2015-12-27

柳本々々さんに聞きました 季語のこと、定型のこと、勇気のこと

柳本々々さんに聞きました

季語のこと、定型のこと、勇気のこと

聞き手:西原天気


季語はこわい

天気▼
柳本さんは、短歌、川柳、俳句と、幅広く、懐深く、読み、批評されていますが、実作では、短歌と川柳です。俳句を実作されないのは、なにか理由があるのですか? 

柳本▼
俳句における季語っていうものがとても〈こわい〉ものだという意識があります。

季語はどこか超越的で、俳句の感想を書いているときでもそうなのですが、すごく自分をにらみつけているきがするんですよ。お寺の入口にいる「あ・うん」の仁王像みたいに俳句のなかに入ろうとすると季語の洗礼を受けなければならない。自分はよく勝手なことをするので、季語に怒られる気がするんです。

もちろん、短歌や川柳も〈定型〉というこわさがあります。定型もどこか超越的なので(だから短歌も川柳も「こわい」と思いながらいつもつくっています。もし落語化するなら「定型こわい」になるはずです)、でも、季語はもっと、こわい。

俳句の感想を書いても、「おまえはわかっていない!」って一喝されたら、季語があるから有無をいえない感じがあります。その意味で、ちょっと俳句にはカフカの小説のような〈無能力感〉を感じるときもあります。

天気▼たしかに、叱る人はいそうです。「季語の本意」とかなんとか、ほとんど口癖のようになっている人もいますから。

柳本▼
でも、西原さんとお話させていただいたときに、俳句や季語という形式のなかで〈にもかかわらず〉どんな〈ヘンなこと〉ができるかを試してみたい、と西原さんが、たしかおっしゃったときに、少しだけですが季語の質感が自分にとってはわかったような気持ちになったところがありました。もしそういうふうに〈とっくみあうもの〉としての季語ならば、季語っていうのは面白くなるかもしれないと。

天気▼
今年2015年の9月、大阪での『川柳カード』第3回大会で初めてお会いしたときの雑談ですね。憶えています。ただ、私が言いたかったのは、有季定型・文語体の俳句で「ヘンなこと」がしたいということでした。いっけん俳句らしい、ふつうの顔をしていて、じつはヘン、といった句。なかなか実現できないのは不徳のいたすところです。たんに自作のめざすスタイルということだったのですが、「俳句」と枠組をひろげると、根本的な話になりますね。

あの雑談のとき、柳本さんは「ノイズ」という語をあげて、季語の話をされたと記憶しています。「おもしろいな」と思ったのですが、なにしろ懇親会での立ち話ですから、それ以上、聞けなかった。「ノイズ」について、もうすこし説明していただけますか?

柳本▼
「2020年の啄木忌」という川柳連作のなかで《マスオさんが着るABC浴衣 啄木忌》という句をつくったことがあるんですが、自分にとってこの「啄木忌」っていうのは「2020年」と書いたようにある意味で時間のどこにもない場所のフィクショナルなもので未来にあるようなものなんです、いまだやってきてはいない2020年に啄木がもう一度死ぬというような。 でも「啄木忌」は春の季語で、「浴衣」は夏の季語だからもしここで季語を意識するとそれはノイズが生じてしまうとおもうんですよ。ショートするというか。たぶんじぶんのやりたいのは時間が錯綜してるような空間だとおもうんです。

けれど、季語は定点としての碇を降ろすようにいってくる。〈いま・ここ〉を決めろ、と。

短歌や川柳では時間が錯綜してる場所もあらわせるような気がするけれど(小津夜景さんが川柳はSF的だとおっしゃったのはそういうところもあるのかもしれない)、季語はそれを許してくれないような気がするんです。

それをじぶんがあらわすならば季語は〈ノイズ〉ということになるようにおもうんです。あんまり時空をじぶんかってにはさせないよというか。ここにいなよ、と肩をがっしりつかまれるというか。

たださいきんは、季語が生成してる時空間のありかたというか、季語しかつくることのできない磁場みたいなものもあるのかなと考えたりしています。それはシュウハイを読み続けていて、いろんな俳句のカタチを教えていただいたということもあります。

季語ひとつでも金原まさ子さん、関悦史さん、鴇田智哉さん、田島健一さん、石原ユキオさんなど数え切れないくらいほんとうにいろんな俳句の時空のありかたがある。俳句は俳句だけではない、というか。俳句は未知の動きをし続けている、というか。季語はときにアクロバティックだし、すごいなとおもいます。

