に入りきらなかったものが落ちたのだ、これは神様から分け与えられた救いの手である。そんな都合のよい解釈ができてしまう。
その千円で救われたならば、いずれどこかの寺社に寄進するとよかろう。

水の音して街は留守 春風亭馬堤曲
美しい情景、心象風景を詠んだものととった。
静かなせせらぎか、流れる水の音の中で微睡んでいる様子であろう。
「街は留守」とは、詠まれた時期からお盆休みの帰省により東京から人がいなくなった様子か。
しかし、「水の音」を水害と考えれば「街は留守」という表現が不穏な色を帯びてくる。作者の本意ではなかろうが、震災の記憶が蘇る。

苦瓜をひとつ実らせる人生か 白川玄齋
自嘲、諧謔を込めて(おそらくは)自分自身の人生を客観視しているのであろう。
こういった句を俳味があるというのであろうか。

頑張らない君は頑張れと言うなかれ 白川玄齋
中島みゆきの「ファイト!」の歌詞のようだ。
「頑張れ」は無責任な圧力、あるいは命令である。不用意に投げかけるべき言葉ではない。

真面目が過ぎて詩歌にならず 白川玄齋
ここで言うような「真面目」さならば、ときに他者から見れば滑稽であり、充分に詩となるものであろう。ドンキホーテの抒情に通じるものだ。また、そもそも対象に向き合う真摯さが無ければ、詩などできようはずもない。
詩歌にならない理由はどうやらほかにありそうだ。

空が青い風邪をひいたことにしよう 天坂寝覚
学校か仕事か。ともかく今日は休みにした。
そこまで気持ちのいい青空だったのか、それとも空はどうでもよかったのか。
たぶん月曜日だったのだろう。そういう気がする。

皆出て行った花火の音 天坂寝覚
花火が象徴するものは、華やかさや幸福であろう。
ともに行くこともできた場所に背を向けて、一人でいる。
遠く聞こえる花火の音が、それをどんなに強調したとしても、自ら選んだ孤独である。素直になれなかった自分、あるいは少年の日を思い出すような句である。

大きな虫が入ってきた夏の天井 天坂寝覚
闖入者である。
窓を開けていたために、家の灯りに誘われて飛び込んできたものだろう。
なんとなく団欒を思う。
一人ならば黙って打ち殺して捨てるか、窓から逃がして終わりであろうから。
一人ではないからこそ、飛び込んできた虫が話題になって、みんなで天井を見上げることになった。そんな景だろう。夏の、微笑ましく幸福な一コマであったように思う。

遮るくらい見上げた空に雲カーテン 中筋祖啓
さてどう読んだものか。
夏の日を遮る雲をカーテンに見立てているだけなのか。
それとも日輪を肉眼で見続ける苦行を見かねて誰かがカーテンを閉めてくれた景なのか。
あるいは雲の柄のカーテンなのか。
いや、「くらい」は暗いであると読むべきか。歩いていて日が翳った。見上げると雲が太陽を覆っていた。これはカーテンだ。
たぶん最後の読みでいいような気がする。自信はないが。

ドクダミのポンポン隊で応援します 中筋祖啓
もう、「ありがとう」としか言いようがない。

彼方からパンツと告げし乙女二人 中筋祖啓
おもしろい。
「彼方から」の誇張も効いているし、「パンツ」と「乙女」の取り合わせもいい。
しかしおそらくはそうした計算は何もなく、ただ起こった事象を「原始の眼」で眺めると、このように認識され、このようにアウトプットされることになるのだろう。

俺の願いの落ちとる七夕 馬場古戸暢
良句と思う。
「落ちとる」と方言を用いることによって、現実感と軽妙さが加わっている。
「とほほ」あるいは「やれやれ」といったところか。
「俺」が短冊に書いた願い事は、牽牛も織女も見ることができなかったことだろう。

煙草の煙の向こうはスコール 馬場古戸暢
ベランダだろうか。煙草を吸いながら、雨に煙る町を眺めているのだろう。
何もかもがもやもやと不鮮明であり、非現実的な景を作り出していたのだろう。

雨のまにまにアブラゼミ 馬場古戸暢
夕立だろうか。
さーっと来て、玄関先を湿らせては去ってゆく夕立。
その雨と雨の間に、生きている主張のように蝉の声がする。
あるいは、雨の間も蝉は鳴いていたのかもしれない。
断続的な音を描くことで、時間の流れを表現している。

