2016-01-10

自由律俳句を読む 123  「鉄塊」を読む〔9〕 畠働猫



自由律俳句を読む 123

「鉄塊」を読む9



畠 働猫



年始早々より痔瘻の手術により入院中の働猫です。難病です。



抗生剤を投与されているためか、長く患っていた外耳炎もついでに治りかけている。禍福は糾える縄の如しである。

院内はWi-Fi環境が整っているため、今回の原稿は病室から送ります。







「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。

今回は第十回(20132月)から。







◎第十回鍛錬句会(20132月)より



くしゃみしたら空が破れてね 渋谷知宏

いかにも大袈裟である。杞憂の故事を思い浮かべた。

ただ、そうした気分になることはある。大きなくしゃみを誰に気兼ねなくすることはちょっとしたカタルシスを味わうことができるものだ。

しかし今、尻を切り尻を縫った身としては、違う意味でこのような状況にある。

破れたら大変なことになり、ナースコールを押さなくてはならない。

怖ろしい。



立春すでに燃えカス 渋谷知宏

どんど焼きのことであろう。

正月飾りやお守りなどを神社に持ち寄り、焼いてもらう。

かつて子供の頃に親しんだ行事であるが、現在まったく無縁になってしまった。自分の生活様式が変わったためか、社会の変化のためかはわからない。

もう十年ほど前になるのだろうか。ダイオキシンなどの化学物質が身体に深刻な悪影響を及ぼすと「環境ホルモン」と呼ばれ規制の対象になった。

ごみの焼却時に発生するということで、全国の学校から焼却炉が撤去されたのもそのためだった。同じく、どんど焼きのような火祭りについても、環境への配慮から行われなくなっていったように記憶している。

燃やすものを分別し、続けようとしていた神社もあったようだが、現在どうしているのかわからない。

詠者の近隣ではまだ行われているのだろう。懐かしい風景である。



何のおまつりかは関係ない犬がきた 渋谷知宏

「犬」というものの特性を捉えた佳句と思う。

以下に当時の句会での私の句評を再掲する。



「かわいい。犬にはハレもケもない。にぎやかなお祭りだろうと、慰霊や鎮魂の祀りであろうと。ただ人が集まっているから、舌出して来たのだろう。『へっへっへっ』と。石畳をちゃっちゃっちゃっと歩く足音が聞こえるようだ。猫派の偏見かもしれないが、犬はバカっぽい方がかわいい。」



犬に対する自分の印象に変化はない。

人だかりや祭りがあれば寄って行くのが犬で、背を向けるのが猫であるように思う。ただ、苦しいときや悲しいときにはどちらも寄り添ってくれるのだから動物って本当にかわいい。猫かわいい。



また音痴を聞かされる梅が枝 白川玄齋

ジャイアンリサイタルしか浮かばなかった。

あの土管の空き地にも四季がめぐるのである。



忙しいという時も過ぎて夕暮れ 白川玄齋

気がつけば日が暮れていたということか。

普段、朝も夜もなく働いているため、夕暮れ時になると「夜の部が始まったな」と思う程度に、私は社畜である。忙しくしていると時間の流れは本当に早く感じるものだ。

入院してみると時間の流れの緩やかさに驚く。

入院中は本でも読もうかといろいろ持ってきたものだが、案外読めない。

忙しくはない代わりに、回診だ食事だ消灯だと時間を管理される煩わしさとぶつ切りされた中途半端な時間を持て余すばかりである。管理される側、保護される側というのは本当に苦手だなあと思う。



自分だけが知っている名前ばかりのアドレス帳 白川玄齋

ちょっと意味がとり辛いが、「俳号」によって登録されているということのようだ。

本来、実名が私的なもので、号の方が公的なものであると思うのだが、その号が「自分だけが知っている」ものと表現されているところに、自由律俳句の置かれている現状が表れていると言える。



ひどすぎるブログを更新 中筋祖啓

なんだろう、「元気が出るテレビ」だったろうか。個人で建て増して建て増して作ってしまった悪夢のようなテーマパークをテレビで観たことがある。特殊なケースとは思うが全国各地にあるようなので、一種の類型ではあるのだろう。妄執や病を感じさせるそうした施設は、同時に非常に興味深いものでもあった。