だから今あらためて思うのは、〈ノイズ〉というのは分節が変わってくれば〈音〉になるということです。ノイズはいつでも自分次第で聴き方次第で変化する可能性を秘めてるとおもいます。自分にとってノイズとはそういう可能態なんだとおもいます。

天気▼
音の比喩、音楽の比喩、たいへん興味深いですね。

多くの俳句にとって、季語は一句の調和のなかの鍵音のような存在で、不協和音ではない。それに対して、ある種の俳人は、季語という俳句の規則を、いわば逆手にとってノイズをつくりだそうとしているのかもしれません。

そこで話を少し変えるのですが、せっかくですから、自作として挙げていただいた《マスオさんが着るABC浴衣 啄木忌》 という句をとっかかりにして。

この句、〔ますおさんがきる/ええびいしいゆかた/たくぼくき〕=〔895〕の音数になっています。575ではない。柳本さんはこれもやはり定型としてつくられているはずで、そうすると、いわゆる575定型には収まりきらない、というか、別の定型観をお持ちのような気がします。

定型はアメーバ

柳本▼
いまあらためて自分の定型観を問われてぱっと思い出したのですが、自分がはじめて定型に〈きちんと〉興味をもったのが、斉藤斎藤さんの歌集『渡辺のわたし』や柳谷あゆみさんの歌集『ダマスカスへ行く』を読んだときだったんです。

それまで短歌は〔57577〕の世界しかないしその範囲内でしか表現はしていけないと思っていたのに、斉藤さんの歌も柳谷さんの歌もどういうふうに定型として分節していいかまったくわからないような歌ばかりだったんです。《誰もいなくなってホームでガッツポーズするわたくしのガッツあふれる/斉藤斎藤》や《わたしの人生で大太鼓鳴らすひとよ何故いま連打するのだろうか/柳谷あゆみ》。
それがとてもショックでした。長いことかけてひとつの惑星に馴致していたのに、とつぜん違う惑星に暴力的に放り込まれたような。そっちょくに、おののいたんです。

後に雑誌の鼎談のなかで斉藤斎藤さんが定型は指を折って数えるようなものじゃないというようなことをたしか言われていて、少しそのこととも関係しているのかなと思いました。飯田有子さんの《たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔》という短歌や普川素床さんの《ギャグを考えていると闇がじゃあね、と云った》という川柳もそうです。どうなっているんだ、なにが起こっているんだという衝撃です。定型が怪物的に感じられた。

そういう〈不安な遭遇〉から定型についていろいろ考えているうちに定型というのは《心理的》に表出される部分もあるのではないかと思いました。〈この歌/句に限ってはそうならざるをえない〉場合があるのではないか。そうやって定型は読み手をも巻き込んでいくときがあるのではないか。この状況をいっしょに考えてほしいと。

たとえば非常な不安感や尋常ならざる状況ではどうしても定型が物質的な音素ではなく、心理的な音素によって構築されていったりとか。時間や場所が揺らいでいる場所では定型もゆがんでいたりだとか。すごく大きな言語化できないような出来事は定型にきちっとおさまることがむしろ不自然だったりする。むしろ〈定型にそれがおさまってしまうこと〉を読み手に問いかけたりする。言語と定型と出来事の関係はどうなっているのかと。

そんなふうに〔57577〕や〔575〕を志向しながらも〔57577〕や〔575〕になることのできなかった定型詩がある。でもそれも定型詩なんですよね。定型じゃないのに定型詩である短歌や川柳、俳句がある。定型はアメーバのように生長している。定型も〈いきもの〉なんだって思ったんです。定型器官、というか。定型機械、というか。

天気▼
何を定型とするか。そのへんは微妙ですね。

誰もいなくなってホームでガッツポーズするわたくしのガッツあふれる/斉藤斎藤
わたしの人生で大太鼓鳴らすひとよ何故いま連打するのだろうか/柳谷あゆみ

このふたつ、定型の感じ(定型感)という点で異なりはしますが、どちらにも定型は感じます。前者は、〔誰もいなく・なってホームで・ガッツポーズ・するわたくしの・ガッツあふれる〕で〔67677〕。定型感がきわめて強い。後者は、前者のような「575との接点」が見出しにくいのですが、〔何故いま連打するのだろうか〕の〔77〕の箇所で、がぜん定型感が出ますね。ちなみに、私も指で音数を数えないタイプです。

柳本▼
たしかに西原さんのおっしゃるとおりで、定型感があると言われればそうなんです。今だとわかるんです。実は歌集を見直していてわかったんですが、今だと斉藤さんや柳谷さんのどの歌も自分にとっては〈定型感〉があるんです。だから例を出そうとして歌集を読み返していてちょっと困ったんです。読んでいてなんとなく定型感を感じるようになっていたので。ところが最初のときは〔57577〕そのままが定型だとおもっているので、どうしてこんな定型ができちゃうんだろうということが不思議だったんです。