ガム踏んで思い出す過去もある 藤井雪兎
思い出したくない過去であろう。
ガムを踏むこと自体がすでに小さな不幸であるが、それが象徴するものを考えれば「思い出す過去」も、より重さを増す。
ガムを踏むことは、かつて自分の足にあった枷を思い出させるのだろう。
様々な状況、家族や友人といった環境的なものかもしれない、あるいは自らの拘泥したものかもしれない。
前へ進むために断ち切ってきたもの。捨ててきたもの。
そして忘れかけていたもの。
そうした過去が、ガムを踏むことによってフラッシュバックのように思いだされてきた景なのではないだろうか。

全身を口にして黙っている 藤井雪兎
言いたいことを抱えながら、言えない状況なのだろう。
叱られている子供、告白を控えているとき、年長者の自慢話を聞いているとき、など。様々な状況は考えられるが、まず浮かんだのは「叱られている子供」であった。「言い訳」「口答え」をするなと意見する権利を奪われて黙っているしかない状況。もう少し世知に長けてくれば、反省したふりをして説教の時間を短くすることもできるようになるが、まだそれができない。
記憶の中の自分が蘇ってきたのだが、次の句が同じ景の続きであると考えると、「告白」の読みの方がふさわしいのかもしれない。

なかなか話さない口のくしゃみ 藤井雪兎
相手の言葉を待っているのだろう。
今か今かと思っていたら、言葉でなくくしゃみが出た。
夏目漱石の「こころ」における「K」を思い浮かべた。
口の思い人物が、何か言いたいことを持っている。しかしなかなか話し出さず、口をもごもごさせている。
相手の告白は良いことか、悪いことか。どちらを想像するかで読みも変わろう。

鳴らない電話と胡坐かいてる 松田畦道
何かの返答や結果を待っているのだろう。
どうにも黒電話を想像してしまう昭和の人間である。
野球もしてないのに、あるいは小説も書いていないのに、ドラフトや芥川賞の時期にこんな気持ちになる、と読めばおもしろい景でもある。
何らかの災害や事件に巻き込まれた知人の安否確認のために連絡を待っている、という状況も読めよう。
来るかもしれない電話を待っている状況というのは、辛いものだ。
いつまでという期限もなく行動を制限される。
「電話」というツールが廃れていくのは、ごく自然な流れであるように思う。

チョークで書いた線路どこへも行けない 松田畦道
これも子供の頃の記憶を刺激する。
ただ遠くに憧れた、とも読めるだろう。しかしそれは幸福な幼年期を過ごした者の読みである。
そうでない者は、幼く弱かった自分を思い返す。この苦しみから逃げ出したくて線路を描いた。その先に輝かしい未来がある。ここではないどこか。苦しみのない世界がある。そう信じて。
そして、今自分のいる場所が、あの線路を越えたところなのかどうか考えてしまう。
「どこへも行けない」
きっとまだ線路の途上にいるのだろう。

一日左利きのふりする 松田畦道
理由はわからないが、そういう日もあるだろうとは思う。

針貫く黄金虫の硬質の輝き 矢野風狂子
標本であろうか。
「硬質」がここでは感動の中心であるように思うが、他の語も漢字表記であるために、句の中で埋没してしまっているように思う。どの語も一律の「硬さ」になってしまっているように感じるのだ。
作者の句風であるので、どうしようもないことと思うが、漢字表記へのこだわりがここでは有効と思えない。

舌絡み合って熱帯夜 矢野風狂子
対して、こちらの句は漢字表記が有効な例と言える。
いやらしい営みが、まるで高尚な映画のシーンのように昇華している。

若い女の裸を愉しみ八月九日が来る 矢野風狂子
生きるということは時に残酷に、死者を忘れることでもある。
そうしなければ前に進めないからだ。
それでも、忘れていないことを確認するように、あるいは自分に言い訳するように、こうして句に詠まざるを得ない。その心境はよくわかるものである。


◎第五回鍛錬句会(2012年9月)より

ひとり抱え込んだ膝である 渋谷知宏
膝を抱えている状況から読み取れるのは、若さ、いっそ幼さと言った方がふさわしいものか。暗い部屋の隅で膝を抱えて座っている。見えるものは自分の膝だけなのだろう。悩み、悲しみ、あるいは叱られた不安、不満。
しかしそれは必要な時間であるように思う。
人は誰もが、自らの孤独と向き合う時間を持たなくてはならない。

