2016-04-10

自由律俳句を読む132  「鉄塊」を読む〔18〕 畠 働猫

自由律俳句を読む 132
「鉄塊」を読む18

畠 働猫




1992年の「信長 KING OF ZIPANGU」以来、今年は大河ドラマを観ている。「真田丸」はおもしろいですね。
黒木華の役である「うめ」が先週で退場してしまったものの草刈正雄はじめ役者陣が本当に魅力的で、毎週の数少ない楽しみの一つとなっている。
そんな倹しく健気な生活をおくる私が今日も自由律俳句を読みます。



さて今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第十九回(201311月)から。
この回から度々、その回の編集当番による招待という形で、鉄塊に所属していない方にも句会に参加していただいた。
第十九回では、私が編集当番であったため、タケウマ氏を招待した。

文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第十九回(201311月)より

蚊がおる秋のテラスにおる 馬場古戸暢
○最初の「おる」は蚊で、あとの「おる」は自分なのでしょう。「いる」でなく「おる」としたことでおっさんくさい感じがよく出た。秋なのに生きている蚊の儚さもテラスという語のなんだか上品な感じもうまく打ち消している。全体的に力の抜けたしょうもない感じに仕上げている。(働猫)

「おる」は方言であるようだ。
古戸暢の句ではこの方言がしばしば効果的に働く。
本人がどの程度意識的に用いているかはわからないが、あまり特徴的な方言のない北海道で暮らしている身には、少しうらやましく思える点でもある。


アフターファイブの面した女が香る 馬場古戸暢
△職場では眼鏡なのにコンタクトしてきて化粧も違う、という。しかし眼鏡が好きだったことに気づいてしまったりしてね。(働猫)

眼鏡が本体の女っているよね。
同意なんてなくてもいいんだよ。


洗濯日和となるがよい朝が近い 馬場古戸暢
△夜明けごろ洗濯して干してから眠るということが自分にもあります。眠ったあとに雨が降るかもしれない。そこは賭けですね。(働猫)

一見不眠の句と読み、上記のような感想を抱いたのだが、違う読みもあるんだろうか。
夜眠れない辛さは、希望に満ちているべき朝に力尽きて眠る自分が呪われた存在に思えることである。どうもがいても抜け出せない沼のように、乱れた生活サイクルの中でどんどん無気力になっていく。
今でも、眠れないという夢を見てうなされることがある。


河豚になったら敵も味方もないからな 十月水名
◎忘年会の料理ですね。たしかに河豚となれば、普段仲のいい同僚だろうと気に食わない相手だろうと、同じ卓になった以上は、一枚でも多くのてっさを奪い合う関係となるでしょう。まさに弱肉強食阿鼻叫喚地獄絵図が展開されるのです。でもいちばんおいしい食べ方はから揚げだと思います。(働猫)

微笑ましい景として取った句であるが、十月の目的が意味の解体にあると仮定するならば、不本意な評であったことだろう。
それにしてもふぐはおいしいですよね。


銀河だ穴掘る音音音 十月水名
△リズムはよいが情景がつかめない。「音音音」と繰り返していることから、あちこちで穴を掘る音がしているようだが、みんなで穴を掘る状況がわからない。しかも夜に。(働猫)

平安京エイリアンであろう。
喫茶店のテーブルがゲーム台になっていた世代だからわかる。


あけすけなおでんのたまごと真昼 十月水名
△おでんは玉子と大根があればよく、あとは出汁だと思います。リズムが気持ちよくないです。(働猫)

リズムについては5・8・3であり、字足らずの定型句ともとれる。
自由律俳句として見たとき、中途半端な印象を受けてしまう。
字余りや字足らずのリズムは定型の「お約束」があってこそおもしろいものであるからだ。


本買った日の晩飯はしっかりと噛む 藤井雪兎
△読みながら食べているのでしょうね。自然、気持ちは本に集中し、噛む時間が長くなっている。しかしこれに気付くということはそうした自分を客観的に見ているセカンド自分がいるわけであり、ということは本に集中していないということでもある。そしてサード自分が句に詠んでいるという。食べるか読むかそんな自分を眺めるか詠むか、どれかにしなさい、とお母さんに怒られるといい。(働猫)

「セカンド自分」「サード自分」というのは、榎本俊二の『ムーたち』という漫画の中で用いられている語である。連載終了から10年ほど経過しているため、補足説明が必要であろう。
自分自身の行動や思考を背後で認識しているのが「セカンド自分」である。
また、さらにその「セカンド自分」の背後でセカンド自分を認識している存在として「サード自分」がある。
作中ではそのように語られる。
恐らくは、「セカンド自分」とは自分自身の認知の仕方を認知しているメタ認知のことを言っており、「サード自分」とはさらにその上の階層の認知なのであろう。
放哉の「せきをしてもひとり」、山頭火の「うしろすがたのしぐれてゆくか」という2つの句に共通して言えることは、どちらも自分自身を客観的に見て詠んでいるという点である。特に山頭火の句では自分自身の後ろ姿を眺める、まさに「セカンド自分」が出現している。
自由律俳句においては、自己の内面に句材が見いだされることがしばしばある。
その際に、自己を客観視できなければ、聞くに堪えない自分語りに終始してしまい、ひどい句ができあがる。
「セカンド自分」「サード自分」を意識的に鍛えるべきだ。