西原さんがおっしゃるような「誰もいなく・なってホームで」という分節ができなかった。「誰もいなくなって・ホームで」でつまずいてしまうというか。だから定型も経験値をつんでいくうちに定型特有の〈生理〉のようなものがわかってくるのかもしれません。分節感覚というのか、定型を定型化できるだけのリズム感覚というか。スキップができるひとにはできるけれど、できないひとには案外むずかしいみたいな、そういうのと似ているかもしれません。そうするとありふれた言い方ですが、定型って身体化とも結びついてきますね。どれくらい定型が身体化しているかはおのおので違う。

天気▼
いずれにせよ、定型を杓子定規に考えないわけですね。そこは私も同じです。例えば、「これは定型ではない」と《否定的》に判断する短歌・川柳・俳句はどれか? といった観点から境界線を探し、臨界点を探してみるのも、おもしろいかもしれません。もっとも、「《心理的》に表出」されるとする柳本さんの見解では、「定型ではない短歌・川柳・俳句」は存在しないかもしれませんが。

ところで、柳本さんは、『川柳カード』大会での小池さんとの対談の折、「幾つになっても不健全でいられる文芸ってあまりないと思うんです。それは定型が救ってくれていると思うんです。定型が饒舌を許さない。不健全は小説だと不健全すぎることになりますが、定型だと健やかさがありながら不健全でいられる」とおっしゃっています。このときの「定型」と、さきほどの「アメーバのように生長している」「〈いきもの〉」としての定型は、同じですか。それとも、違うニュアンスですか。

柳本▼
『川柳カード』大会のときの定型といまお話ししていた定型は違うふうに使っていると思います。定型っていろんな方向からとらえることができるし、たぶん小池さんとあのとき話すあの場所での定型と、いま西原さんとお話して考える定型では違ってくるように思うんです(というか西原さんから指摘していただくことで、いまそう思いました)。だからそのときは川柳大会という〈場〉で小池正博さんとの対話を通しての〈パブリックな定型〉を考えようとしていて、今はシュウハイインタビューという〈場〉における西原天気さんを通しての〈私的な・じぶんにとっての定型〉を考えていたように思います。だから定型よりも定型観じたいがじぶんにとってはアメーバのように伸長するものなのかもしれません。なにか新しい問いかけや一首や一句をみたときにまた変わっていくもの、というか。

天気▼
コンテクストによって「定型」は変わる。まさしくアメーバですね。

音数やらノイズやらの話をしたせいでしょうか。音楽のことを聞きたくなりました。お好きな音楽ジャンル、ミュージシャンは?

柳本▼
いろんな音楽をきいていくなかで人生でずうっと聞いているのが結局、谷山浩子さんだったんです。仕事で忙殺されて時間がまったくなくて死にそうだった頃にずっと谷山浩子さんの「鳥は鳥に」をふらふらしながら聞いていて、今でも普段会うことのあまりないひとと会うときにはなぜか必ずこれを聞いてから出かけています。

天気▼
名前は知っていますが、聞いたことがないです。こんど聞いてみます。

柳本▼
谷山浩子さんの歌詞の質感は現代川柳のふしぎさやぶきみさに近いと思います。ある意味でとっても不健全でもあるし、どういう場所にある言葉なのか世代や年齢やジェンダーが不詳なところもある。そういうところが好きなのかもしれません。谷山浩子さんはNHKみんなのうたの「まっくら森の歌」が有名です。「恋するにわとり」とか。

あとモンティ・パイソンのエリック・アイドルが歌うギャラクシーソングが好きで、緊張するイヴェントがあると必ずこれを聞いてから出かけます。宇宙はこんなにも広大なんだからまあたとえどんな間抜けな失敗をしてもだいじょうぶだよね、と思って。

天気▼
モンティ・パイソン! その年齢で、モンティ・パイソンとは意外です(しょっちゅう言われて飽々しているかもしれませんが)。40年以上前、私が中学から高校の頃、たしかテレビで放映していました。当時の子どもはたちは学校で「昨日来たテレビ」の話をよくしました。柳本さんは、モンティ・パイソンをどこでどうやって知ったのですか? 

