2016-03-13

自由律俳句を読む129  「鉄塊」を読む〔15〕 畠 働猫

自由律俳句を読む 129
「鉄塊」を読む15

畠 働猫


春である。
私は春がもともと好きではなかった。
ただでさえ気持ちが落ち着かないというのに、日本中が揺れたあの記憶が、より心をざわつかせる季節になった。
震災から5年が過ぎた日に、テレビでは盛んに特集番組が放送された。
私自身もそうだが、そうした番組に対して釈然としない思いを抱いた人も多くいたようである。
Twitterを始めとしたSNS等でも様々な人の様々な思いを目にすることができた。
「こうでなければならぬ」という向き合い方などない。
そう思う。
それぞれに鎮魂の方法はある。
悲しみ方、関わり方も人それぞれであろう。
震災と向き合う方法に(向き合わないという選択肢も含めて)、正しいも間違いもない。実際に被災した方と、そうでない人との間に隔たりがあるのも当たり前のことだ。

だからこそ、それについて表現をしようと思う者は、覚悟を持つべきだ。
表現は何物からも自由であってよい。
同調圧力や社会的規範、倫理観、人間関係に縛られる必要はない。
しかしそこに覚悟がなければならない。
覚悟とは、自分の表現に責任を持つということだ。
内容や表現が拙劣であれば、批判や非難を受けるのは当然のことである。
意図と違う受け取り方をされることもあるだろう。
人を傷つけ、人間関係を悪化させることもあるだろう。
覚悟とは、それらをしっかりと受け止めることだ。
自分の表現の影響を予測し、反応を受け止められるかどうかよく考えることだ。
できないならば黙っているのが一番良い。
表現するということは厳しく、痛みを伴うものである。
表現者とは修羅であるのだ。

今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第十六回(2013年8月)から。
当時の句会での自評も再掲する。
文頭に記号がある部分がそれである。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。


◎第十六回(2013年8月)より
カフェに長々と居る冷茶ぬるくなる 小笠原玉虫
△「ドリンクバーおすすめ。」(働猫)

カフェに限らず、自分は他人のいる場所に長居できない性質のため、実際にはこの句はわかりません。
「ぬるくなる」で長い時間が過ぎたことはわかるので、「長々と居る」は余計か。

帰省して欲のない人よろこばせている 小笠原玉虫
△「ちょっとあたりまえ過ぎないか。あまりに散文。」(働猫)

「欲のない人」への愛情は読み取ることができる。
「よろこばせている」は語らなくとも伝わる部分ではないかと思う。

着飾って股開いて眼が死んでる写真を見ている 小笠原玉虫
●「逆選。『写真を見ている』は説明過多だったか。『~眼が死んでいる』とすれば客体であることは伝わる。それを見ているのは自分であろう。自分の状況を説明されても『そうですか』としか言えない。共感も想像もする余地がない。と、ここまで書いてからすぐ次の自分の句(『月明かり~』)を見る。なんてこった。自戒。」(働猫)

以前に名句の条件として「3つの要素から成り立っていること」を挙げた。
今回の玉虫の句群はそれぞれ要素が多すぎている。
恐らくは「きちんと伝えたい」「わかってほしい」という思いが表れているのだろう。
他者と完全にわかり合うことは不可能である。
まして俳句はそれを目指す手段ではない。
どこかで、「俳人」は人に非ずと割り切ることも必要であろう。
私は、表現者はすべからく「修羅」であるべきと思う。
それはすなわち、ただの人間ではいられないということである。

子の声して麩が散る池 馬場古戸暢
△「子供が鯉にえさをやっている。その状況以外に何も見えない。」(働猫)

過不足がない句である。
公園であろう。
作者の視点は池に注がれたまま、声を上げている子供を見ていない。
そこに心の空虚さ、視点の虚ろさが表現されている。
リストラされたサラリーマンのように佇んでいるのだろう。

街の明かりに息する 馬場古戸暢
△「当たり前な気がするが。息を止めていたのか。息していたことに気づいたのか。感動・発見の源がよくわからない。」(働猫)

「息する」は「棲息する」の意であるのか、とも思う。
昼間、息を潜めて就業時間をやり過ごし、夜の街で「生きている自分」が見いだせたということか。

別れを惜しむ二人の間を駆ける俺だ 馬場古戸暢
○「並選。かっこいい。公共の場を自分たちの世界にしようとする者へ鉄槌を下す正義の使者かもしれない。『俺だ句』はこのように俺の正義を貫いていると清々しい。」(働猫)

