2016-03-06

【句集を読む】 表情 石田郷子『秋の顔』を読む 福田若之

【句集を読む】
表情
石田郷子『秋の顔』を読む

福田若之


1996年に出版されたとき、石田郷子の『秋の顔』はそれだけで一冊の句集だった。第一句集である。いま、それは、『石田郷子作品集I』(ふらんす堂、2005年)に、第二句集である『木の名前』とともに収められている。

この『秋の顔』を、まさしくひとつの顔として読むこと。それ自体は、これまでもなされてきたことだ。ひとは、しばしば、その表情は明るいものだと言う。ういういしく、屈託のない、しあわせそうな、明るい表情だ、と。

けれど、それはほんとうだろうか。『秋の顔』が、たとえば笑顔を見せることがあるとして、その表情は、ほんとうに明るいものだったろうか。

表情。すなわち、表と情との結びつき。ただし、次の一句に読まれるとおり、その気になれば、顔はつくろうことさえできるものだ。

春愁の顔つくろはぬ歩みなり

つくろわれていない顔からは春愁をはっきりと読みとることができるけれど、表情というものは、いつもこんなふうに分かりやすいとは限らない。表情を読むとは、つくろわれた顔についてさえ、そのつくろいようにどういう思いが孕まれているのかを読むということだ。表情を読むとは、そうした意味において、表と情との結びつきを読むことだ。つくろわれない春愁の顔が愁いを明らかにしているのに対して、「秋の顔」というこの表題、この表には、はっきりとした情を見てとることはできない。けれど、それは、決して、『秋の顔』が何の情も湛えていないということではないだろう。

短夜やかなしさ言はぬ書はなく

かなしさを言わない書物はない、と、この句は言う。ところで、句集もまた書物である。だとすれば、この書物もまた何らかのかなしさを言っているはずではないだろうか。たしかに、作者による「あとがき」には、「私は、自分の作った俳句が一冊の本になるということが今更ながら不思議でたまりません」とある。書物になるつもりなどなかった句たち。集まってひとつの肖像画をなすつもりなどなかった描線たち。図らずも形作られてしまったひとつの顔。それゆえ、たしかに、短夜の句は必ずしも自己言及的な意図を持って書かれたものではなかっただろう。実際、この句の字足らずの響きは、一句としては、かなしさよりは、むしろ、さびしさを感じさせるもののように思う。けれど、それでも、句集は書物だ。だとすれば、句集である『秋の顔』は、そのかなしさを言わずにはありえないだろう。

とはいえ、『秋の顔』の一句一句を見たとき、それらの句が言おうとしているのは、かなしさというよりは、むしろ、さびしさなのである。かなしさについて考える前に、まずはそのさびしさを読んでいくことにしよう。

さびしさを言はねば星の凍てにけり

さびしさを言わないから、星が凍ってしまった。そのことを言うこの句が、なによりも、星が凍るまで言わずにいたそのさびしさを言っている。この句だけではない。『秋の顔』においては、言うということが、つねに、さびしさと関わっているように見えるのだ。

熱燗や雨の匂ひを言ひながら
冬林檎言ひたいこともあるけれど
遠ざくらあしたのことを言ひにけり
水音の見上げよといふ合歓の花
ひとめぐりして秋色をいふばかり

熱燗を片手に言われる雨の匂いは、冷え切った冬の夜のさびしい雨の匂いではなかったか。冬林檎を手にしながら言いたいことを言わずにいたのは、言うことがもたらすさびしさを避けるためではなかったか、そして、言いたいことを言わずにいるのだといまこうして言ってしまったことに、まさしく言うことのさびしさがあるのではなかったか。遠く儚いさくらを目にしながらあしたのことを言う言葉は、そのあかるさのうちにさびしさを湛えていなかったか。水音が見上げよというのは、さびしさにうつむく顔をあげさせるためではなかったか。秋色をいうばかりの言葉は、満たされることのないさびしさをその余白に際立たせはしなかったか。

けれど、もしそうだとして、『秋の顔』において、言うことは、なぜそんなにもさびしいことなのだろうか。それを考えるには、さびしさについて直接に言っているもう一つの句を読む必要がある。次の一句だ。

雪搔きの一人はさびしすぎざるや

さびしすぎないか、という問いにおいては、さびしくないか、という問いにおいてとは違って、それがさびしいということは前提である。一人で雪を搔くことは、さびしい。これこそが、さびしいことなのだ。一人であるということ。『秋の顔』が言うさびしさとは、一は一だということである。その一人が、文字を刻むための紙のように白い一面の雪のひろがりに何らかの傷を残すためにいるというならば、そのさびしさはなおさらのことである。

ところで、一は一だということとしてのさびしさは、ただ寄り集まるだけでは解決しない。たとえば、二になったとしても。

荒星を汝は知りぬ吾は知らぬなり
猟期をはる少年のゆめ少女のゆめ
父もまた見てゐしといふ秋の虹

あなたは荒星を知っているが、私はそれを知らないということ。猟期がおわり、少年と少女はついに同じゆめを追わないということ。父と私とが秋の虹を見ていたとき、それでも二人は別々だったことを知ること。これが、さびしいということだ。そうしたさびしさは、三になっても、四になっても、それだけでは、きっと変わらない。

