2015-12-27

自由律俳句を読む 121  「鉄塊」を読む〔7〕 畠働猫

自由律俳句を読む 121
 「鉄塊」を読む7

畠 働猫

「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
今回は第九回(20131月)から。



◎第九回鍛錬句会(20131月)より

雪の深さ知る右足 渋谷知宏
踏み出した足が深みにはまってしまったのだろう。
私はずっと北海道在住であるため、雪に関しては上級者と言っていい。
したがって、雪の深さや固さは見た目で判断することができる。だからもう何年も冬でも夏靴で過ごせているほどである。
そうした「北から目線」でこの句を見ると、「ふふん、まだお若いから」と微笑ましい気持ちになる。

冷蔵庫氷を産んだ聖夜 渋谷知宏
我が家の冷蔵庫はもう20年以上使っているため、このような機能はないのだが、最近の冷蔵庫はすごいね。たいしたものである。
この句では、「聖夜」と詠っているように、何もしないのに勝手に氷が作られる冷蔵庫を何もしてないのに受胎し出産した聖母マリアになぞらえているのだろう。
比喩の妙である。

くだを巻く金もなく直帰 渋谷知宏
学生ならば、誰かの家に集まって、となるところであろう。しかし社会人にもなるとなかなかそうもいかないものだ。家庭持ちだとなおのことだろう。
ところで私事で恐縮なのだが、年明けに手術のため入院する予定である。
そのため医者から酒を止められており、年末年始を素面で過ごすことになった。クリスマス、忘新年会、正月とずっと素面である。
金はなんとか稼げるようになったが、これではくだを巻くこともできない。
なかなか人生というものはうまくいかないものだ。

雨を来て来ただけ 天坂寝覚
天坂寝覚の句についての鑑賞をすでに行ったが、その際にも触れた句である。
この連載を引き継いで最初の回、101回で読んだ。
以下に当時の鉄塊句会での自分の句評を再掲する。

「目的に対して困難な手段を選択・実行する場合、往々にして手段そのものが目的にすりかわってしまう。『雨を冒しても(会いに)行く』ということ、それ自体が目的となってしまった。雨の中を来た者はそれだけで満たされてしまったのだ。しかしそれを迎える側は、こんな雨の中をわざわざ来て、そして黙っている相手の真意を量りかね、困惑し、自分もまた黙って立ち尽くすしかない。本来の目的であった愛は、雨にまぎれて流れ去ってしまった。そんな夜の出来事だろう。」

当時も今も変わらず、寝覚の句の中で私はこの句が最も優れたものと思っている。
それはこの景を私が知っているからであり、そこにあった極めて個人的な感情や揺らぎを句にしてくれた作者と共有できることに驚きと喜びを感じるからである。

また寝て夜 天坂寝覚
こちらも当時の自分の句評を引用する。

「二度寝をして夜まで眠ってしまったのか、それとも睡眠のリズムが夜型になってしまって、夜に目覚めるサイクルになってしまったのか。いずれにせよそれは、昼の世界との関わりを絶ってしまったということだ。今から身支度をして出かけても、買い物もできない。まともな食事もできない。図書館だってやってない。コンビニ、24時間チェーンの牛丼屋、インターネットカフェ……。夜の孤独の受け皿はどれも空虚で陳腐で薄暗い。そしてまた何も予定ができなかったと後悔し、ただただ癒せない焦燥感を抱きながら、訪れる睡魔に任せてまた夜まで眠ってしまう。自分もすぐに生活リズムが乱れるのでよく分ります。」

不眠をかつて3年ほど患ったことがある。
よい経験だとは思わないが、抜け出せた今は、その苦しみを客観的に理解できるようになった。仕事でもそれは役に立っているし、悪いことばかりではない。
禍福は糾える縄の如しである。

名前を呼ぼうとして枯れ草 天坂寝覚
夢や心象風景のように読む。
枯れているのはライ麦であろう。
つまりこれは「キャッチャー・イン・ザ・ライ」なのである。
作者もまた、そのライ麦畑から零れ落ちてゆく誰かを救いたいと願いながら、手を伸ばしている。名前を呼ぼうとしている。しかしいつか麦は枯れ、あとには荒涼とした広場にぽつんと一人残されてしまう。
夢であってほしい。
夢ならば何度でもやりなおせるからだ。
私も手の届くすべての人を救いたい、助けたいと思って生きてきた。
すべてを選ぼうとして何も選べなかったばかりに、私のライ麦畑からはみんな零れて落ちていってしまった。

ローソクや見せ物にしてはならない事がある 中筋祖啓
土着的な秘密の儀式、奇祭を思わせる。私はそうした秘儀密事にはどうにもわくわくしてしまう性質である。
見せ物ではないようだが見たい。知りたい。参加したい。

スプーンの、事が・・・・・・・・、好きです。 中筋祖啓
当時はまだ「原始の眼」を知らず、この句にもただ困惑したことを憶えている。
以下は当時の私の句評である。

「ちょっと意味が分らなかった。『キリンさんが好きです、でもゾウさんのほうがもっと好きです』というCMを思い出した。

今見るならば、小さな頃の自分自身の経験を思い出して共感することができる。
まだ箸がうまく使えず、なんでもスプーンで食べていた。その頃の気持ちは確かにこういうものだった。

ストーブの内々に燃ゆ芯の炎 中筋祖啓
北海道の家庭ではメインのストーブは大型で、赤々と火が見えるものが多い。
だからこの句は当たり前の情景を詠んでいるようで特に新鮮さを感じない。
ただ、この句で詠まれているのは小さなストーブなのだろう、とは思う。
ガスか灯油を燃やして、温風が噴き出すタイプなのだろう。
その噴き出し口を覗いて炎を発見した情景なのだろう。
これもまた、まるで初めてストーブを見たかのように「原始の眼」がとらえた瞬間なのだろう。

