2016-04-10

【句集を読む】小池正博『転校生は蟻まみれ』を読む 山田ゆみ葉

【句集を読む】
小池正博『転校生は蟻まみれ』を読む

山田ゆみ葉


0 鑑賞

「鑑賞は無理です」と脳科学者の茂木健一郎は、人口知能を断言する。「コンピュータが行う言葉の分析は、意味ではなくて、その言葉が文章の中でどう使われているかを統計的に分析するだけ」(『俳句』9月号)であり、「人格は感情と結びついているので、人生経験に基づいたいろいろな〝想い〟は、まだモデル化ができていないし、俳句に現れているような、文学観や世界観、人間観というものは、どうやってデジタル化したらいいかわからないんですよ」(同上)と、鑑賞の難しさを語っている。

鑑賞は、人の数だけある、たぶん。鑑賞の定番なんてものもなくて、それぞれが今持っているものをさらけ出して誠実に読むしかないのだ、きっと。

思えば、鑑賞の前段階の選句基準にも定番はない。

俳句の選句のみならず、川柳の選句も同様である。何も定番はない。考察すらされていない。

選句の大半が、選者の好みである。その好みは、文学観や世界観、人間観に基づくものであろうと推測する。中には、表層の刺激性に飛びつき、「珍し~」「かっわい~」「おもしろ~」などと感嘆するだけの選もあろうけれども。

ということを言い訳にして、川柳句集『転校生は蟻まみれ』(小池正博)を読んでみたい。


1 テクスト論

いつでも作家は、作中の「私」とは別存在であると断っているが、いまだに作中の「私」と作者とを混同する読者は多い。たとえば、又吉直樹の『火花』の感想を読書メーターで読むと、神谷か?徳永か?どちらが又吉自身か?などというやり取りが見られる。でも私は、理想論的な神谷もそこに憧れながらそうはなれない徳永も、又吉の葛藤そのものだろう、と読んだ。お笑い芸人として生きざるをえない自分の中の葛藤を洗いざらい書き上げて対象化するために、あるいはその先の課題を得るために、『火花』が必要だったのだと思う。さらに又吉は、葛藤を通して、人間とは何かを描こうとしていたと思う。

小池正博は、テクスト論を繰り返し述べている。作者と作中の「私」と混同することなく、つまり作品と作家を切り離して、「言葉」に注目して川柳作品自体を読め、と言っている。作者の思いではなく、「出発点は言葉にあるような作句方法と読みである」(『蕩尽の文芸』)と断言し、デノテーションとコノテーションの違いを挙げ、シンボルとして共感できるものを引っ張ってくるコノテーション的「作者の意図や作品の意味が空白であるような川柳」もアリだと言う。

だから、小池の川柳は、読者の理解を拒否しているように見える。どう読まれようとも、どう感じ、どうイメージされようとも、ふっふふと笑い、「好きにして」と言っているかのようだ。

小池は、十重二十重に煙幕を張り巡らす。「テクスト」論も、その用心深さのひとつに見える。


 2 異化

小池の川柳は、あえて難解である。

わかりやすそうな、読み流してしまいそうな句、

  右手と右手つないで登ってゆく

にしても、ただの仲良しの登山を描いた句ではないのだ。考えてみたら、右手と右手をつなげば、一人は逆向きになる。つまり、下山したい一人を力づくで引きずっている景色なのである。怖い川柳である。そんな景色だけをポンと提示し、その先は「好きにして」と言う小池である。

たとえば難解そうな俳句ならば、季語を拠り所にして句を読む。

自分で俳句を書いてみてわかったのは、私の季語は、ただの背景や添え物の千切りキャベツ程度の弱い効果しか持っていないということだった。だが、俳人は、自分と一体化するまで季語を見つめるのだそうだ。そこまで季語に思い入れがあって、自分へ取り込んでこそ、一句が成り立つ。

そんな俳人にとっての季語は、小池にとっては異化された言葉である。

小池の難解な川柳には、あえて異化された言葉が挿入される。「この食材は何?」と問えば、ふっふふと笑って答えない料理人を想像してしまう言葉たち。どんなおそろしい食材を使ってるのかと、読者を怖れおののかす。この異化された言葉さえなければ、ただの読みやすい句なのだが。

シフロスキーは、「日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する《非日常化》の方法が芸術の方法」と考える。その「非日常化」のためにこそ、異化された言葉が顔を出す小池の句なのだろう。