「ひどすぎるブログ」の更新もコンコルド症候群のように、もはや引くに引けない行為なのだろう。



握手は全部トラウマだ 中筋祖啓

手汗か静電気か。アメリカ式でギューッとされたのか。



袋を開ける事が発作 中筋祖啓

やめられない止まらないかっぱえびせんであろうか。

袋菓子依存と見るよりは、発作的にバーンと袋を開けてぶちまけている感じの方がふさわしい。

よくわからないがパーティー開けをしているように思う。



不意の知人へ笑顔をつくる 馬場古戸暢

「会うはずのないところで職場の同僚などに会った情景と読みました。笑顔という仮面を瞬時にかぶる様子。日常にある緊迫の場面です。自嘲を読み取りました。」



当時の句会での自評を再掲した。

自分もいつも公的な仮面をかぶっているため、実によく経験する状況である。

一人で車を運転しているときが最もリラックスできる。

現在、病室は四人部屋であるため、常に公的な自分でいるようであり、少々気疲れしている。

災害や紛争により、今なお避難所で暮らしている方々の心労を思う。



家出したいと言う一人暮らしの女といる 馬場古戸暢

「『一人暮らしのくせに』というのが中心なのか、『不思議なことをいう女だかわいい』が中心なのかよくわからなかったです。」



上記が当時の自評であるが、もう少し遠慮なく言えば、こういう女性は好きではない。なんとなく「持ちネタ」感が鼻につくのである。くだらないことを言うくらいなら黙っていたほうがずっとましである。



おばあちゃんと歩く女はゴスロリ 馬場古戸暢

場違い感を詠んだものであったかと思うが、現在はあまり違和感がなくなっているように思う。共和国の首都札幌でも見かけるようになった。

ファッションの変遷はあまりに早い。いずれはおばあちゃんがゴスロリの時代も来るだろう。



雪に顔突っ込んで姑の悪口 藤井雪兎

王様の耳はロバの耳である。

雪は音を吸収してしまうため、聞かせたくないことを叫ぶには実に合理的であると言える。

雪の夜の静寂と雨の夜の饒舌と、その両方を知っているということは、雪国に育ったものの特権と言えるだろう。



救助された男の目に満月 藤井雪兎

映画的な情景描写である。

水害か山で遭難した男がヘリコプターに吊られていくのが見える。

この句では、詠者がどこにいるのかわからない。

視点的に考えれば、まさに救助しているレスキュー隊員が詠んだ句であるように思う。

恐らくは、実景に想像を加えることで、映画監督のように見たい景色を見たい角度から切り取っているのだ。時に戯画化と言ってもよいような、こうした第三者的な視点も雪兎の特徴であると言える。



ひび割れた眼鏡で時間通りに来た 藤井雪兎

この句は当時の句会で特選にとった。

以下はその際の自分の句評である。



「今回は特選については迷わずに決められた。だんだん近づいてくる姿、その情景が見える。やってきた男(女としては読めない)のパーソナリティや自分(作者)との関係性をいろいろ想像できて楽しい。『いったい何があった?』と心配したり、『眼鏡割れるほどの苦境を乗り越えて時間通りに来る律義さ』を読んだり、『眼鏡には頓着しないくせに時間は守るのかよ』と読んだりして楽しい。でも実際にはそんなにコミカルな状況ではなかったりして……とか考えるのも楽しい。」