酔いどれた月との会話楽しんでいたんだけどね 渋谷知宏
深夜、職務質問を受けての回答であろう。
酔いどれているのは自分である。

お願い。もうちょっとしがみつかせて 渋谷知宏
時代によって、男女のイメージは変化する。
女性は解放を目指し、男性は強さを放棄する方向へ向かっているように思う。
この句も、旧来の男性性からの脱却を図る句であったかもしれない。
強がることを放棄して、本心を「ぶっちゃけ」てしまっているのだ。
ただ、当時は新鮮であったかもしれない「ぶっちゃけ」も、昨今の軟弱な男性イメージの中では、「普通」のこととして埋没してしまうように思う。

電話の先に本当にいるのか確かめたくなり 白川玄齋
無言電話なのだろうか。
昔、何度もかかってくる電話に悩まされたことがあった。
携帯電話を持ち始めた頃だ。
別れたばかりの女性で、何度も電話をかけてくるのだが、出ても何も言わない。こちらも話すことがなく黙っている。ただ苦痛な時間が過ぎていく。
そのうち、これは罰を与えられているのだと思うようになった。
そんな悲しい記憶が呼び起こされた句である。

世の中ほどに対立もせぬ二人 白川玄齋
「世の中・ほどに」と読むと、世間はいろいろありますが、わたしたちは仲良しですね。という句になるがおもしろくない。
「世の・中ほどに」と読むべきだろう。
すなわち「中庸」をゆく二人であるということである。
ともに孔子を愛する二人であるのかもしれない。

この一瞬のために死んでもよいと言わなくなり 白川玄齋
どんなに素晴らしい経験も繰り返していくと飽きるものである。
それが、「死んでもよい」と思えるような一瞬であっても。

ただ生きているだけの腹が鳴った 天坂寝覚
自分を卑下して言っているのか、それとも動けない他者のことを言っているのか。おそらくは前者であろう。
無為な生活の中で腹だけが鳴る。
自分でも驚くような大きな音だったのだろう。

水に足をおく 天坂寝覚
状況はよくわからない。
そんなこともあろうか、と思う。
その心境もよくわからない。
水で足を清めたかったのか、普段は避ける水たまりに敢えて足を踏み入れたのか。ともかく、何かを変えたかったのかと思う。
宮沢賢治「なめとこ山の熊」において、小十郎が「今朝まず生れで始めで水へ入るの嫌(や)んたよな気するじゃ」と述べる場面がある。猟師である小十郎にとって、「水へ入る」は沢や雪を漕いで行く、すなわち「仕事」を意味している。そしてその日、小十郎は自らの「仕事」から解放されることになる。
寝覚にとっての「水」が何を象徴するのかは、わからない。
しかしこの句においては、読む者が、自分にとっての「水」の象徴を思うことで解釈してゆけばよいのだろう。

空んなった手をまだなめる犬の舌あったかい 天坂寝覚
大きめの犬だろう。柴犬以上の。
食べ物をくれる人としての認識しか犬側にはないのだが、舐められている方は犬の愛情を感じている。
満たされぬ承認欲求を、その隙間を犬が埋めてくれているのだ。
そうした互いのエゴが隠される形で、微笑ましい景を作り出している。

見ただけでおいしいよと言うインド人 中筋祖啓
どこまでがインド人の言葉なのかわからないが、なんともユーモラスである。
カレー屋さんの呼び込みだろうか。結局入っておいしかったことと思う。

朝型人間の懸垂 中筋祖啓
私の小さなころ、故郷の町には、「体操爺さん」という人物がいた。
私が預けられていた学童保育の建物には鉄棒などの遊具があり、そこに朝晩、「体操爺さん」は体操をしに来るのであった。
夏休みなどは、朝から学童保育に預けられていたので、爺さんと遭遇することになった。
子供たちの間では「体操爺さん」と「えぼっちゃん」とは、まるで怪人のように語られていたものだが、今思えば失礼な話である。
この句でそれを思い出したのは、「朝型人間」という言い回しに怪人っぽさがあったからかもしれない。

ハトに嫌われる行進 中筋祖啓
「ハト派」と考えると政治的な臭いもするが、おそらくそうではない。
デモの行進が来てハトが飛び去って行く様子かと思うが、ただ一人で行進を繰り返してハトを追い散らかしている詠者の姿も想像できる。
ジョン・ウー映画のラストシーンとしてもよい。

女も知らずに少年は逝く 馬場古戸暢
事故か事件か。戦争かもしれない。
自分よりも若い人間が死ぬのは遣り切れないものだ。
まして少年である。
知るべきものとして「女」を挙げるのは、ハードボイルドであり、やや古風にも思う。