おかげさんで、何度も辞書のお世話になり、ググッてやっと見つけた言葉もあった。そして、その言葉群は、日本の歴史、ヨーロッパの文化、仏教の分野が多い。京都の地名や風物の言葉も、同じように異化の作用を持つ。

だから、断言しよう。この異化された言葉たちこそ、煙幕の陰に安住している小池自身を見つけるつり糸なのだ。無意識の氷山から釣り上げた言葉だからこそ、無意識の小池が存在するのである。


 3 蟻まみれ

本書は、4つの章がある。ただ単に年代順に並べた章とは思えない。なんせ『川柳カード』の編集においても、必ず関連を持たせた見開き2ページなのである。この4つの章立ては何の意味があるのか?というのも、私の独断と偏見を行使して考えてみたい。

まず第Ⅰ章「転校生は蟻まみれ」である。

表題にもなった句を読んでみたい。

  都合よく転校生は蟻まみれ

この句の異化された言葉は、「蟻まみれ」である。あの小ちゃくて黒くて集団行動をする昆虫である(集団行動のように見えて、実は3割はサボっているのだそうだが)蟻がびっしりたかっている。「蟻まみれ」の転校生に新しい友人が寄ってくるとは、とうてい思えない。そんな転校生を「都合よく」とほざいている生徒は、それまでのクラス集団からハブされ、時にはイジメられていたのではないか?だから、「都合よく」という句語から、これで自分からイジメを逸らすことができるだろうという安堵感が見える。自分が解放されるために新たな犠牲者を差し出すのは、世の中によくある景色である。

「転校生は蟻まみれ」は第三者的な視線だが、「都合よく」に作者の主観が垣間見える。けれども、作中主体は作者ではないというのが、テクスト論のキモなので、小池自身のことと読んではいけない。あくまで自分はその外側あるいは高みにいる、それが小池の立ち位置である。

同じような小池の立ち位置を感じた句がある。

  湿原で中間小説書き飛ばす

中間小説は、純文学と大衆小説の中間にあるどっちつかずの小説だ。それを「湿原」、つまりじめじめ湿った畳に置かれた和机の前に坐って「書き飛ばす」作家(芥川賞作家だけれども西村賢太が浮かぶ)は、きっと不遇。自分の川柳も所詮そんな中間小説みたいなものだという自嘲の句と読んではいけない。小池は、ここでも外側あるいは高みに立って、批判的な視線を投げかけているのだ。

  塔に籠って紙ヒコーキ主義である

これも世間的には不遇な人物が浮かぶ。『ソドムの百二十日』(マルキ・ド・サド)は、バスチーユ監獄の中だったからこそ、読者の不在を前提に書き進められたという。読者不在だからこそ、書かれたものはより純化し、独りよがりに陥りやすくなるだろう。そんな読者不在の状況で、(句の書かれた?)紙ヒコーキを飛ばす作中主体。だが、その紙ヒコーキへ向けられる小池の視線は、決して肯定などしていない。カタカナ表記の「ヒコーキ」が揶揄的視線をいっそう強める。

つまり第一章は、読者に対して自己紹介的に、自分の立ち位置はここ、と親切に教えてくれている章なのではないか?小池の立ち位置を確かめながら読めば、他の句も取りつくシマも見つかるはず。難解な句語にケムに巻かれぬように、強調あるいは象徴として読めば、イメージは浮かぶ。

それにしても、読者を試すかのように辞書とグーグルが必要な言葉が圧倒的に多い章である。

匈奴、神風、コロボックル、上皇、草競馬、院政、北山、芥川、佐馬頭、本能寺、御用邸、ソグド人、蠱術、茶坊主、五秘密、餓鬼、六波羅、紫衣、熱月、煉獄、戻り橋、モアイ像、アルパカ、蘭鋳、ゴムの樹、禊、水呑虎、壇の浦、黒執事、暴力装置、清涼殿、模擬サンゴ、竪穴式住居、大君、環濠、輪王、鳥形霊、通り魔、前九年後三年、萩の乱、随身、青い鮫、島流し・・・などなど、かなり意味性の強い、方向性の強い句語が多用された章である。言葉に飛びつき、「おもしろ~」という読者と「これ見よがし。つまらん」という読者に大別される章であろう。

