2016-01-24

【週俳12月の俳句・川柳を読む】手が寂しいと気付いてしまう 近 恵

【週俳12月の俳句・川柳を読む】
手が寂しいと気付いてしまう

近 恵



嵌めて鳴る革手袋や月曜来  相子智恵
ゴミ袋に割り箸突き出雪催

月曜日が劇的にやって来ることはそうそうない。大概が淡々と日曜の続きでやって来る。それを象徴するかのように、相子智恵の10句は淡々と些末なことが詠まれている。それ故に読み手は自由に血肉を付けて楽しむことができる。そうやって想像しているうちに、作者の気分のようなものが共有されてゆく。

朝、出がけに革の手袋を嵌める。まだ手の温かさに馴染む前の手袋は少し硬く、指を曲げ伸ばしして押し込んだ爪の先が手袋の指先に届いた時に、手はボンデージの衣装に包まれる。仕上げに手を二、三度握って開くと、ぎしぎしと軋むような音がして、革が自分の皮膚と一体になる、その瞬間、月曜日がやって来るのだ。

部屋を出るついでにゴミ袋を手にぶら下げる。外へ出ると冬の鈍い色の空が低く広がっている。ゴミ集積所でコンビニのレジ袋を他の袋の谷間に無雑作に置くと、ガサリと乾いた音を立てて袋が転がった。その一瞬、捨てた袋を破って割り箸が突き出ているのが見えたのだ。思わず「あっ」と小さな声がでた。ただそれだけのことだ。昼過ぎにはきっと雪になるのだろう。


冬山は遺棄されし姥の目もて見る  関悦史
テニスしてをりしがいつか枯草に

変容というタイトルが示すように、1句のなかで、更に10句を通して変容してゆく。水曜から始まる変容は、静かに薄れることから始まって、己の肉体から物体として宇宙まで広がり、思想を取り込み、やがて目の前の枯草へと集約されてゆくが、その時はもう元の水曜日ではないのだ。

一読、姥捨山が頭に浮かぶ。他の生物が種の存続をかけて当たり前のように易々とやってのける世代交代の儀式が人間には易々とできない。だから心を殺して年寄りを背負い姥捨山へ向かうのだ。子を産み育て、知恵も授け、種の存続の役割を終えたらあとは無駄飯食いになってしまう。貧しい農村などでは一人食い扶持が減るだけでも家族の暮らしは少しは楽になる。かくして姥捨山。棄てられた姥の目に冬の山はどう映るのか。その者の目をもって自分の目に映る冬山はいかなるものか。いっそう恐ろしいものか、それとも清々しいか。私にはまだ想像ができない。

テニスをしていたのだ。ずっと、休むことなく朝も昼も夜も一日も欠かさず、ひたすらラリーを繰返す。それはいつから始まったのかわからない。気付いたらテニスをしていて、枯草になっていたのだ。それは狂気である。私たちはそうやって気付かないうちに変容しながら、いつしか全く違うものになって営みを続けているに違いない。


金曜日ぽたぽた洩れるから嫌い   樋口由紀子
さいころのろくがでるまできんようび

すべての句に「金曜日」が詠み込まれている。最初の金曜日はただの曜日としての金曜日である。しかし徐々に金曜日は特別な曜日になったり形を持ったり人格を持ったりして、「キンヨウビ」や「きんようび」として表記されてゆく。

金曜日は洩れる曜日なのではなく、金曜日そのものが洩れる感じがする。何が洩れるのかはわからない。何かが金曜日からぽたぽた洩れるのだ。だから嫌い。いったい何が洩れているんだろう。すごく気になる。

さいころの目は基本的には6分の1の確率で狙った目が出るはずなんだけど、このさいころはちょっと違うような感じを受ける。えーと、いわゆるイカサマのさいころ。6が出にくいようにしたイカサマさいころ。本当はいつまでもきんようびでいて欲しいんだけど、6が出るときんようびが終わってしまうから、ちょっと細工をしてみたの。これは人間の仕業ではない。どこかで神様が博打をしているに違いない。