藤井雪兎の句について、これまでたびたび「映画的な視点」と評してきたが、その視点とはまさにここで言う「セカンド自分」「サード自分」から見た超客観的な視座なのではないかと思う。


着ぐるみに儲け話ささやく 藤井雪兎
△ふなっしーでしょうね。あいつにはきっと黒幕がいるにちがいないのです。(働猫)

ゲスの極みうさぎである。


ウルトラマンの尻ばかり見ている夜長 藤井雪兎
●よくわからない。ウルトラマンは3分しか活動できないはずだ。3分ごとに交代で尻を見せに来るのか。異常な事態だ。逃げ出したい。しかし作者は夜通しその事態に向き合っている。恐ろしい。これは逆選にせざるを得ない。(働猫)

この句は好きだな。
また、前述の「セカンド自分」がここでも出現している。


うなぎをマネすると素早い 中筋祖啓
△人込みを駆け抜けるときですね。(働猫)

この回の祖啓の句はあまり評価できない。中途半端である。悩んでいたのかもしれない。


かかとを要点に反転 中筋祖啓
△つまさきじゃないかと思うのですが。(働猫)

私とは動き方が違うようである。


ほうきの先にある遠心 中筋祖啓
△ほうきを逆さにして掌の上で立てるやつですね。私の記録は53分です。(働猫)

この句については、祖啓がYouTubeで公開している「自由律俳句TV」という動画(3回目「自由律俳句TV3」)で確認することができる。おもしろいのでぜひ検索してご覧ください。


抱いて寝たはずの犬がこちらに来ている 小笠原玉虫
△相方が寝室に連れて行った犬がいつの間にか自分のところへ来ている。犬の愛情は自分に向いているのだという優越感ですね。(働猫)

ちなみに今原稿を売っている胡坐の上に猫が乗っていて、足がしびれています。


よごれた土地の売れない菜っ葉だ 小笠原玉虫
△放射線についてはいったい何が正しく何が間違っているのか、何を信じればいいのかわかりませんね。しかし私たちは生きていかなくてはならない。そこに生活する者の現実がよく表れています。「よごれた」とひらがなで表記したことで、現実に対する釈然としない感じ、未整理な感じが出ていると思います。関係ないですが、ベジータはドラゴンボールでナッパを生き返らせてやろうとは考えたことがないのでしょうか。冷たい。(働猫)

ナッパはいらない子なのか……。


ロキソニン飲んで今日はまだ木曜 小笠原玉虫
△毎週似たようなことを思っています。(働猫)

前々回の記事で、悲劇的な内容には作品としての強度が必要であると述べた。
この句の「ロキソニン」程度であれば、市販もされていることであるし、それほど気にならない。
しかし、安定剤や睡眠薬、向精神薬などの名前が詠みこまれた句には心底うんざりしてしまう。
病や薬というのは極めて個人的な問題だ。
今まさに自分に起こっている病という現象、その渦中にあって、目の前にある薬が新鮮な句材、語るべき素材に思える。そんな気持ちは理解できなくはない。
しかし、他者にとってもそれが新鮮かと言えば、そんなことはない。
自らの内面を表現することが治療の一助となることもある。だから作ること自体は否定しない。ただ、それが一般的に評価されるかと言えば、多くの場合評価はされない。評価されないことがまた精神的な苦痛となることもあるのだから、前もってそういうものだと知っておくのもいいのではないか。
作品としての強度を高めるためには「セカンド自分」「サード自分」による客観視が必要だ。精神的に余裕がないときほど、表現者はそれを意識しなくてはならない。


濡れる路上の妻の待つ灯り 風呂山洋三
○美しい情景です。「灯り」という語から連想されるのか、双方の愛情が感じられます。雨上がりという希望に向かう形式も幸福を表しているのでしょう。愛と言わずに愛を表現する。お手本のような句です。(働猫)

辻仁成の「僕たちの結婚」を思い浮かべた。
前回、風呂山の句を評して「無縁」とは遠い句と述べたが、この句もその特徴がよく表れている。幸福な景、良好な人間関係を詠んだ屈折のない句が風呂山の特徴だ。(実際の生活がどのようなものかは知らない。)
放哉や山頭火の性質の悪い模倣や、甘えに満ちた不幸自慢の句(無論自戒を込めて)があふれている中で、こうした風呂山の句風は新鮮であるし、美しいと思う。


