2015-12-20

自由律俳句を読む 120 「鉄塊」を読む〔6〕 畠働猫

自由律俳句を読む 120
 「鉄塊」を読む6

畠 働猫



前回に引き続き、「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
今回は第八回(201212月)から。


◎第八回鍛錬句会(201212月)より
イタチ轢き殺したやつにもしぐれ 渋谷知宏
「にも」のとりかたに多少まごついた。
まず「イタチ轢き殺した」を「責めるべき行為」として解釈した。
「にも」が逆接であるため、「しぐれ」がポジティブなもの、恩恵として語られているように受け取れたのである。
北国に暮らす私のような者にとっては、冷たい雨に濡れることは死を意味する。
したがって、「しぐれ」が善いことのように語られることに違和感を覚えたわけだ。
改めて自分の認知傾向にも気づいた句である。
この句においては、「イタチ轢き殺した」行為については善も悪もなく、もっと巨視的な立場から現象を現象のまま述べている。したがって、「しぐれ」もまた、ポジティブでもネガティブでもないただの現象である。まず人の行為に焦点が当てられ、その後、カメラが引かれて「しぐれ」が等しく世界全体に降り注ぐ様子が映し出されていく。そうした景だろう。
映画的な技法と言える。

菅笠の男の般若心経の白い息 渋谷知宏
「男の」が余分のように思う。字余り定型のリズムを避けたのだろうか。
巡礼の途中、四国で詠んだ景であろうか。
やはりここでは「男の」という限定は蛇足に思う。

そのまま冷めるにまかせ足の爪切る夜が深まる 渋谷知宏
風呂上りであろうか。
熱い風呂を浴びたあとなのだろう。
私も中年になり腹の肉が気になるようになってきた。
気を抜くと腹のために屈んで足の爪を切るのが苦しくなる。足の爪が切れることが、体形維持の一つのバロメーターになっている。
最近、特に何もしていないのに痩せてきたのだが、何か病気の可能性を考えてしまう。中年の日々は戦々恐々である。

心のとなりで腹が鳴っている 白川玄齋
腹が鳴るという現象は不随意なものであり、しかも直接的に食欲という欲望を表明してしまう。おそらくはそうしたばつの悪い状況だったのだろう。
別れ話の途中で互いの腹が鳴って、どうでもよくなってしまうこともある。
理性的であればすべてうまくいくということもない。人は時に欲望を素直に表現すべきなのだと思う。自分自身禁欲的な性格であるため、そんなことを考える。

脱け殻の君よ禁欲を説くなかれ 白川玄齋
「抜け殻の君」はすでに欲望がほとんどないような状況なのだろう。病気で死に瀕しているのかもしれない。あるいは、禁欲を説く宗教家の言葉に空虚を感じたのか。

ことばを出せぬ隣人のためにことばを超える何かをください 白川玄齋
言葉による表現を選んだ私たちにとって、その「ことばを超えるもの」こそ追求してゆく課題となるだろう。「ください」と手放しで欲しがってしまってよいものか。修羅としての責務の放棄にも思える。
逆に言えば、それだけ切羽詰まった状況であるのだとも言える。
人生をかけて辿り着くべき境地に、時間や生命の制限により辿り着けない恐れを抱いているのか。

朝が解けない 天坂寝覚
「とけない」と読む方がリズムがいいが、「ほどけない」と読むべきか。
しかしいったい何を詠んだものか。
これが「夜」であるならばわかる。
濃密な夜が(あるいはその余韻が)朝の光の中でも解けずに残る。そのような逢瀬であるならば実感としてわかるからだ。
しかし「朝が解けない」とは?
この句では「朝が」の後に切れがあることに気づかなくてはならない。
「解けない」のは「朝」ではなく、別のものなのだろう。
「解(と)けない」謎。
「解(ほど)けない」肢体。または舌。
「朝が」の後にある切れは、訪れてしまった朝の光を発見した詠嘆を示しているのだ。

「夜よ負けるなよ朝に負けるなよ 何も答えが出てないぢゃないか(「パール」吉井和哉)」

また泣いているほっぺたの熱ささわる 天坂寝覚
赤ん坊だろうか。
その熱さは生命の熱そのものなのだろう。

きみがいた窓を開けて目が合ったけれど 天坂寝覚
「きみがいた」の後に切れがあると読むべきだろう。
「きみ」を発見し、性急に窓を開けた。しかし言葉に詰まってしまう。
思春期のにおいがする。校舎の窓、校庭のきみ、か。
甘酸っぱい中学生の恋を思い出す。

一人だけニコニコ笑っている会議 中筋祖啓
よくわからない状況だ。
前後の文脈なく一瞬を切り取ることの不気味さをよく表している。

ラリっている波の光を追うばかり 中筋祖啓
合法であってほしい。

雀の長さんがのーぼった 中筋祖啓
小林一茶にも通じる心性がここにある。
雀も人間も違いがなく、小さな物への慈しみと親しみがよく表れている。

少女の小さな頭蓋を掴む 馬場古戸暢
この感覚は非常によくわかる。
同じ人間でありながら、子供の小ささは不思議な気持ちにさせられるものだ。
こんなに小さいのにきちんとパーツが揃っていて、可動する。
小さな者が小さい身体で生きている。
自分もかつてそうであったはずなのに、今大人になった目で見るとそれが不思議でならない。
おそらく詠者もまた、そのような発見と感慨を抱きながら少女の遊びの相手をしているのだろう。