少し違っている点として、現在の自分は「女」としても読めるということだ。

ドジっ子を許せる程度に成長したのである。



七度八分で氷柱細くなった 本間鴨芹

熱の日。学校を休んで窓から外を見ている。

昼になり、窓のつららもすっかり細くなってしまった。

罪悪感や気まずさを感じながら、咳などしてみる。

そんな情景を思い出した。

ノスタルジックである。

現在の病室では、廊下側であるためこういう句は拾えない。向かいの個室のおばさんの電話の声が大きすぎるとか、そんな素材ばかりである。



時計屋さん正しい時刻はどれですか 本間鴨芹

時計屋は時計を売っているのであって、時刻を売っているわけではないということか。うまいことを言えたように思うがどうか。



いいわけない助手席に長い髪の毛 本間鴨芹

「助手席の髪の毛はちょっとありがちかなと思った。掛詞を先に思いついてそこに寄せていったんじゃないかなあ。

評の通り、掛詞のユーモアで作りましたね?という感じです。浮気や不倫の暗さは鴨さんには感じられないのだ。よほど巧妙に隠してるのかもしれないけど。

髪の毛でなく『わざと置いて行った片耳だけのピアス』あたりだと生々しくなりますよね。それももう古いのかなあ。」



上記が当時の自評であるが、なんともべたべたした感じで気持ち悪いな。

クソリプっぽい。



さよならのかたちのまま手袋を脱ぐ 松田畦道

美しい句である。

当時の自評を再掲する。



「きれいだなと思った。駅のホームで恋人に手を振って別れたあと、車内で手袋を脱ぐのだろう。手袋の形がそのまま別れの余韻となって寂しさを募らせるのだろう。ただ、なんとなく余裕が感じられる。これは、また会える『さよなら』なのだ。永遠の喪失ならば手袋は脱げない。お別れのイベントを消化して、やれやれ駅弁食べるかなあと手袋脱いだんじゃあないかな。あれ、そう考えるとあんまりきれいでもなくなってきた。むむ?

『さよならのかたち』は自分も手のことだと思っていましたが、手の形ではないのかもしれませんね。姿勢、佇まいあるいは心そのものが『さよならのかたち』であって、そのまま手袋を脱いだということなのでしょう。駅弁もぐもぐとか失礼なことを書いてしまった気がします。」



「さよならのかたち」は後半の佇まいの方であろう。

永遠の喪失ではない、という解釈は今でも同じである。

また会える別れ。それは幸福の一つであるように思う。人生における希望であるからだ。



ふたりだけの星座を結んで帰ろう 松田畦道

歌謡曲の歌詞のようでもあるが、美しい景である。

手をつなぎ夜を歩くのだ。

帰る先が同じであるのだから、同棲中か夫婦なのだろう。

立ち寄る先を星に見立てて、二人の軌跡を星座と呼ぶのだろう。

「神田川」やチャアミイグリーンのCMを思い浮かべる。

仲のいいことはよいことである。

この原稿を書いているのが土曜日であるためか、同じ病室の他三人のもとには、嫁や家族がお見舞いに訪れており、私だけ独りぼっちである。

真剣に婚活を考えるべき時が来たのであろうか。変な汗が出る。



改築とは寒椿を伐り倒すことでもあったか 松田畦道

佳句と思う。当時の自評を再掲する。



「聞いてないよ、という感じか。何かを新しく行う、始めるというときには、得てして喪失が伴う。経験上それを知っていたとしても、実際に目に見えるまで気づけないことがある。寒椿が象徴するものを読み手は自分の経験の中にそれぞれ見出すだろう。」







*     *     *







以下三句がこの回の私の投句。

まだある鼓動聞いて眠る 畠働猫

五つずつ数を数える正しくなくとも正しくなくとも正しくなくとも 畠働猫

結婚刻んだ皺見せられてる同窓会 畠働猫



一番下の句などは今や赤面の至りである。

駄句にもほどがある。

さて尻の痛みも強くなってきたため、今回はここまでとしたい。

なんとか消灯時間にも間に合い、看護師さんに怒られずに済みそうである。

尻の弱みを握られているため、今私はひたすらに従順である。







※訂正

 前回の記事の最後で次のように述べた。



「以前、句友の小澤温(おざわ はる)が、『短律の自由律俳句は、それ自体が季語になろうとしている』というようなことを語っていて、ひどく納得したことがある。」



この「短律の自由律俳句は、それ自体が季語になろうとしている」という発言は、小澤ではなく矢野錆助が元であったようだ。

どちらであっても(我々三人にとっては)大きな違いはないが、一応訂正する。

もっと早く誰かが言っていることかもしれないし、誰が言ったのかということはそれほど重要でもないだろう。






次回は、「鉄塊」を読む〔10〕。

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