2016-02-21

自由律俳句を読む 126 「鉄塊」を読む〔12〕 畠働猫

自由律俳句を読む 126
「鉄塊」を読む12

畠 働猫



今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第十三回(20135月)から。
これまでもそうしていたが、各句につけた当時の句会での自分の評も再掲する。
文頭に記号がある部分がそれである。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第十三回鍛錬句会(20135月)より
春の終わりにスライダーが甘く入りました 藤井雪兎
△『よくはわかりませんがそれでもぼくは春を見送ってしまうのだろう。』(働猫)

「スライダーが甘く入りました」というのは野球中継での言い回しと考えていいだろうか。スポーツ観戦をしないため、実際はよくわからない。ただ、こうした「決まり文句」を句に使用する手法を引喩(アリュージョン)と言っていいだろう。これにより、読者は自分自身の中にあるそのフレーズと句の内容とのギャップを楽しむことができる。季語を用いない自由律における二物衝撃であるとも言える。
甘く入った変化球は打ちごろの、手を出しやすい球なのだろう。手軽でそれでいて手痛いしっぺ返しがありそうな、そんな恋の予感を詠んだものだろうか。

前髪を切りたくない娘だったのさ春風 藤井雪兎
春風の中、思春期の頃の自分を思い返している景であろう。
作者の藤井雪兎は(たぶん)男性だが、こうした思春期の少女の心境を詠むのにも長けている。おそらくは自分自身のアニマの声を句にしているのだろう。

いただきまテーブルを叩く 藤井雪兎
○『レッド吉田を思わせる瞬発力が素晴らしい。「いただきま、てえーぶるをたたくっ」と読みたい。同じ卓を囲む家人が許せなかったのか。それともまた気に入らないおかずだったのか。「自虐の詩」を思い出した。』(働猫)

「自虐の詩」懐かしい。

まちはしずかにやぶれたままの幟が立ってる 天坂寝覚
場末、田舎町の暗さを思わせる。
「幟が立っている」ということは、店の人がしまい忘れたのでない限り、日中である。しかし静かであるということは人通りが絶えているということだ。
突然、人の営みが絶えてしまい、その後誰も立ち入らなくなってしまった。
もしかするとこれは震災の句であったのかもしれない。
あれからもうすぐ5年が過ぎようとしているのだ。
去年の春、長野の兄を訪ねるついでに福島に立ち寄った。北海道苫小牧から車をフェリーに積み込んで仙台に降りた。
原発のすぐ手前まで行くことができた。止められて引き返してきたが。

するどい月がひっかかっている朝焼け 天坂寝覚
△『美しい情景。許されぬ情事の翌朝、それぞれの痛みを抱えて別れて行く空なのだろう』(働猫)

今見ると月並みな感じがしてしまうが、美しい景である。

造られた川のざりがに釣る子どもら 天坂寝覚
△『この「造られた」がどこまでもかかるのが面白く、またそれぞれ違った風刺になりますね。「造られた川」人口の川。「造られた〜ざりがに」放流された自然のものではないざりがに。「造られた〜子どもら」子供としてあるべき姿を演じさせられている子供。自分は「子ども」という表現に造られた感じを受けます。』(働猫)

「子ども」という表現が私は本当に嫌いである。

名残惜しい背中でやらかした 本間鴨芹
お別れした人が水たまりにはまったとか、そういうことであろうか。
微笑ましい句である。人の失敗はおもしろいものだ。

つながれた手と手が後を追ってくる 本間鴨芹
○『幸福に追いつめられる感じはよくわかる。ぼくはベビーカーや子連れの夫婦に恐怖を感じます。世界はぼくにだけ優しくしてくれればいいと思う。』(働猫)

これはこのままだなあ。この頃から私自身の状況に変化はないということです。
世界よ。神よ。

崩れない山となる五月号テキスト 本間鴨芹
読まない本は捨ててしまうといいんですよね。なかなかできませんが。
「崩れない」という部分に謎が残る。なぜ崩れないのだろう。

この公園は制圧されたモデルガンの子供たち 風呂山洋三
微笑ましい情景とも言っていられない世界情勢となってしまった。
テロリズムは言葉による理解や共感を拒否するものである。人類はもう後戻りのできない泥沼の中にいる。

祖母のこぶしのよくまわる菖蒲の湯なのだ 風呂山洋三
こうした幸福な情景を風呂山はよく詠む。「家族」という、私には縁のなかった世界観である。

賢治読もうか水田浮かぶ本屋の夜 風呂山洋三
「水田浮かぶ」とはなんだろう。すでに夢の中なのか、窓から見える情景なのか。なんにせよ、長閑で静かな情景である。

軋む車輪が五月の愁いを巻き込んで止まる 松田畦道
抒情的な小説の書き出しのようでもある。句としては多少冗長か。
語の選択は非常に繊細で美しいと思う。

どのカーテンも違う色の静けさ 松田畦道
△『夜の静かな住宅街を歩く様子でしょうか。それぞれの家にそれぞれの幸福があって、その象徴がカーテンなのでしょう。うちのカーテンは猫がのぼるのでぼろぼろです。』(働猫)

カーテンは幸福や生活を象徴するものである。まだ学生だった頃、夜中の散歩が好きだった。眠れなかったこともあるし、深夜まで働いていたせいでもあった。
家々の暗い窓にはそれぞれのカーテンがかかっていて、そこで暮らす人々はこんな時間に眠ることができる人々であるのだと思った。ただそれだけのことに、現在の自分の境遇と比べて、胸を締め付けられるようだった。
そんなことを思い出す句である。

