2015-12-27

週俳2015年2月のオススメ記事 失われた身体を捜さない 青本柚紀

週俳2015年2月のオススメ記事
失われた身体を捜さない

青本柚紀



覚醒しきらない体で、部屋を見渡す。イヤホンをつけて、新宿を歩く。吊革を握り、音楽を聞きながら、液晶画面を見る。こういったとき、目の前のものたちは確かにあるはずなのに、どこか遠くにあるように、触ってみてもつるりとした感触しか残さないかのように見える。

柳本々々の《ぼんやりを読む ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって)》では、鴇田智哉の〈毛布から白いテレビを見てゐたり〉という俳句と石原ユキオのゾンビ俳句において、主体が「気散じ」または「身散じ」の状態にある「ゾンビ的ぼんやり身体」の持ち主であることが指摘されている。また、このような状態から〈見る〉ことは〈触感〉を持たないが、〈触感〉としての〈実感〉は横たわるからだや、朽ちていく非身体的なものとして見ることが立ち上げられているのだという。さらに、身体と〈見る〉ことの関係性を挙げたうえで近代的な〈見る〉ことのスタンダードは〈歩く〉ことだが、毛布に横たわる観察者も、体が朽ちていく観察者も、近代的な〈正しい〉観察者になれず、つまりそこには直立歩行の観察者としての〈写生〉の挫折があり、そこからの、〈ぼんやり〉の提唱があるとする。そして、《ぼんやり》を俳句的領域に立ち上げることこそが鴇田智哉や石原ユキオがゾンビ的身体で成し遂げたことだと述べられている。

音楽を聞きながら、喋りながら、テレビを見ながら――見ることに限らず、別のことをしながら何かをするということが現代の生活では普通のことになろうとしている。それは、常に「気散じ」や「身散じ」の状態にあるということで、我々の〈身体〉も純粋に〈見る〉ということも失われたということと等しい。

俳句は多くの場合、視覚的情報によって書かれる。当たり前だけれど、〈見る〉ことは〈書く〉ことに直結する。生活のなかで〈見る〉ことが変質しつつある中では、〈書く〉ことや。書くことでなにを立ち上げるか、ということも考えなおす必要があるのかもしれない。そのとき、この記事からひとつの方向性が見えてくる。それは、〈写生〉の挫折を受け入れて、ぼんやりとした身体の持ち主として書くことだ。もちろん、純粋に〈見る〉ことを取り戻す努力をするという方向性もあるし、どうしてその挫折を受け入れてしまうのかという人もいるだろう。が、やはり〈写生〉の挫折を受け入れた上で書く、ということがひとつの方向性としてあってもいいのではないか。どちらも、失われつつある身体性の自覚や、書くためにもがくことを同じぐらい求める方向性であろうから。

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