小池自身は、固有名詞について、ブログ『週刊川柳時評』(2016年2月19日号)で次のように書いている。

「印象的だったのは広瀬ちえみの選評である。
「川柳は現在行き交っていることばに左右されていると思った」
「固有名詞を使うときはその言葉自体がすでに抱えている背景を一句のなかで料理しなければならないことを強く意識するべきだと私は思う」
「俳句には季語(時間の積み重ねがある)があるが、それと固有名詞とはちがう。川柳で使われる固有名詞はどちらかといえば作者の生きている現在を呼吸している。しかし一句のなかにピタリと嵌まったときは大きな力を持つのが固有名詞である。川柳におけることばの流通を良くも悪くも考えさせられた」
俳句や川柳における「作者」「読者」「ことば」の問題は、実作と連動するさまざまな局面で深められてゆきつつある。」
ここでは、一般論で締め括っておられるが、広瀬ちえみの選評がイタイ句も『転校生は蟻まみれ』に混じっているように思う。

そんな中にさりげなく紛れ込ませた句、

  明るさは退却戦のせいだろう
  頷いてここは確かに壇の浦
  反復はもうしなくてもいいのだよ

あたりに、小池の見ている世界や現実、それに対して自分はどこに立っているのか、どう処するか、という現状認識らしきものがあると見たっ!


 4  ニスを塗る

  カワセミが出るまでニスを塗り続ける

「出るまで」と言われると、どうしてもサイコロを振っている作中主体が見えてしまう。たとえば「6が出たら上がり」という双六のサイコロである。偶然性あるいは確率に賭けるなど、そんな遊戯性を愉しむ小池とは思えないので、ここは素直に「結果が出るまで」と読むべきか?

ともあれ「川の宝石」とも呼ばれる美しい鳥カワセミが、双六の上がりであり、究極の結果なのだ。そのカワセミを求めてサイコロならぬ、ニスを塗る。しかも「塗る」にとどまらず、しつこく「塗り続ける」のだ。わざと字余りの「塗り続ける」の6音が、いつまでも繰り返される空しい作業を強調する。小池の句は、ほぼ575定型を守っているので、これはあえての字余りだろう。

しつこく塗り続けねばならないほど、なかなか手に入らないカワセミは、目ざすべき「理想」、こうありたい「願望」の比喩と読んだ。さらに「ニスを塗り続け」たところで、理想へ至るのは難しいし、叶うことの少ない願望なので、その徒労や虚しさも含めて読み取るべきだろう。

この第Ⅱ章「ニスを塗る」はおそらく、ないものねだりの「理想」や「願望」の諸相を描こう、という作者の意図があるのではないか?

「理想」「願望」っぽい句語の入った句をいくつか挙げてみよう。

  権力はウパニシャッドの師のあたり
  君がよければ川のはなしをはじめよう

  とある日のコネティカットの焼き魚
  天壇にのぼったという牛の骨
  江戸紫探しあぐねて水ぶとり

  島宇宙から島宇宙へと枢機卿
  玉虫飛んで二人の幸福度
  馬の国に行ってみたくて幻貯金

しかしどの句も、「理想」「願望」をピュアに語っているわけではない。「師のあたり」「君がよければ」などクールな視線だったり、「焼き魚」「牛の骨」「水ぶとり」のようにずり落としだったり、「島宇宙」「幸福度」「幻貯金」など嫌味っぽかったりしているので、「理想」「願望」の実現をマジに望んでいるとは思えない。句の裏側には、やりきれない想いが貼りついている。

これら以外の句も、「理想」「願望」へ至るまでの失敗やら挫折やらを書いている第Ⅱ章だと思う。


5 美の中佐

変節をしたのはきっと美の中佐

「変節をしたのは中佐」と断言すれば、新聞記事的な世界(自衛隊員の告発とか)だが、「美の」が入ったばかりに異化を深める。「美の中佐」と言われると、BLに出てきそうなイケメンでしなやかな肢体の軍服姿をイメージする。熊のような武骨な軍人など、決して想像しない。

「誰が変節したんだ!」と熊の大佐が大声で詰問するのを、ヒラの兵士たちは直立不動を保ちながら首をすくめている。ヒラ兵士の一人である作中主体は、心ひそかに「きっと美の中佐だ」と推測し、熊の大佐の横に並んでいる美の中佐の白々しい表情を見つめている。なんてまあ息詰まる場面だろう。