もう動かないひとを乗せてサイレンが優しい 松田畦道
◎『手遅れだった。悲哀と焦燥の果ての静謐な時間。救急車が夜に滑り出していく様子がスローモーションのように見えている。この「優しさ」とはどのような意味なのか。そこに優しさを感じるのは不条理なことである。しかし、わかる。』(働猫)

当時特選でとった。美しい句である。
人の死は突然訪れるものだ。何度看取っても慣れることはない。

他人事に弛む三十過ぎの涙腺 白川玄齋
△『わかる。』(働猫)

四十になったが、わかるなあ。
他人事どころか、「岩合光昭の世界ネコ歩き」で涙出たりする。

我慢する世間が出来て喜ぶ人 白川玄齋
人並みの生活ができることに喜びを見出す人生もある。

よく喋る友は昔の名前 白川玄齋
昔、呼び合ったあだ名で話すということだろうか。
私は中学校まで小さな町で暮らし、高校入学を機にその街を離れた。
その町にめったに帰ることはないが、友人の葬儀で訪れた際に、もう30も過ぎているのに当時の友人に「あっくん」と呼ばれて気恥ずかしさにむずむずした。

また返事書けずに一日の尽きる 小笠原玉虫
○『わかります。思いが強いほど、それを伝えることはストレスになる。大切にしたい相手だからこそ、その返事には時間と労力がかかる。そしてまた今日が終わる。そうして間に合わなくなってしまった手紙はいったいどこへ出せばいいのか。』(働猫)

当時の句評でこう述べているのは、大切な人を亡くした経験からだ。
人はいつか死ぬし、その「いつか」は今日かもしれない。伝えたいことは伝えるべきである。そう思う。

公衆便所の臭いの父に金せびられてゴミの人生 小笠原玉虫
△『あんまり卑下しすぎかなとも思いますが。そんなこともあるのでしょう。』(働猫)

「公衆便所の臭い」にもっと焦点を当てると良かったかと思う。
「ゴミの人生」が余剰か。その評価は読み手に委ねるべきであるし、先回りして自分を卑下してしまうのは言い訳のようで良くない。

花薊みっしり詰めた棺で逝く 小笠原玉虫
●『ずいぶん用意周到な死ではないか。常人であれば死んでから棺に入るものだ。棺の中で死んでいくのはそこに常住する吸血鬼であろうか。胸に杭を打たれて死んでいく様子か。とすれば薊は血の隠喩であろう。そのように妄想すれば美しい句だ。しかし作者の意図とは違うと思うので逆選にします。』(働猫)

私は吸血鬼が好きだ。強く美しいだけでなく、弱点を持つ儚さが実にいい。
「インタビューウィズヴァンパイア」のトムクルーズは実に良かった。

裏鬼門へ置けと渡された香料を嗅ぐ 馬場古戸暢
『鬼神を退ける香りなのでしょうね。鰯の頭の臭いかな。』(働猫)

こういう風習って好き。

いけないことした夜の次にも朝が来た 馬場古戸暢
いけない子にも等しく朝は訪れる。そうしてタブーを犯すことにもどんどん慣れていってしまう。そして初めの繊細さや気持ちは失われてしまう。
大人になるということはそうした寂しさも受け入れるということだ。

寝付けない夜をひとり過去が迫ってきた 馬場古戸暢
△『ありがちな題材かもしれない。しかしその分多くの共感が得られそうに思う。』(働猫)

不眠を経験しているので、共感できる句であった。過去は不幸なものも幸福なものも等しく、現在を苛むものである。

君は膝に登りたい顔して上目遣いで 渋谷知宏
猫かな。

僕の星はどれですか小さい手 渋谷知宏
小さな子供と星を見上げている様子だろうか。
「僕の星」とは宿星のことであろうか。
三国志や北斗の拳を思いだしてしまって、あまり微笑ましく感じられなかった。

「雨ふれば即死よ」 渋谷知宏
蟻かな。

台風の目となりて息つぎ 中筋祖啓
この句のもとになった行為について本人から聞いたような気がする。
腕を大きく広げて、その場でぐるぐる回る。
奇行である。
「息つぎ」ということは、まだ続けるということである。目が回って倒れても、再び立ち上がりぐるぐる回るのだ。
何の意味があるのか。そんなことを考えること自体、意味がない。
台風の目になること。それが目的である。
やってみればわかるが、だんだん気持ちよくなってくるんだよね。

おじいちゃん冥途の土産には街灯 中筋祖啓
死に瀕し、最後に見たものが街灯であるということか。
寂しい死のように思うが、語選びが剽軽で不思議である。

犬とー歩くが 古代だよー・・・ 中筋祖啓
この句も「原始の眼」を知らずに見るとまったく意味不明である。
したがって、句としては一般的に言って失敗作だろう。
犬と散歩しながら、古代からの人と犬との関わりに思いを馳せているのだろう。そうして、いつも見ている散歩道に古代の情景を見ている。そんなエキセントリックな句であるのかもしれない。わからんけど。



*     *     *



以下三句がこの回の私の投句。
身悶えて闇から雨 畠働猫
罠の花が綺麗 畠働猫
子供を抱いて完全体の女が笑う 畠働猫



冒頭の雪兎の句で少し触れたが、「季語」とは、その背景にある膨大な物語が利用できる引喩表現であると私は考えている。だからこそ、人々の生活から遠ざかってしまった季語、実際の季節とはずれてしまった季語はその力を失う。
そうした力を失った季語に代わる、人々の生活に根差したフレーズを引いてくることも、自由律俳句のできることなのではないかと思う。




次回は、「鉄塊」を読む〔13〕。

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