2015-12-27

週俳2015年10月のオススメ記事 「書く」における「こと」性とそのほか 宮﨑莉々香

週俳2015年10月のオススメ記事
「書く」における「こと」性とそのほか

宮﨑莉々香



はじめに

10月のオススメ記事を紹介する。まずは第444号、小津夜景氏の『セックスと森と、カール・マルクス。 柳本々々を読む』。わたしはこの記事の詳しい紹介を書くことは出来ませんでしたが、髭=森=性のテクストの取り扱いが実に興味深いです。みなさんも是非に。

わたしが考えたのは第443号の小野裕三氏『俳人たちはどのように俳句を「書いて」きたか?〝ぐちゃぐちゃモード〟の系譜とデジタル化の波』である。小野氏は、俳句における「書く」という行為と書き方について述べている。それを受けて、俳句における「書く」ことについて考えた。


俳句を書くことは「もの」的か「こと」的か

わたしたちはまず、俳句における「書く」ことを考えなければならない。句帳に書くことが「書く」ことにあたるとして、ぐちゃぐちゃモードで書くことが「書く」であるのか、きれいに書くことが「書く」であるのか。吟行のように、紙(句帳)とペンを携帯して、その場で書きつけることもあれば、作った俳句を記憶するために、清書することもあるかもしれない。ここでは、ぐちゃぐちゃモードで「書く」のは、「こと」的であるのに対し、清書のようにきれいに「書く」のは「もの」的であると定義したい。

現在までさまざまな、「もの」「こと」論が俎上に上げられている。はじめに、「もの」と「こと」に関しての事象を挙げる。大野晋氏は『日本語をさかのぼる』において以下のように述べている。

コトが、時間的に推移し、進行して行く出来事や行為を指すに対して、モノの指す対象は、時間的経過に伴う変化がない。存在としてそのまま不変である。 『日本語をさかのぼる』大野晋(岩波新書 1974年)
「もの」「こと」について述べている一人に荒木博之氏もいるが、『日本語をさかのぼる』刊行の五年後に著作において大野氏同様の考え方を示している。ぐちゃぐちゃモードの「書く」は句帳に自由に言葉を構築することができ、俳句自体のかたちが変化する可能性を含んでいる。一方で、清書として「書く」は、ほぼ不変的な完成された「もの」的行為であると言える。「もの」としての「書く」には記憶される特性が含まれるが、ある一定のかたちで保存されるということは「こと」としての「書く」には含まれない。俳句を「書く」時、まず「こと」としての「書く」があり、「もの」としての「書く」がある。確かに例外もあろうが、そのような順序で俳句の「書く」行為は為されているのではないだろうか。小野裕三氏は若い人はどうなのだろうと書いてあったが、わたし自身は外に出て俳句をつくる根っからの吟行派で、A5サイズの俳句ノートに青いペンで書きつける。その後、いちおうに「もの」化したそれらを、パソコンに「もの」的に保存している。少し話は広がってしまうが、「こと」から「もの」への変化の例として、「こと」であった作品(俳句)が印刷され、句集や結社誌、同人誌など活字化され「もの」になる事象がある。


「書く」に関して考えること

なぜ、旧仮名人口のほうが多いのか。よく言われることがある。現代仮名遣いで俳句を書こうとすると漢字をひらくという行為は旧仮名遣いよりも少ないのではないだろうか。例えば、「みづ」にした方が、言葉のやわらかさが出ていい感じになるからとか、旧仮名の方が自分の読みたい内容に合っているからと言う人がいるが、わたしは、すんなり納得することができず、なんだかもどかしい気持ちがする。

「書く」ことで「もの」自体に、ニュアンスとしての差異が生じるというのは理解できるが、わたしたちが見ているのは「もの」としての「水」であって、「水」でしかない。すると、「みづ」に変換するよりも「もの」としての「水」をそのまま詩に受け継いだ「水」の方が幾分かリアルな感覚を覚えるではないだろうかと、こう考えるわけである。それでも、たしかに〈上着着てゐても木の葉のあふれ出す〉とあるように、うねりを帯びた「ゐ」の存在感や旧仮名の持つ、どくとくの感覚は、鴇田智哉氏の作家性を象徴しているようにも思う。鴇田智哉の俳句は「ゐ」的だ。自分の思っていることが、旧仮名で俳句を受け取った時の感覚に近いと感じた時、わたしたちは旧仮名で書き、反対に、現代仮名の俳句に近いと感じた時、現代仮名で書くのだろうか。気づいた時には「ちひさい」と句帳に書き留めてある。わたしたちは、そのものを見たときから、ものを「小さい」もしくは「ちいさい」でなく、「ちひさい」と感じるのか。それでも、「もの」である「水」を受け取るときは「みづ」でなく「水」である。対象が「もの」であるかないかの違いもあるが、私たちが目にした「こと」(ことがら)に「書く」という行為、つまり旧仮名使いフィルターもしくは、現代仮名遣いフィルターを通すことによって俳句ができる。どちらのフィルターを使うかは、そのひとがどのように俳句を書きたいかによるが、現代仮名遣いの持つ、リアリティーに憧れることがわたしには時々ある。しかし、旧仮名遣いでは、「書く」という行為によって書こうとする「こと」(事象)が「もの」(作品)になった際に、「こと」から「もの」への差異化を現代仮名遣いよりも大きく図ることができる。それはまた、作品と作家を一緒に鑑賞されることが多い俳句において、微々ながらも「作家性」を生み出す行為であると捉えることもできるだろう。


「書く」とは

「書く」行為は記憶することだと言われることが多い。しかし、「こと」的な「書く」が俳句には存在し、書くという行為の中にはつくりだす行為がふくまれている。それは俳句の手軽さでもあり、親しみやすさでもある。その上で、わたしたちはどのように「書く」か、考えらされる。

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