柳本▼
NHKの深夜放送って海外のおもしろいコント番組を放送していたので高校生のときよくチェックしてたんです。そういう深夜のお笑い番組とかコントが好きだったので。で、そのなかでとつぜんモンティ・パイソンがやっていて、私はテリー・ギリアムの映画はよく観ていてエリック・アイドルも『バロン』を観てこどもの頃からすごく好きだったのでなんだか惹かれたんですよね、とっても。

当時サブカルの本を読んだりするとみんなが『モンティ・パイソン』はいいって言っていて、じゃあ観ないとだめなんだな、っていうのもありました。あとコサキンのラジオを聴くのが好きだったんですがそこでもよくモンティ・パイソンの話はしていたので。本を読んだりなにかを観たりすると必ずどこかでモンティ・パイソンは出てくるんですよね。モンティ・パイソンのプルースト要約コンテストというネタがとても大好きです。わたしも、出たい。

勇気のかたち

天気▼
いま読んでみたい、あるいは実際に読んでいる物故・有名俳人はいますか?

柳本▼
『攝津幸彦全句集』をむかし衝動買いしたことがあって、すごく巨大な本で値段も一万三千円もしたんですが、衝動買いしたわりにはずっとそのまま置いておいたんです。ある真夜中に眠れなかったときになんかこんなに大きい本ってこわいなと思って読んでみようと思って読み始めたらなんだかすごく面白くて、1ページ1ページすごく勇気づけられます。読んでいてもよくわからないけれど、わかったらたぶん勇気にならないので、よくわからないままよくわからない攝津幸彦さんから読み続けて勇気をもらう。そうしてまた眠れなくなる。朝がくる。でも勇気がある。そういうことってあるんだなと。

天気▼
攝津幸彦は私も大好きです。オシャレでキュートだから。

『攝津幸彦全句集』(沖積舎)は、個人的には装幀・造本が野暮ったいので、それになにより高価なので、人にはあまり薦めていません。邑書林『攝津幸彦選集』は1,728円(税込)ともとめやすい。句数も充分。それに攝津幸彦インタビュー収録。並製(ソフトカバー)で持ち歩きにもいい。こちらがオススメです。

柳本▼
あ、そうなんですね。邑書林さんのセレクション柳人シリーズの読みやすさ・充実度・携帯性は私も好きです。あのシリーズからたくさんのことを教えてもらっています。

全句集は〈巨大さ〉が私にとってはインパクトだったのかもしれません。なんというかそういう書物の手に負えない暴力性みたいなことについて時々考えたりします。カフカがいい本は氷の海を砕く斧のようなものだといってましたが、それは比喩かも知れないけれどそんなふうに即物性をもった書物はまずなによりも暴力なんじゃないかと。だから図書館はある意味で圧倒的で巨大な暴力装置です。わたしにとっては。よく行く場所だけれども、屈託もある。本屋や図書館ってずっとこどもの頃から自分にとってはそういう場所だとおもいます。ロラン・バルトが図書館とは挫折の形象なのだと、たしかいっていたけれど。

天気▼
巨大な書物から「読め」と迫られる一方で、読むことがかなわない。そういった挫折、挫折を強いる暴力、という感じでしょうか。

さきほど「攝津幸彦から勇気をもらう」とおっしゃいました。「勇気」という語、川柳にも使っていらっしゃいますね(前述『川柳カード』対談)。この「勇気」、もうひとこと説明を加えるとするなら、どんな勇気でしょう?

柳本▼
こんな表現がまだあるんだと思うとそれが生きる勇気につながっていくという感じなんだと自分では思っています。こんな表現があるということはまだその先があるかもしれない、そういう〈なにかを続ける根拠〉が〈勇気〉なんだと思います。ベケットが「続けよう。続けられない。続けよう」と書いてましたが、それが〈勇気のかたち〉なんだろうとおもいます。

「ま《だ》やってる」シューハイ

天気▼
小誌『週刊俳句』で、今年2015年、印象・記憶に残った作品はありますか。

柳本▼
最近なんですが、第451号(2015年12月13日)で、相子智恵さん・関悦史さん・樋口由紀子さんの『ウラハイ』のそれぞれの方の連載にちなんだ月曜日・水曜日・金曜日をめぐる連作がありましたね。あれをぱっと眼にしたときにほんとにいい企画だなあって思ったんです。電車の中で読んでいたんですが、思わず降りる駅を忘れちゃうくらい私にはよかった。じーん、としていた。

天気▼
あの企画、ウラハイの御三方の共演という企画はずいぶん前からあったのですが、今回、年末ということで、良いタイミングになったと、運営のほうでも喜んでいます。曜日をタイトルに入れるアイデアは、こちらからではなく(負担を強いるのは避けるのです)、御三方のほうからでした。