ウルフルズ聴いて夏を漕いだ 馬場古戸暢
青春であり、汗臭い句である。

金玉の裏の泡を流した 馬場古戸暢
日々していることをわざわざ報告せざるを得ない発見があったものか。
発見であるとすれば、これは他人の金玉であったのだろう。
介護や看病かもしれないし、子供を風呂に入れているのかもしれない。
あるいは特殊な職業なのかもしれない。
ともかく金玉の裏に泡が残りやすいことを知る「男らしい」句である。

さっきから足音が歌ってない 藤井雪兎
昔「ごっつええかんじ」という番組で、「ハーイハーイハーイハーイハーイハーイ、アホー!」とダンスにダメ出しをする「ダンスの先生」というコントがあった。
感覚的な人物の言葉は時に理解不能であり、理不尽に聞こえるものである。
前出のコントもそうしたコミュニケーション不全を笑いにしたものであろう。
この句では、そうした感覚的な人間がそのまま詠んでいるともとれるし、第三者としてその言葉を聞き詠んでいるともとれる。

美味いラーメンを出して歯が無い 藤井雪兎
自分もかつて「頑固親父の店でラーメンが不味い」という句を作ったことがあった。この場合の「で」は逆接の働きをしている。
対して雪兎の句では「(出し)て」は順接である。
歯が無いからこその美味いラーメンなのだ。
人は何かを得るためには何かを失わなければならない。
等価交換の法則だ。鋼の錬金術師で見た。
我々は店主の尊い犠牲のおかげで美味いラーメンを享受できるのである。
感謝の句と言えよう。

それぞれのにおいのする金で払っている 藤井雪兎
労働句として秀逸と思う。
かつて肉体労働をしていた頃、昼時の光景としてよく見た。
思い出すのは第二ドコモビルに電線を引きに入っていた現場だ。
3か月くらいいた。
昼時にお弁当を売りに来るおばさんがいた。
わらわらと集まってきた作業服たちが、それぞれのポケットから財布や小銭を取り出して金を払う。
お湯を入れるワンタンスープがやたらと人気で、取った取らないのいざこざがあったり、周りに女性が居な過ぎて、弁当屋のおばさんを本気で口説いてる奴がいたり。
馬鹿馬鹿しく物悲しい日々であった。
金は人間そのものだ。
そこにはそれぞれの人生が染みついている。
優れた嗅覚が表れた句である。

どの向日葵も私を見ない 松田畦道
肥大した承認欲求を抱えて、みんな見て見て、どうしてこっち見ないのよ、よよよ。という読みも可能だが、本意ではあるまい。
この句では、向日葵が太陽の方を向くということを踏まえて、自分が太陽、あるいは太陽を背負う者ではない、ということを間接的に述べている。
王道、明るさ、そうしたものへ背を向けて生きてきた。アウトローとしての句であると言える。

急いでなにか建ててるそこはかつて工場だった 松田畦道
良句と思う。
諸行無常を感じさせる。
工場に特別な思い入れはないのだろう。ただ感じることは時の流れである。
そこに暮らし、同じ風景を見ていて思うことは、変化していく世界と変化していない自分のことだ。かつてそこには、工場で働く人々の営みや生活があり、今ここには、建設業者の労働がある。
自分は昔も今もそこに関わることなく傍観者として在る。一人、世間の流れから取り残されたような、不安や寂しさを感じたことだろう。

凌霄花を映した目で狂っている 松田畦道
赤い花の色や絡みつくつるなどが、狂気との取り合わせとしてよいのかもしれない。ただ、相性が良すぎて意外性がないとも言える。付き過ぎか。
二つ上の句で取り上げた「向日葵」の方がより狂気を際立たせるかもしれない。

虫の声無く残暑 矢野風狂子
この虫は言うまでもなく秋の虫であろう。
今年は残暑も秋もなく冬に突入してしまった感じがする(北海道の体感である)が、この年は残暑が厳しかった記憶がある。
例年になく虫が鳴かない、と日頃から季節に注意を払っている俳人らしい句であると言える。

青い月夜にも人の死ぬ 矢野風狂子
当たり前のことだが、当たり前のことに気づかざるを得ない状況であるのだろう。親しい人を亡くして打ちひしがれた心境を思う。

開けば錆臭い手の平よ 矢野風狂子
作者を知っているため、労働句として読んでしまうが、先入観を捨てて読めば、握りしめていた小銭の臭い、鉄棒などの遊具の臭いなど、子供の手の平とも読めようか。
「開く」ことは解放を意味する。
労働句として読むならば、仕事からの解放。
子供の手の平として読めば、今まで握りしめていたものを手放し、新たな希望をつかむために開かれたものとして読むことができる。
いずれにせよ、詠われているものは「希望」である。

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次回は、「鉄塊」を読む〔4〕。


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