女のうなじがマフラーの中 馬場古戸暢
マフラーに包まれたうなじの在処を意識するのは、それが先ほどまで曝されていたからである。
冬の逢瀬の終わりであろう。艶めかしい句である。

雪が降りそうな夜の窓をなぞる 馬場古戸暢
結露した窓であろう。
指先が描く線の向こうに寒々とした夜が広がる。
これもまた色気を感じる句である。

ギター取り戻しに屋上へ 藤井雪兎
昭和の少年ジャンプである。劇画と少年漫画の境目である。
句には「ギター」と「屋上」しか描写されていないが、私たちの眼前には「番長グループ」に立ち向かう「裾が破れた学生服」を着て「髪型と一体化した学帽」を被り「頬に傷のある熱血漢」が「木刀」を持って階段を駆け上がる姿が見える。
こうした昭和のヒロイックな物語性も雪兎の持ち味である。
ある意味でステレオタイプであるとも言えるのだが、それを逆手に取り、陳腐に陥らない昇華の仕方に詠者のバランス感覚が表れている。

君と君のパスワードとすれ違う 藤井雪兎
これは難解に思う。
「君のパスワード」であれば、「君」にコミットするための言葉ととれるが、前後との繋がりがよくわからない。
なんとなく、共にいながら心が通わない様子を想像するが、素直に落ちない。

窓ガラス冷たいから割らない 藤井雪兎
「窓ガラス」の冷たさは、外気の冷たさを伝えているのだろう。
割れば、その外気に晒されることになる。
窓ガラスを割るという衝動的な行為の前に、その結果を考えてしまう理性が顔を出したのだろう。
そのままの景ともとれるが、「窓ガラスを割ること」を何らかの破壊、変革のメタファーとも考えられる。
壊してしまいたい、捨ててしまいたい関係や状況がある。
しかし、その後のことを考えてしまい、踏み切れないでいる。
そんな心境や状況を窓ガラスに仮託して詠んでいるのかもしれない。

小腹減ったやかん鳴かせている 本間鴨芹
カップ麺だろうか。
湯は沸いたものの、食べるか食べないか悩んでいるのだろう。
夜食は中年の体形維持の大きな障害である。

ポインセチアなければひとりの夜 本間鴨芹
クリスマスの夜であろう。
「ポインセチア」そのものと過ごす夜である、ともとれる。
また、その「ポインセチア」が誰かとの夜を繋いだともとれる。
どちらにせよ、なんとなくおかしみのある景である。

歳末のジョンに包囲されている 本間鴨芹
ジョンはレノンであろうか。
クリスマスや歳末の催しに浮かれた街に、ジョンの歌声が流れることにずっと違和感を覚えていた。これは切実な祈りの曲であるからだ。
この句が詠まれた2012年当時は、世界各地で継続中の紛争があり、またアラブの春と呼ばれた民主化運動とそれに伴う混乱がアラブ諸国で続いていた。
それでもまだ多くの日本人にとって戦争は他人事であったように思う。
だからこそ、この句のようにジョンレノンの歌はどこか空虚に街に響いていたのだ。「包囲されている」とはまさにその空虚さに苛まれる様子である。
しかし「Happy Xmas (War Is Over)」は今こそ必要な曲になってしまった。
私も祈る。
全ての人の心に平穏が訪れることを。
全ての人が心から争いの終わりを望むことを。

同じ目の高さで昨日も聞いた話 松田畦道
目の高さを合わせているところから、相手の目線が低い状況であるのだろう。
話しているのは子供か、あるいは車いすにのった老人か。
いずれにせよ、優しさにあふれた句である。
自分は現在、母親の介護をしているので、後者の景で共感した。
ただ、自分はこのように母の話に耳を傾けることはできないな、と思う。
職業柄、他者の話を傾聴するのは得意であるが、家族に対してはそれが上手くできない。
仕事としての割り切りや使命感が私に傾聴の姿勢をとらせるのであって、家族に対してその姿勢を維持することはできない。昔からそうであった。
ある意味で甘えなのだろうと思うが、自らの優しさの欠如に対して自己嫌悪に陥ることもある。
介護で大変な思いをする度に考えることなのであるが、隣人と親を交換し、互いに同額の介護報酬を支払い合って介護を行うというというシステムはいかがだろうか。仕事だからできることってあるものだ。

株式欄を敷いて酔いつぶれていた 松田畦道
これからの忘年会のシーズンには駅等でこうした光景を目にすることもあるだろう。おそらく、詠者が見たのは、株式欄とは縁のなさそうな人物なのだろう。
そこにおかしみがある。
かく言う自分も株のことはちんぷんかんぷんである。ただ北海道共和国において、酔いつぶれて外で眠ることはすなわち死を意味するので、この年末を生き残るべくこの句を教訓としたい。

無念の墓の土から薊 松田畦道
これが愛し愛されながら分かれた者の墓であったなら、百年後に白百合が咲き、骨に徹えるほど匂うだろう。
無念の墓には、確かに薊が相応しかろうかと思う。


*     *     *


以上、第一回から第八回は、自分が参加する以前の「鉄塊」句であり、今回遡って読んでいくのは、初見でこそないものの新鮮であった。
「鉄塊」という場が実におもしろかったなあ、と今振り返りながら、再認識している。



次回は、「鉄塊」を読む〔7〕。

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