柳本▼
私はいつも電車に乗っているときに『週刊俳句』と『ウラハイ』のバックナンバーを少しずつ遡行して読んでいるんですが、それはある意味で相子さん・関さん・樋口さんがこれまで書き連ねてこられた道程をたどる旅でもあります。こういう道を通ってこられたんだなあと思いながら、三者三様の解釈を読み進めている。その〈時間〉や〈歴史〉の重みがあの連作になっている。だからシュウハイ/ウラハイ読者として率直に感銘をうけました。そういう時間を引き受ける連作があるんだなあと。

『シュウハイ』っていうのは〈時間の城〉みたいなところがあると思うんです。〈続けることを続ける〉ということを率直に教えてくれたのが『シュウハイ』でした。〈続けること〉はただそれだけで思想なんだと。

やっぱり、続けているひとがいると、誰でも気になると思うんですよ。どうして俳句のウェブマガジンがこんなに何年も楽しそうに続いているんだろうと。そして楽しそうなので自分もそれに参加してみたくなる。時間の城に畏怖の感情を抱きつつも、入城してみたくなる。みうらじゅんさんも言ってました。「またやってる」と言われるようじゃだめなんだ、「ま《だ》やってる」ひとにならなければならないと。

天気▼
週刊俳句は創刊当時から「続けること」をテーマにしてきました。それを唯一と言っていい目的・目標にして、設計や取り決めがある。続いていることを、柳本さんのように捉えてくれる人がいることは、大きな喜びです。

柳本▼
あともうひとつ、第416号(2015年4月12日)に西原天気さんの「戦争」10句が載っていましたが、私がはじめて俳句の感想文をシュウハイに載せていただいたのが西原さんの「ふとん」の句だったんです。「県道に俺のふとんが捨ててある」というふしぎな、それこそ俳句を知らない私でも気になってしまう少しヘンな句です。で、そのふとんの句の後日譚のような句としてその連作に「代々木署へ俺のふとんを取りにゆく」と書いてあった。「ふとん」の句は西原さんの句集『けむり』(2011年)にのっていたものなので、ここにもふとんをめぐる〈時間の厚み〉がある。まさに〈時をかけるふとん〉なわけです。でもそれも誰かのひとつの〈戦争〉かもしれない。戦争ってマクロな単位でなくて、ミクロな単位でだってあるはずですから。

天気▼
おお、〈時をかけるふとん〉! ミクロな戦争! あの句も、あの連作も、柳本さんに読んでいただいて喜んでいると思います。

『川柳スープレックス』というサイトにも2つの句のことを書いていただきました。県道に捨ててあった布団が、代々木署という「都」の警察にあるという齟齬の指摘も含めて、楽しく拝読しました。自分から解説する必要はないのですが、時間を逆にして、代々木署に取りに行った布団が、後日、県道に捨てられていたというストーリーにしておいてください。

柳本▼
先ほどの季語もそうなんですが、時間を貫く心棒のようなものが俳句にはあるんじゃないかと思うんです。そこに私は超越性のようなものを感じ、そしてそれにおそれおののいてしまう。でも、なんだろうふとん、ふとんと俳句にいったいなんの関係があるんだろう、ふとんなんていうものが季語なのだろうか、と俳句ってへんてこな部分もあるから近づいていってしまう、はじめて火をみた人間のように。

だから、俳句っていうのは、はじめて火をみた日に近いのかもしれないと思います。こわくって、それでもどこか蠱惑的で、にもかかわらずいくら近づいても不可解な〈なにか〉。

天気▼
「こわく」と「蠱惑」……。はじめて火を見るように、句に出会えたら、幸せですね。

ところで、じつは鴇田智哉さんにもインタビューをお願いしています。鴇田さんに投げかけてみたい質問はありますか?

柳本▼
鴇田智哉さんがかつておっしゃられた言葉に、「今まで自分は、俳句に季語を入れることで、一句に「物足りる」体を付与してきたところがある。でもそんな必要はあるのだろうか、そもそも俳句に「物足りる」という必要はあるのだろうか、ということも含めて考えていきたい」という言葉があって、わたしはよくこの鴇田さんの言葉について考えているんですが、このときたぶん〈俳句の境界〉や〈俳句の臨界〉のようなことについて考えておられたんじゃないかと思うんです。それで、〈いま・現在〉鴇田さんがご自身のこの言葉を読んでどう思われるかをお聞きしてみたいです。

天気▼
わかりました。鴇田さんに質問してみます。

今回、いろいろとお話ができて、楽しかったです。ありがとうございました。これからも意欲的に、どんどん書いてください。評論もそうですが、短歌や川柳も。柳本さんの、とりわけ句や歌のファンのひとりとしてお願いしておきます。

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