2015-11-29

【俳誌を読む】(ここにはじまりそこねる) 『オルガン』第3号を読む 小津夜景

【俳誌を読む】
(ここにはじまりそこねる)
『オルガン』第3号を読む

小津夜景


最近、ウラハイで福田若之が「発句」という語彙にまつわる「極私的な夢想」書いていた*1。それを読んで思い出したのは、ルイ・アラゴン『冒頭の一句または小説の誕生(Je n’ai jamais appris à écrire ou Les Incipit)』のことだ。

これはアラゴンがみずからの小説作法について述べた本である。それによると彼の小説には事前の構想が存在せず、自分自身おもいがけず綴った「冒頭の一句(インキピット)」から行き当たりばったりで展開されるものだという。またその展開においては辻褄よりもむしろ語と語の、あるいは音と音との出会い、もしくは語呂合わせなどといった非論理的つながりを重視するらしい。

インキピットとは詩、歌、あるいは書物などの書き出し数語のこと(もともとはラテン語で「ここに始まる」という意味)。作品に題というものが必然でなかった時代、西洋では冒頭句をその代わりとして立てるのが通例だった。現代では作品の内容を「象徴」する数語をもって題とするのが主流になってしまったが、インキピットに由来する題にはそこから始まる文字世界に生成論的な広がりや予言書めいた品格をあたえる不思議な力がある(田園詩の題などはインキピットの方がずっとうっとりします。あと歌も。もしもハイネ=シューマンの歌曲集「詩人の恋」に象徴的な題なんかついていたものなら、今此処に魂のふるえが歌となって湧き出てくるよ……て感じがもう全然なくなってしまって悲しい)。たとえば漱石の『我輩は猫である』はインキピットがそのままタイトルになった例といえるが、果たしてこの小説の滑り出しは、そのタイトルのお陰で、自在な可塑性や湧出感覚がいささかも損なわれていない*2

アラゴンの話に戻ると、この本で述べられている小説作法はかなり平凡だ——ただ一点、彼が書き出しの数語のことをわざわざ「冒頭の一句」と強調している以外は。もちろんアラゴンは、ここで「冒頭の一句」という語を従来の意味合いからずらして使用している(普通インキピットとは「すでに存在する作品」を便宜的に呼びならわすためのものだから)。だがここで重要なのは、生成論的な作品をものするための魔法が「ぐうぜん書かれた最初の数語」に隠されており、しかもその数語が「つかのまそこにあらわれた湧出物でありながらも、なぜか作者の前にア・プリオリに聳え立ち、また作者自身その存在を知らなかった記憶をア・ポステリオリに掘り起こし、その結果として未知の世界を編み上げる不思議な効能をもつ」ことをアラゴンが発見したのは、まさにこの語の意味をずらすことに因っていた、ということだろう。

ところで私は、福田若之の「発句」への言及に、このアラゴンの「冒頭の一句」と似通った発想を感じている。また最近発表された『オルガン』3号の7句連作「書き出し あるいは始まるかという問いの欠如に伴う頭からの墜落」なども、アラゴンの「発見」をひとつの「作法」として展開しているような印象を受けた。

をあきのかぜと書く 裂け目
(「書き出し あるいは始まるかという問いの欠如に伴う頭からの墜落」)

これは「上五」というテーマで詠まれた連作であり、その言葉の流れにはぜひ問題化したいおもしろい点がいくつかあるのだが、とりあえずこのエッセイでは一句目(=連作の冒頭句)にのみ注目したい。もしこの句が成功しているとすれば(私は成功していると思う)、その原因はなによりもまず掲句が連作の筆頭に置かれている点にある。私の考えるところ、この句は連作の方向を決定する位置を占めながらも肝心の出だしを書いているという意味でさしずめ「インキピットに成り損ねたインキピット」だと言える。この、冒頭句からその上五が欠如している非常事態は、読者に書かれなかったその空白を探す(思い出す)という作業を否応なく強いるだろう。そしてまた、この探そう(思い出そう)という意志は、一見可塑的なものにしかみえない掲句にかけがえのない単独性を帯びさせ、読者の胸中に聳えることを可能にすることだろう(福田と同型の作品として、アラゴンも『ブランシュまたは忘却』という小説を書いていることは非常に興味ぶかい)。

「    をあきのかぜと書く 裂け目」が、非常に不安定な湧出物でありながら、人間の想像力に対して強く屹立した「冒頭の一句」足りうるのはこうした事情によってである。はかなさとつよさは、福田の句においてこのように両立しうるものなのか、と思いつつ*3

*1福田若之「一度、「発句と言いはじめるために」
福田若之「なぜ一度、「発句と言いはじめることを考えるのか」
*2ホフマン『雄猫ムルの人生観』は『我輩は猫である』との関連を指摘される作品だが、そのタイトルの形式には両作品の手法の相違が如実に現れている。冒頭の一句を題として起こした漱石に対し、ホフマンの方はそのタイトルが示す通り(また実際の内容も)どれだけ交錯を装おうともまさに構想あっての小説である。
*2〕しかしながら福田の「冒頭と結尾」に対する欲望の全体像は、少なくとも「植樹計画」を含んだ形で考察されねばならないだろう(http://hw02.blogspot.fr/2015/01/blog-post_20.html)。またその際、レイモン・ルーセルの『アフリカの印象』の小説の「冒頭」と「結尾」は押さえる必要のある要件だと思われる。
 


1 コメント:

小津夜景 さんのコメント...

一語訂正です。六段落目の最後の文、

>福田と同型の作品として、

を、

>福田と同趣の作品として、

とします。