駅蕎麦の湯気に顔伏せ雪催   角谷昌子
冬座敷襖の虎を割つて入る

駅蕎麦の湯気、温かそうで美味しそう。蕎麦そのものの美味しさではなく、駅蕎麦を食べるシチュエーションからくる美味しさ。空腹で、寒くて、でもレストランに入ってゆっくり食べている時間もなくて、それで駅蕎麦。一読、湯気に顔を伏せという部分で、美顔効果を狙っているのかと疑ったが、多分そんなことはなくて、一心に蕎麦をすすっているのであろう。取敢えずの立ち食いの駅蕎麦で温かいものを食べるという平民の生活。それでこそ雪催の寒さが生きてくる。

冬座敷と言っても、現代の生活で座敷を冬仕様にすることなんてさらさらないだろう。せいぜい炬燵を出すとか電気カーペットを敷くとか、そのくらいなのではないか。一方この句、襖の虎を割ってというからには、二枚の襖に虎の絵が跨って描かれているのであろうからそれは立派な座敷に違いない。そんな襖があるくらいだから、由緒ある豪邸のお座敷なのであろう。となると、脈々と受け継がれる冬の座敷の設えがあるのではないか、と勝手に想像。そんな部屋だからこその虎の絵の襖を開けて部屋へ入る様を割って入ると現わすさりげなさ。しかしその冬座敷はちっともさりげなくない程に立派な冬座敷なのである。


固まつて落日以後の海鼠たち    太田うさぎ
自転車の素手の時雨れてゆくばかり

明石に始まり伊勢・小田原と経て港区へ。旅行の非日常から港区という職場、そして家から駅までの通勤経路という日常へ移行してゆく。

落日以後に海の中に住む海鼠の様相を観察することは難しいだろう。なにしろ日が落ちた後の冬の海は暗くて寒い。でもきっと固まっているのだ。何匹もの海鼠が集まって折り重なるようにごろごろと固まって、自ら動くものは一つもなく、ひたすら日の出を待つ。その間、海鼠は昼間の夢を見ているに違いない。それがきっと旅情というものなのだ。

夜の帰り道の自転車。朝はまだそんなに寒くなかった。夜になって傘がなくてもまあなんとか行けそうな時雨が。顔も手も同じように濡れるだろうが、手袋があればもう少し寒くなかったかもしれない。ああ冷たい。そして何もない。ただただ体より前に出ているハンドルを握る素手が冷たく、そしてそんな手が寂しいと気付いてしまうのがきっと日常。


近くから近くへ飛ぶや寒烏   西村麒麟   
冬ぬくし水ぎりぎりを蟻が行き

さりげなく見える作りの句が並んでいるが、どれも西村麒麟の匂いがする。上手く言えないのだけれど。

直ぐ眼の前で寒烏がちょっと飛び、また降りる。遠くではなく、近くへ。近くから近くへという表現が烏に対して不吉さや怖さを感じていないことを伺わせる。ただの烏ではなく、寒烏ということで、烏はただの鳥から俳句の中の鳥に変化する。近くから近くへという表現から、そこにも鳥好きだった亡くなった先生を思い出すものがあるのだろう。

どうということのない景色。冬の暖かい日に水ぎりぎりのところを蟻が歩いている。暖かい冬の日だから蟻が水ぎりぎりを歩いているという訳ではないだろう。ただ蟻が歩いているそれだけのことなのだが、なぜかそれはきっと冬の暖かい日なのだろうと納得してしまう。




第451号 2015年12月13日
相子智恵 月曜日の定食 10句 ≫読む
関 悦史 水曜日の変容 10句 ≫読む 
樋口由紀子 兼題「金曜日」 10句 ≫読む
第452号 2015年12月20日
角谷昌子 壮年の景 10句 ≫読む
太田うさぎ 以 後 10句 ≫読む 
西村麒麟 狐 罠 10句 ≫読む


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