良句と思う。
「俺だ」という語句から自己主張の強い主観的な句にも見えるが、実際にはその視点は自分から距離を置き、後方あるいは上空から客観的に眺めている。
これこそ人に非ざる「修羅」の句である。

無頼派からお中元がきたよ 松田畦道
△「派閥に属している時点で『無頼』ではない。だからお中元を贈ってもおかしくはないか。なんとなくメタな感じ。形而上ですね。」(働猫)

古き良き時代を思う。
居間でお茶を淹れてもらいながら、伴侶に話しかけているようなほのぼのした情景。

濁った夜の猫の目だけ明るい 松田畦道
△「これも当たり前すぎるか。猫の目も濁っていたなら、句になると思うが。」(働猫)

確か、作者はこの頃、猫を飼い始めたばかりであったように記憶している。
猫飼いの自分にとっては当たり前の景も、作者にとっては新鮮な句材であったのだろう。
「濁った夜」が何を表しているのかイメージし難いが、猫への崇拝にも似た愛情が伝わってくる。

命預けた手が血管浮かせている 松田畦道
△「医師や看護師の手が細いことへの不安なのか。それとも山で滑落してとっさに仲間がのばしてくれた手につかまったもののその仲間ももう限界らしいという状況か。ファイト一発リポビタンDでのりきってほしい。」(働猫)

最後に見たCMではケイン・コスギが出ていたな。
もう一人はだれだったか。わかりません。

脚を怪我すれば歩兵 中筋祖啓
△「脚を怪我すれば歩けないと思うのだが、ツイッターでのつぶやきで状況は飲み込めた。ママチャリ兵が歩兵になったということなのですね。安静にしてください。」(働猫)

規律のある生活のせいか、作者は自分を「兵」と表すことがある。
これもまた「修羅」としての自覚なのかもしれない。

アリの事が心配 中筋祖啓
◎「特選。これはやられた感じである。不条理と読むのもいい。なんらかの理由や状況を想像することもできよう。ともかく選評なんて無粋に感じるほど、いい句である。……疲れているせいだろうか。少し心配にもなってきた。」(働猫)

疲れていたのだろう。
しかしここに作者の特徴である「原始の眼」を見ることができようし、純粋な子供の無垢を見ることもできよう。
アリクイは一日に3万匹のアリを食うそうだ。
それを知ると、アリの事が心配にもなる。

誰に会おうと普通になった故郷だ 中筋祖啓
△「よくわからないが。帰省が長引いてだれも特別扱いしてくれなくなった、ということか。それとも都会で夢破れて故郷に暮らすようになって長いのか。いずれにせよ日々の倦みを感じる。」(働猫)

「都会で夢破れて~」という感想には、2004年に起きた加古川の事件が念頭にあったように思う。
自分も田舎の出身であるため、共同体の異物となった時の居心地の悪さは実感がある。そうして故郷を捨てた身には、もう帰る場所はない。

のれんの奥の懐かしい声ひと呼吸置く 風呂山洋三
△「今回帰省の句が多いような気がするが、これはそのうちでも出色。『ひと呼吸置く』が過不足なくその心情を言い表している。うまい。しかしこの繊細さ・上品さは今回の句群では埋没してしまうかもしれない。おしい。『のれんの奥の』が説明過多でインパクトをなくしているかもしれない。」(働猫)

当時の句評で述べたように、この回の帰省の句の中では最もよい句である。
「ひと呼吸置く」が繊細な心の機微を巧みに捉えている。

話のネタ撃ち尽くしてハイボール 風呂山洋三
△「よく喋る人なのか。マシンガントーク(死語)。自分は口下手なので自然ハイボールの方が頻度が高まる。ジンジャーエールで割ってくれって言うとだいたいどこもやってくれるのでおすすめ。」(働猫)

ジンジャーハイボールは翌朝に響く。明日が休みならおすすめ。

花火の後の無言の僕ら 風呂山洋三
△「花火が終ったらもうやることは一つですか。いやらしい。」(働猫)

花火を純粋に楽しんでいたのは小学生までだったように思う。
思春期以降はそのあとのことばかり考えていたな。
「遠花火」という季語はしたがって、少年の頃、思春期の追憶(とりわけ性の記憶)に私を誘う言葉である。それは美しいばかりではなく、触れられたくない恥ずかしさや罪、痛みの記憶でもある。
この句でも「あああ」と思う記憶が呼び起こされた。

なんか言って果てたセミ シブヤTヒロ
○「並選。蝉に儚さを重ねる句にはもう食傷気味であるが、これはその逆でよい。蝉の末期になど注意をはらわない。『なんか言って』と無関心である様子がいい。しかし読みようによっては『バレ句』とも読めるね。」(働猫)

