2016-04-10

【週俳3月の俳句を読む】転倒した価値観の中に 小野裕三

【週俳3月の俳句を読む】

転倒した価値観の中に

小野裕三


雛段のひときは低き牛の角  渡部有紀子

ここでの牛は牛車の牛なのだろうが、その他にも雛人形の世界にはいろんな小道具めいたものがぎゅっと詰まっている。この世界は人形たちだけで充分に生きていけそうだ。そんな精緻なミニチュア世界から見れば、人間にとってはちょっとしたことでも、その小さな世界の住人たちにはとんでもなく重大なことなのだ。段の高さのちょっとした差も、彼らにとっては一大事。そんな大小ふたつの世界の決定的なすれ違いのようなものが、句の中に見えてきて面白い。そしてそもそも、そういう小宇宙を現実世界に対して並置することから来る面白さは、考えてみるとまさに俳句の面白さそのものかも知れない。季語の本意なんて、いかにも小宇宙的なものなのだから、この句はその意味で俳句の本質的なものを感じさせる句とも思える。

工場に箱の幾万桜東風  永山智郎

工場では、一つの製品型についての無数の複製品が製造されるのが通例だ。この句では何の製品なのかも明らかにされないが、とにかくそれは幾万の箱の中に収められ、出荷されていく。それを取り巻くように、風に舞って無数の花びらが散る。ここでは圧倒的な数と数のイメージが対照され、そしてその光景を貫く普遍の原理がある。それは流動性だ。箱に収められた製品は、社会や経済を動かす潤滑油のようにあちこちに散っていく。そして風も花びらも、流れていく。この句の世界は、そんなふうに流れていくものばかりでできている。春らしく明るい、伸びやかで淡い色合いが句全体に感じられる。それもきっと、そのような流れのせいなのだろう。何かが適切な速度で延々と流れていくことは、世の中がうまく回っている証拠でもあるのだから、そのことの明るさをこの句はうまく言い当てている。

階段は風聴くところ鳥雲に  永山智郎

ちょっとしたレトリックの面白さが句の魅力を劇的に引き出すことは、俳句にはよくあることだ。この句もそのような句のひとつだろう。階段でたまたま風の音を聞いた、といったような順当な説明の仕方ではなく、階段とはそもそも風を聞くところなのだ、と言わんばかりの遠慮のない断定。まるでそれが階段の唯一の機能であるかのようで、しかも、ここでの聞くは「聴く」とわざわざ表記されているのだから、これはもう確信犯だ。階段は風を「聴く」という目的のために存在する。だとすると上ったり下りたりという行為はどうなっちゃうのだろうと不安にもなるのだが、たぶんこの句の世界ではそんなくだらない些事のために階段は存在していないのだ。そうだとすると、その転倒した価値観の中にすべてのことが存在するようで、だから句の世界全体がとても新鮮に見えてくる。

端折りつつ話してみても蝶狂ふ  西川火尖

ドラマティックな句だ。いささか抽象的というか、具体的な情報には乏しい句にも見えるのだが、それでも不思議にイメージの確かな手応えのようなものはある。その秘密は、冒頭にあると見た。最初のふたつの漢字。「端」「折」。ふたつの漢字それぞれの固有の意味から来るイメージはきわめて幾何学的で固く視覚的なものだ。だがその一方で、「はしょる」というこの動詞自体はむしろ口語的で柔らかで音声的なイメージを持ち、少なくともそれはいささかも幾何学的ではない。そんなふうにこの句では、入り口からふたつの異なったイメージの道が用意されている。そしてその二つの道が、「蝶狂ふ」という鮮烈な像ですとんと唐突に幕を閉じる。イメージの二つの道を堰き止める、もうひとつのイメージ。そんな具合に三角形に配置されたイメージ群が、この句の中で不思議なバランスとなって輝いている。



渡部有紀子 あがりやう 10句 ≫読む
永山智郎 硝子へ 10句 ≫読む
西川火尖 デモテープ 10句 ≫読む

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