干しもの取りこむサンダルの底冷たい 風呂山洋三
△これは美しい情景と思います。しかし北海道で暮らす身としては、夏でも夜はサンダル冷たいことも多いため、本当の意味で季節感を共有できないのだと思います。そんなことを確認しました。(働猫)

冬に向かう季節の発見を詠んだ句であるが、当時の句評で述べたように、北海道では季節を共有できない。
だから季語についても内地の感覚とは大きなずれが生じる。
実感できる季節に合わせて詠んでも「季が違う」とか言われると、「えぞ」だ「えみし」だと蔑まれてきた地域としての記憶が蘇り反乱を起こしてやろうかと思う。


くしゃみの出るほど澄んだ夜空だ 風呂山洋三
△くしゃみは光の刺激によっても出るらしいですね。だから出そうで出ないときには蛍光灯でもいいので光を見るといいらしいです。北海道では札幌から少し離れるだけで満天の星が見えます。特に冬は空気が澄んでいるのかとても美しい夜空です。そんな美しい情景を詠んだ句と思いますが、少し当たり前すぎるかと。散文的というやつでしょうか。(働猫)

説明的に過ぎるように思う。くしゃみは出なかったのかもしれない。


おれだけの近道知らない犬が来た 地野獄美
△犬と対等であるところにおかしみがありますね。(働猫)

犬と対等である視点に、命あるものを平等に見る作者の感覚が表れている。自分だけのものと思っていたところに、そうではなかったという発見。物悲しくもあり、なんともおかしい。
良句と思う。


諦めず読む燃やされずにすんだ本 地野獄美
△焚書坑儒でしょうか。知識を収集することをあきらめてはいけませんね。しかし燃やされる本にこそ読む価値があるのではないでしょうか。(働猫)

いったい彼はいつの時代どこの場所に生きているのだろう。
本が燃やされる世界。ひどく絶望的な世界であることは間違いない。でも歴史やフィクションの世界では見たことがあるが、実体験としてはないな。


イヤフォン外させ道を尋ねる 地野獄美
△ほかに誰かいなかったのか、と思う。外界との接触を極力避けようとしている人間、と自分は判断するのだが。道を尋ねるのは口実で、そうした輩に苦言を呈したいのだろうか。(働猫)

これはどう読むべきか。
当時の句評とさほど変わらない読みをしてしまうが、どうにも意地の悪い悪趣味な行為としか思えない。またそれを句にした意図もよくわからない。


抱き寄せられて焼き芋の匂い タケウマ
△女は好きな男の腕の中でも漂ってくる焼き芋の匂いに思いを馳せずにいられない生き物なのです。ジュディオングもそんなような歌を歌っていました。(働猫)

「女は海」という歌詞に共感できるようになってきました。


合わす手の隙間から風冬が来る タケウマ
○「合わす手」は二人の手と読んだ。春に出会い夏に関係が深まり秋を迎え二人の距離は離れていく。そんな心の機微を合わす手の隙間として表しているのだろう。握り直せばまだ間に合う。しかしそれに気付くのは冬が来てからなのですよね。(働猫)

これまで断片的に述べてきたが、特殊な成育歴のため、30半ばまで私は恋愛依存が非常に高かった。常に恋愛をしていなければ生きてゆけなかった。
したがってこうした恋もまた経験した。
若さやそれゆえの苦さを思い出すような句である。


しんしんと電気満ちゆく電気椅子 タケウマ
△グリーンマイルを思い出しました。残酷な道具に美しさを見出す狂気を感じました。(働猫)

グリーマイルだろう。
昔まだ本を読んでいたころ、スティーブンキングは長くて好きだったなあ。



*     *     *



以下三句がこの回の私の投句。
犯された夜の続きの朝の挨拶 畠働猫
白亜の土にやわらかくトリケラトプス光の素足 畠働猫
雨で二軍に屋根がない 畠働猫
長律句を多少意識して作った句である。
トリケラトプスの句は自分ではけっこうきれいな句ができたと思うのだが、あまり評価されなかった。むう。

この回で招待したタケウマ氏は、web上の句会やTwitterで知り合えた方である。私が現在、表現者として敬愛する方のうちの一人である。創作は定型句の方が中心であるようだ。
タケウマ句を自分が好むのは、「美しさ」とは何かということを知っていることがわかるからである。そして極めて軽妙にそれらが表現される。
そこに心地よさと安心感を覚える。
それは、氏が「セカンド自分」「サード自分」を持ち、自らを客観視して句を詠むためである。そこに大人らしい精神的な余裕も感じられる。
私は美しいものを詠みたいし読みたい。
その求める方向にタケウマ句はあるように思う。



次回は、「鉄塊」を読む〔19〕。



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