梅干すといふことひとつひとつかな
ひとりづつ雨を見てゐる青ふくべ
ふきのたう覗きそれぞれひとりごと

どれだけ集まっても、ひとつひとつ、あるいは、ひとりずつであれば、それらは、みな、それぞれにさびしい。ものやひとだけではない。言葉も同じだ。だから、『秋の顔』において、言うことは、その一言ずつが、さびしいことなのである。ところで、俳句は、ふつう、言葉である。ゆえに、『秋の顔』において、一句ずつは、まさしくそれが一句ずつであるということによって、さびしいものとして読まれうる。そして、そのときには、《来ることの嬉しき燕きたりけり》といった句さえもが、その笑顔のうちにさびしさを感じさせずにはいないだろう。実際、何らかのさびしさがなかったならば、燕を「来ることの嬉しき燕」と呼ぶこともなかったに違いない。

こんなふうに『秋の顔』のさびしさを読むとき、この句集に次の一句が収められることになったのは、一は一だというこのさびしさを乗り越えるためだったように思われる。

さへづりの中へ入りゆく吾等かな

吾等。一としての「吾」を確かに含みながら、「等」は一人ずつのさびしさをあいまいに中和し、それぞれのさびしさを乗り越えようとする。「吾」は、すでにさえずりの中にある無数の声と同じ仕方で「吾等」に含まれることを望んだのだ。

こうして、「吾等」は、「吾」とは違って、もはやさびしくはないだろう。だが、このとき、「吾等」は、さびしさの乗り越えと引き換えに、決してしあわせとは言えないある気分を湛えずにはいない。「吾」が「吾等」に含まれるありようは、一句が書物に含まれるありようと同じである。『秋の顔』が「かなしさ」と呼んだのは、いくつものさびしさがひとつに織り上げられたときにその交わりの内に生じるこの気分のことでないとしたら、いったい何だろうか。そうでなければ、どうして、いかなる書物もかなしさを言っていると断言できようか。書物とは、まさしく、一つ一つの言葉が重なり合ったところに見いだされる何らかの顔にほかならない。

『秋の顔』から読み取られるかなしさとは、そうしたものである。『秋の顔』の表情は、かなしいのだ。

そして、さらに書き足しておくなら、こうしたさびしさとかなしさは、第二句集である『木の名前』、さらには第三句集である『草の王』(ふらんす堂、2015年)に至るまで、同じように書き継がれているように見える。『木の名前』には、《さびしいかさびしくなくもなき青野》、《秋水がゆくかなしみのやうにゆく》といった句が収められている。一句はさびしさを述べ、無数の水分子が一体となって織り成す秋の水の流れは、書物と同じかなしみを湛えながら、かなしみそのものに喩えられるのである。《うごかざる一点がわれ青嵐》の「われ」はさびしいのであり、《さへづりのだんだん吾を容れにけり》の「吾」は、この「さへづり」のかなしさに溶け込むのである。『草の王』の冒頭の一句は、《四万六千日人混みにまぎれねば》である。これは、さびしさからかなしさへ向かおうとする意志だ。《その中の急ぐ一人となりて冬》の「急ぐ一人」は、かなしさに身を置いている。《泉までさびしき人を連れてゆく》、なぜなら、泉の水は、さびしさを、分子の孤独を超えているからだ。超えたその先にあるのが、かなしさに過ぎないとしても。

だが、なぜ、かなしさなのだろう。そもそも、一つずつのさびしさが中和するのを感じるときに、誰もが「かなしさ」という語で言い表されるような気分になるわけではないだろう。だとすれば、ここで「かなしさ」という語が選ばれたことは、ひとえに作家の資質によるものだと考えざるをえない。

それは、たとえば、「発病」という前書きを添えながら《爽やかに俳句の神に愛されて》と書くあの逞しいまでの明るさを具えていた『夜の客人』(ふらんす堂、2005年)の田中裕明の作家性とは、まるで異なるものだ。彼が、いかにもさびしげに《空へゆく階段のなし稲の花》と書くときにも、よりはっきりした言葉で《さびしいぞ八十八夜の踏切は》と書くときにも、それどころか、《ひとの撰びしわれの句の夏淋し》と書くときにさえ、彼の句は、最後には形式の愛によって全面的に救われるというひとつの確信に支えられているように見える。それは、ちょうど、《教会のつめたき椅子を拭く仕事》が揺るぎない信仰に支えられているのと似ている。「逞しいまでの明るさ」というのは、見方を変えれば、逞しさが確信にともなう明るさに支えられているということにほかならない。

それに対して、『秋の顔』のもろもろの句のさびしさは、書物になっても、かなしさに変わるだけである。石田郷子の作家性は、このように、一句という形式に対しても、書物という形式に対しても、一切の救いを求めないところに表れているように思う。書物に救いを期待しないものにとって、書物はかなしいものにほかならないだろう。おそらく、彼女は、形式に愛されているという確信によってではなく、形式によっては救われることのないさびしさやかなしさと向き合うこの逞しさによって、書いているのである。石田郷子の作家性として見出されるこの逞しさは、どんな明るさにも支えられていない。それは、むしろ、明るさの支えを欠きながら、形式による救いを欠きながら、それでもなお書き続けるための、たった一つの支えとしての逞しさなのである。

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