性行為というものは、客観的に見ればきわめて滑稽なものである。
セミが今際の際に短く鳴いて果てる様子を、男のその時の姿に重ねているとも読める。女の冷ややかな視線から目をそらし、必死に腰を振る男。
なんと悲しい姿だろう。

の家の誰かがずたずたに切り刻んだ凌霄花また咲いた シブヤTヒロ
△「『切り刻まれた凌霄花また咲いた』でいいのではないか。『切り刻んだ』ことと『また咲いた』ことの両方を入れるとぼやけてしまう気がする。」(働猫)

要素が多い。

もうさっきの空ではない雲のもとみんな帰ってきた シブヤTヒロ
△「時期的な気分か、帰ってきたのは死者たちのように読んだ。『あああ帰ってきた。黄泉の国から戦士たちが帰ってきた』という乙事主のセリフを思い出した。」(働猫)

やはりお盆の句なのだろう。
死者が帰ってくる日がある。遺された者にとってそれは救いであり、必要から生まれた信仰だったのだろう。
改めて句を眺めてみる。
この原稿を書いている今日が3月11日であることもあって、親しい人たちを亡くした者の見る幻想的な光景のようにも読める。
「空ではない雲のもと」がやや冗長かとも思うが、良句かと思う。

はじまりはかじったトマトのまぶしさ 藤井雪兎
△「恋のはじまりだろうか。小道具によって恋に落ちることはある。若ければね。」(働猫)

爽やかである。青春だな。見たことはないが新海誠作品ってこんなイメージがある。

いいことつづきだ土をつかんだ 藤井雪兎
○「並選。土をつかむ状況ならば、ひざまずいているのだろう。挫折や敗北のポーズだ。しかし『いいことつづきだ』と言う。どういうことだ。違和感があるが、この前向きさには惹かれる。思いがけず『ええ土』に出会えたということなのだろうか。笑い飯のネタで見た。」(働猫)

笑い飯はもっと売れてもいいと思うのだけれど、どうなのかな。

星座に興味ある子の寝姿 藤井雪兎
△「星座と寝姿がつながらなかったのだが、例えばオリオン座の形になって寝ているとか、フェニックス一輝の鳳翼天翔の構えで眠っているとかなのかと考えるとおもしろいですね。」(働猫)

私は牡羊座なので、星座カースト制度では良くもなく悪くもない地位であった。 
最近の子供はそうした苦しみを背負うことがないのか。よかったですね。

*     *     *

以下三句がこの回の私の投句。

失い終えた者から、もう帰ってよい 畠働猫
明け急ぐ骨を骨を隠しきれない骨が鳴る 畠働猫
月明かり泣いてばかりいる影を見ている 畠働猫

職業適性検査によると、私には俳優や宗教家が向いているようである。
私が教祖となった暁には、「失い終えた者から~」を経典に記そうと思う。
なまねこなまねこ。

文中で触れた「修羅」について、補足のため過去記事で述べたことを再掲する。

*     *     *

詩であれ句であれ、そこに自分の悲しみを表現するという行為に、自分はどうしようもない修羅を感じる。
この「修羅」とは、宮沢賢治が自らを表現したものと同じである。すなわち、仏教の六道において、人間よりも下位の存在であるということだ。
自らの感情を芸術に昇華しようとするとき、そこには当然技巧的な操作が加えられる。推敲などはその最たるものと言えよう。だからこそ受け手も感動することができる。
しかしその操作の段階で作者の悲しみは純粋な悲しみのままであろうか?
そこには自分の感情から一歩引いて見つめる冷徹な観察者が現れるのではないだろうか。
悲しみとはもっと個人的なものであって、それを他者に対して表現することなど、「まともな人間」にできるものだろうか。
それができるのは「修羅」だけではないのか。
そのように思う。

一応断言しておくが、これは非難ではない。純粋な表現者への賞賛である。
単に悲しみに寄り添って憐憫に暮れるのはまともな人間の行為でしかない。
表現者とは、修羅でなくてはならないのだ。
無論、自分もそうありたいと願っている。

そして前回、戦争を「現象」として捉え分析することが必要だと言ったように、人の心の悲しみを断ち切ることができるのは、冷徹な観察眼と智慧とを併せ持つ修羅だけなのではないか、とも私は思っている。

自由律俳句を読む105 「松尾あつゆき」を読む〔2〕より

*     *     *

次回は、「鉄塊」を読む〔16〕。

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