長靴ちいちゃく雨を蹴った 馬場古戸暢
「ちいちゃく」が幼児語であることから、子供の姿を詠んでいることがわかる。
童謡や絵本のような温かくやさしい情景である。
合羽を着て長靴を履いて、雨の中を歩く様子か。
その一瞬を逃さずに切り取る視点に、対象への愛おしみを感じることができる。

人妻が待っているメールを開く 馬場古戸暢
一時期同様の迷惑メールが届いていたことがあった。
「裕福な人妻が貴方を待っている」というような内容であったと思う。
こうした迷惑メールや架空請求にはまってしまう人というのは本当に存在するんだろうか、と疑問に思うのだが、存在するから無くならないのだろうね。
難儀なことである。

シュークリームをつかむ小指の爪の長い 馬場古戸暢
小指が立っていたのだろう。
女性だろうか。
年齢のせいか甘いものが食べられなくなってきた。
深夜であるせいかもしれないが、今この「シュークリーム」という字を見ただけで若干胸やけがしてきている。
食欲も性欲も弱まっていくのを感じると、だんだん死が近づいているんだなあと思う。

拳怪我したまま新学期 藤井雪兎
雪兎の句は少年漫画を思わせるものが多いが、この句もそうである。
私の場合は「リングにかけろ」であるが、「がんばれ元気」や「はじめの一歩」などを思い浮かべる人もあろう。
新学期には新たなライバルキャラが登場するはずだ。そこに拳の故障というハンデを背負ったままで立ち向かうことになる。
熱い展開である。

くびれているからあの星が見える 藤井雪兎
「くびれている」のは女体であろうか。
「在る物」を詠むことによって「無い物」を表現するという手法は、俳諧・俳句においてポピュラーなものと思うが、この句も同様の方法を用いている。
女の背後の星を詠むことによって、その身体の細さ、柔らかさを強調しているのだろう。
この句も少年漫画で読み解けば、「あの星」は死兆星である。
とすれば、このくびれはマミヤのもので、見ているのはレイなのだろうな。
マミヤ……悲しい女よ……。

名言つぶやいても私の声 藤井雪兎
自分の声を名言に値しないものと感じているのか、それともそれをコミュニケーションの道具と考えているために一人の状況では意味のないものと考えているのか。
いずれにしても、この気持ちになったことはない。
名言、警句といったものは実際には役に立つものではないのだから、今生きている「私の声」の方が美しく尊いものだと思う。

磯野家にない二階が暮れている 本間鴨芹
日曜の夜なのだろう。二階建て以上の一軒家にお住まいか。
磯野家にあって我が家にないものは数あれど、二階だけはあるぞ。そんな気持ちであろうか。

知らない人が四回目の出場だ 本間鴨芹
非常におもしろい。良句と思う。
当時の句会での句評は以下の通り。

「たとえどんな偉業であろうと、関心のないものからすれば、こんな感想になる。これを逆の立場に置き換えるならば、今自分がこだわっていること、取り組んでいることも、他人から見ればこのように感じられるということだろう。ただ句にせよ、詩にせよ、本当によい物は無関心なものをも感動させる力を持っているとも思っている。いつかそんな詩や句を生み出したいものだ。しかし、『四回目』は絶妙である。五回以上なら知らなくともすごいと思うだろうし、三回以下なら目に留まらないだろう。おそらく実際の日常を切り取ったのかと思うが、計算ならばおそろしい。」

低きに流れて大河 本間鴨芹
当たり前と思うが、今年何度か遭遇した集中豪雨の際にはこうした気持ちになったものだ。

肺病む父子であり無口 松田畦道
遺伝であろうか。体質であろうか。
元々、父と子との間には必要以上に言葉はいらないものだ。
それでも互いに病気の苦しさをわかっているのだから、無口であっても通じ合うものがあるのだろう。
私が父を亡くしているせいか、苦しさの中にも満足や愛情があるように思えて羨ましささえも覚える景である。

磨り減ったサンダルが火事だといって走る 松田畦道
「磨り減った」ことがなぜわかるのか。音だろうか。
それとも親しい人で、常日頃からそのサンダルを知っているのか。
走る人は裕福ではない。下町の情景であろうか。
美空ひばりの「お祭りマンボ」を思った。
何を言ってもワッショイショイである。

舌だしてもの欲しがってぶさいく 松田畦道
犬であろうか。
パグやブルドッグなど、不細工な犬を特に好む愛好家はいるようだ。
そしてこの句でも「ぶさいく」には愛情が込められていることがわかる。
作者の微笑んでいる様子も見えるようである。



*     *     *



第九回は、私が「鉄塊」に参加した最初の句会である。
今振り返って感慨深いものがある。
以下が私の投句である。

宿るものごと平たい骨を嚥下する 畠働猫
すっからかんだった夜(よ)に雪満ちる 畠働猫
愛も死体も抱いて湖凍りつく 畠働猫

今見ると硬さやこだわりが見て取れて、実に不自由である。
自由律俳句というものを始めたばかりの者が、「鉄塊」という場を通して多少なりとも成長していく様子についても、この先ご覧いただけるかと思う。



今年の更新もこれが最後となりそうです。
迷いながらも拙い連載を21回も続けることができました。
このような機会を与えてくれた馬場古戸暢氏、そして週刊俳句編集者の方々に心より感謝しています。
また、何よりも記事を読んでくださる皆様に深くお礼申し上げます。
すべての人の心に安らぎと平和が訪れること、そして健康をお祈りします。
来年も鋭意、自由律俳句を読んでまいります。
今後ともどうぞよろしくお願いします。



次回は、「鉄塊」を読む〔8〕。

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