2015-12-20

【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】柳人・このわかめ的なるもの 飯島章友

【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】
柳人・このわかめ的なるもの

飯島章友



文芸評論家・劇作家・演出家の福田恆存は、自身のことを「カソリックの無免許運転」と言っていた。福田めかして言うならば、文芸としての川柳は〈五七五の無免許運転〉である。したがって柳人は〈五七五の無免許運転者〉と言える。ここでいう無免許とは、俳句でいう季語のような〈その文芸の表現を支えるツールがない〉ということだ。

まあ、それが川柳の魅力だと思うし、私自身も季語という制約がないので川柳を選んだくちだ。しかし、無免許のまま五七五を運転することに不安をおぼえないはずはない。もちろん、何年も無免許運転をつづけていれば、(このままずっといけるのではないか)という安心感が徐々に台頭してきて、いつしか不安はうすれていくことだろう。ところが、潜在意識に一時保管された不安は、とつぜん夢にあらわれて意識をさいなむことがあるのではないか。それは柳人もおなじだ。季語という免許がある俳句と向き合ったときなど、無意識の深淵から不安が顔をのぞかせる。不安なんてなーんもないよ、という言葉に騙されてはいけない。川柳で真面目に遊んでいる人ならば、誰でも一度は川柳の無免許性にほんろうされる。

さて今回の榊陽子の連作について私は、〈五七五の無免許運転〉にほんろうされる柳人の姿を「わかめ」に託し、戯画化したものと捉えてみた。軸の定まった地上の草木と違い、わかめは海のざわめきを柔らかく受けとめるように漂う。いろいろなキャラクターへ自由に変じ、なおかつ「なな子、社長ほか代用可」を演じられるのは、わかめくらいしかない。


泣いたってわかめわかめのショウタイム

なぜこの句の〈わかめ=柳人〉は泣いているのだろうか。思うにそれは、〈ショウ=川柳〉を演じるにあたって、〈わかめ=柳人〉が確固たる表現ツールをもっていないから不安なのだ。

「どこまでが俳句か、俳句の方で決めてくれ。それ以外は全部川柳でもらおう」というのは、川上三太郎という著名な柳人の言葉。定型以外これといった約束事がない川柳の自由さは、人びとを勧誘するときの売りにもなっている。しかし、表現にどん欲な柳人であればあるほど、自由というだだっ広い荒野で自分がどんな表現をしていけばいいのか不安が頭をもたげてくるものである。

また、ひとはよく自由について語る。そこでもひとびとはまちがっている。私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞する――ほしいのは、そういう実感だ。(福田恆存『人間・この劇的なるもの』 新潮文庫)

俳句には〈季語の本意〉という言葉があると聞く。〈本意〉というくらいだから、いかに俳句で季語が要となっているかが想われる。俳人にとって季語とは、「ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞する」というときの「役」に相当するのではないのかしら。俳句の門外漢である私からみても俳句の季語は、作品の成否にかかわる重要な役割を担っているように思われる。

いっぽう、川柳はどうだろうか。五七五の枠の中であれば「なにをしてもよく、なんでもできる」文芸だ。そのため、「なさねばならぬこと」を川柳が書き手に提供してくれることはない。言いかえれば、川柳で何を表現したいかは自分で見つけるしかないのだ。私自身、川柳を作句しはじめて二年間くらいは、川柳という自由な文芸を嬉々として楽しんでいた。ところが、創作的な自我が芽生えてきた三年目あたりから、〈自らに由〉って表現を確立しなければならない難しさを感じるようになったものだ。上掲句の〈わかめ=柳人〉も、〈ショウ=川柳〉における表現の確立がもてぬもどかしさで泣いているように思われる。


なんぴともわかめ涅槃を想像す

自分が〈ショウ=川柳〉で本当にやりたいことはなんなのだろうか。「テロテロするわかめ」「ふえるわかめ」「新宿のわかめ」といろいろなキャラクターを演じてはみたが、エステティックな手応えや実感はつかめぬまま、〈わかめ=柳人〉の苦悩はつづく。上掲句で「涅槃を想像」してしまうのには、そんな訳合がある。ただこの句では「なんぴともわかめ」といって、他者と自分の共通性を感じとっている。季語をもたない〈わかめ=柳人〉に苦悩があるように、季語をもった俳人にもそれに応じた苦悩があるはずなのである。


テンガロンハットも似合うわかめかな

どんなキャラクターにも自由に変じられる〈わかめ=柳人〉にとって、アメリカのカウボーイを演じることなどお手のものだろう。そればかりではない。時として俳句を演じてみせることだって可能だ。いわば「季語や切れ切れ字も似合うわかめかな」である。川柳でもふつうに季節の言葉や文の切れ目、そして切れ字とおなじ助詞は使われる。そのとき柳人は、一見して判別が不可能なくらい俳句とよく似た川柳をつくっている。つまり、俳句を演じることができるのだ。

なんとかして絶対的なものを見いだそうとすること、それが演戯なのだ。ちょうど画家が素描において、一本の正確な線を求めるために、何本も不正確な線を引かねばならぬように。(上掲書)

季語や切れ、切れ字も似合う川柳が川柳として正確なのか不正確なのか、私にはとうてい分からない。しかし、川柳としての手応えや実感を得るためには「何本も不正確な線を引」くことが必要になってくるだろう。そう考えたとき、カウボーイを演じることも俳句を演じることも、けっして無駄にはならないのである。


泣いたから訊けばわかめにゃ顔がない

冒頭の「泣いたってわかめわかめのショウタイム」と対になった句だろう。この連作は、冒頭で〈わかめ=柳人〉が泣く泣くショウに出演する姿を読者に示したあと、その〈わかめ=柳人〉の過去に遡り、さまざまなキャラクターを演じてきた軌跡を描出する。そして最後、上掲句でふたたび冒頭の場面に戻り、〈わかめ=柳人〉が泣いている理由は「顔がない」ためだと明らかにする。ここでいう「顔」とは、福田にしたがっていえば「ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞する」実感のことである。

最後に、榊陽子本人の文章を引用してみたい。今回このような連作を創った意味がそこはかとなく分かる気がするからだ。

わたしは、さあ、作るぞ!とパソコンに向かって川柳に取りくみます。つまり作句前に〈言わんとすること〉がまず無きに等しく、それは作っている過程でうっすらと見えてくることもありますし、出来上がった瞬間見つかることもあります。かと思えば最終的に意味らしきものも見当たらないのに理由もなく、これでよし!と合点がいけば意味なんかくそくらえと思ったりもします。(平成27年10月発行「川柳木馬」第146号の「作家群像 榊陽子篇」より)

なお、私がこの文章で使用した〈わかめ=柳人〉という言葉は、〈榊陽子〉に代用可であることを付記しておこう。



榊 陽子 ふるえるわかめ 10句 ≫読む 

第448号 2015年11月22日
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