2016-04-03

名句に学び無し、 なんだこりゃこそ学びの宝庫(24) 今井聖

名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (24)

今井 聖

 「街」第116号より転載

雉交る那須野にその雌叩きつけ  浄法寺直之 俳誌「寒雷」「寒雷集」巻頭句(1975年頃)

なんだこりゃ。

キジサカルナスノニソノメスタタキツケ

いやあ、この句を初めて見たときはびっくりしたなあ。

雉の交尾は刹那。一瞬だが激しい。

今はユーチューブで見られる。

激しい自然の営みが新たな命を作りだす。

対象を写すという観点で言うと、これが「写生」の句でなくてなんであろう。

客観的な動作がそのまま描写されている。

それでいて、作者自身の気息の充実もエネルギーも感じられる。

那須野の情緒とか、交尾の「俳諧」可笑しみの精神とか、季語の本意とか、俳句的情緒に望まれる向日性とか、花鳥諷詠の在り方とか。そんなことの前に対象を真正面から見つめる素朴な「眼」がある。

街誌の表紙の裏に記載されている街宣言、
俳味、滋味、軽み、軽妙、洒脱、飄逸、諷詠、諧謔、達観、達意、熟達、風雅、典雅、優美、流麗、枯淡、透徹、円熟、古いモダン、睥睨的ポストモダン、皮相的リベラル、典拠の達人、正義の押し付け、倫理の規定、自己美化、ではないものを私たちは目指します。肉体を通して得られる原初の感覚を私たちは基点におきます。
私たちは「私」を露出させ解放することを目的とします。
のお手本のような直之作品。

楸邨選巻頭の意味がよくわかる。ナマの感受性がぴりぴりくるのだ。

昭和十六年「寒雷」創刊時の簡潔だが抽象的なテーマ「俳句の中に人間が生きること」は、今考えても難しいマニフェスト。

僕が寒雷に来た頃、当時の編集長平井照敏さんとよくこのテーマについて話した。

何を書いてもそこには書く主体が現れるのだから、記されるものに「人間が生きる」のは自明のことではないか。

敢えて「人間」を言う必要があるのか。

僕がそういうと平井さんも頷いた。

では、「人間が生きる」の本意は何か。

ヒューマニズムか。

楸邨俳句はそこで誤解されるが、それも違うと思う。

「花鳥諷詠」や秋櫻子の明るい「西洋画」が横溢していた時代だから、生活を書き庶民の内面を詠むのはエポックメイキングな角度だったと思うが、倫理は時代や権力の都合によって規定が変えられる。

だから、そこがこのマニフェストの核ではない。

楸邨は別の言い方をしている。

「対象と自分とが一枚になること」

つまり、原初の感覚を通しての直接的把握が、ひいては自己のアイデンティティを導くということ。

いろいろなところで何度か書いたことだが、寒雷一般投句欄には投句者が書き入れることのできる小さな欄があり、僕はあるとき愚痴を書いた。
「もの」に接近しすぎると自分を見失います。自分を描こうとすると対象の持っている特質を見失います。どうしたらいいのでしょうか。
やがて寒雷集の楸邨の批評の中にこの投稿がそのまま載り、僕への「回答」が載った。
この問いかけは理解できるが、「もの」に接近しないと見えてこない「自分」というものがあります。
「もの」に接近しないと見えてこない「自分」。それが「対象と自分が一枚になること」と同義なのだ。

楸邨の「真実感合」の核がこの句にある。

直之さんの表現した雉の交尾には対象と自分が一枚になる瞬間の機微がある。

この句を見ると寒雷のマニフェストが蘇る。

浄法寺直之(じょうぼうじなおゆき)さんは、黒羽の館代浄法寺桃雪の十七代目の当主。

「奥の細道」冒頭、芭蕉は旅立のあと、草加、室の八島、日光を経て、那須、黒羽に入る。
黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信(おとづ)る。其弟桃翠など云ふが、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。
の件りである。

どういうきっかけで直之さんが楸邨門に入られたのかは定かではないが、芭蕉に関する著書も多くその研究をライフワークの一つにしている楸邨は直之さんをたいそう可愛がった。

こう書くと直之さん、地元の殿様の末裔で、いかにも育ちの良い紳士然とした印象を持つが、これが全く逆。

庶民的できわめてざっくばらん。歯に衣着せない。話がとにかく面白い。

黒羽でペンションを経営しておられ、その傍ら直之さんは地元の飛行機部品の製造工場で働いていた。

もう数十年前黒羽にうかがったときの話。

芭蕉が逗留した旧家ということでテレビ局が取材に来ると連絡があり、レポーターが竹下景子という企画だったが直之さんは即座に断った。受けて当然というその言い方が気に食わなかったんだと直之さん。

この話、受けていればペンションは人気が出ただろうに。

もう一つ、確か、加藤知世子さんの葬儀の時だったと思う。

僕が参列者の道案内をしていると上京してきた直之さんがやってきた。

「照敏(しょうびん)さん、居る?」

たまたま平井照敏さんはその場に居なかった。

「呼びましょうか」

「うん、頼むよ」と言って直之さんは僕に囁いた。

「娘が受験の年だもんで、照敏さんに頼みに来た」

「頼むって?」

「青学入れてくれんかな。あの人青学だろ」

当時、照敏さんは青学短大の教授してたけど、まさか本当にそんな話をしたのかな。

照敏さんの困った顔が浮んで今でも笑いがこみあげてくる。

当時の「寒雷」のメンバーの一典型がここにある

「寒雷」は兜太、澄雄、安東次男、澤木欣一、久保田月鈴子、川崎展宏、田川飛旅子など帝大出のインテリが多く居たが、一方で、和知喜八、古澤太穂、野宮猛夫、寺田京子、小檜山繁子らの労働者、療養者系の「雑草派」も多く居た。直之さんは後者の部類。

両者に共通するのは実直、素朴で一途なこと。時には非常識なくらい。

まあ、お上品な諷詠派はどちらにもいない。

これは楸邨の性格そのもの。

類は友を呼ぶのだ。

直之さんは数年前に他界されたが、黒羽の俳句大会で最後に会ったときの会話は忘れられないものになった。

一緒に寒雷集で切磋琢磨した頃の話になり、僕が冒頭の句を激賞すると、ちょっと酔った直之さんが言った。

「聖さん、あの句な、実はもとの句はちょっと違う。それを、楸邨が直して採ったんだ」

「ええっ?……」

楸邨は投句者の句を絶対に直さないと明言し、それは周知のことになっている。

「どんな句だったんですか」

雉交る那須野に妻を叩きつけ

直之さん、それヒドイわって言って二人は大笑いした。

大笑いしたけど、僕は今しみじみと二つのことを思い返している。

ひとつは楸邨がやっぱり直之さんを特別扱いしたんだなという羨ましさ。

これは浄法寺家十七代目の末裔ということではなくて、時には無頼直情、一本気な直之さんの性格と、地元那須野の自然に立脚して原初の五感に依る把握を目指す作句姿勢を楸邨が愛したということ。

もうひとつは、この原句、確かに「面白すぎる」けど、良くみると添削の前も後も句の趣は、雄が雌を地に叩きつけての交尾の瞬間を詠んでいる点では同じ。直之さんの把握の要までが変えられたわけではない。作者の素朴さが「雌」よりも「妻」を導き出した。

通常、俳誌の一般選では選者が投句者の句を添削して載せるのは常識となっているので直之さんの句の価値が落ちるわけではない。僕にとってはこの句、今でも大いなる目標句である。

なんだこりゃこそ学びの宝庫。

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