「変節」の対極にあるのは「一貫」だ。一貫した人生を送る人は、おそらく稀。
「お国のため」から「民主主義」へ変節した文学者・俳人・川柳人の戦後の話もよく聞く。これからの日本が「お国のため」へ逆行することも予想されうる昨今、またも変節が問われるかもしれない。また、「踏み絵」ちゅうコワイもんが、「変節」を強いた歴史もある。いえいえ。暮らしの中でも、小さな「変節」はあちこちに潜んでいる。軟弱な私は、あっさりと変節するだろう。「美のために」などと言い訳しながら、『沈黙』(遠藤周作)のキチジローのように愚かに醜く、人間的に。

この第Ⅲ章「美の中佐」は、「変節」「転換」「転向」の諸相を描いているのではないか?それを匂わせる句は、次の通り。

  東雲に空室ありと指文字
  美しい樹のそばでした蜜蜂密談
  聖域は造成されて雉香炉
  分身が死んで放浪はじまった
  鳥羽絵へと叔母は出発してしまう
  整形が済み賑やかな野菜市
  百アール蘭植えてから疾走する
  呪術破れて三千の鴉現れる
  陰謀を雨に語って返り忠
  ネクタイが楽しみな今日のダミー
  頷いた人からパルチザンになる

それに対して「一貫」を読み取れる句は、「つつがなく」的なイメージ。

  佃煮はさようさようと繰り返す
  吸って吐いて常緑の権力者
  一年を孔雀選びに余念なし

小池の句を読みながら、伊坂幸太郎の「本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ」(『重力ピエロ』)という言葉を思い出す。「好きに読んで。ふっふふ」なんて言いながら、小池の変節は、緊張感の漂う場面をさりげなく提示しているからだ。句語の見かけのゴージャスさやら面白さやらに目をくらまされないよう気をつける必要がある。そして、変節ちゅうもんのむごさを読み取らなければならない。

この章で楽しいのは、一句まるごと会話体の句だ。一句まるごと会話体の俳句は、「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」(子規)が浮かぶ。短歌では、穂村弘など口語会話体の歌がけっこうある。

  こんなときムササビはやめてください
  稽古はやめだ君が火星を狂わせる
  龍の卵でしたね少し温かく
  客僧よ鳩の視線はやめたまえ
  人形ですか蓮の実ですか
  蘭亭の葉のかたちなど知らないよ
  急に言われてもナイルブルーありません
  舞えとおっしゃるのは低い山ですか

誰か(読者を含む)に向けて語りかける句だから、つい反応して、「すんません」と謝ったり「違います」と反論したり「その通り」と同意したり「それは何?」と聞き返したりしてしまう。

一句まるごと会話体は、『大阪のかたち』(久保田紺)など多くの川柳人が楽しんでいる。一句まるごと会話体の句こそ、読者を惹きつける川柳の強味かもしれない。

踏切を渡るんだよ大和人

歴史好きの小池なので、最初は「大和人」を「やまとびと」と読んだ。だが、これは「ヤマトンチュー」とルビを振るべきなのではないか? 「踏切を渡るんだよ」と言っている作中主体は、もちろんウチナンチューである。ヤマトンチューよ、交通ルールも倫理も人情もしっかり思い出しなはれと言われている気がする。


6 公家式

第Ⅳ章「公家式」では、まず『ねじ式』(つげ義春)が浮かんだ。

70年代の『ガロ』に連載されていた漫画で、赤塚不二夫がパロったり、映画にもなったりして、かなり評価が高い作品である。特に「メメクラゲ」(架空のクラゲ)が、中学生も愛読する西尾維新の『物語シリーズ』(ライトノベル)の登場人物である忍野メメの名前の由来と知って、改めてその反響の大きさに驚いたことがある。

メメクラゲに刺された腕を治療したいのに、「眼医者ばかり」が並んだ村(あとで産婦人科も出てくるが)をさまようコマが続く。なんとも薄気味悪い眼が次々と並ぶ通りは、何か言いたげだ。

「五感」(視覚・聴覚・臭覚・触覚・味覚)と言われるが、他者を意識するとき、視覚を通していることが多いと思う。短詩系でも、視覚を通した作品が圧倒的に多い。

とりわけ「見られる」場合、つまり他者の視線を意識することは、換言すれば、自己を第三者として客観視してとらえ直すことでもある。

たとえば『紫式部日記』を読むと、紫式部は他者をよく観察しているが、また逆に過剰に他者の視線を意識している。『世界音痴』(穂村弘)や『第2図書係補佐』(又吉直樹)でも、「誰もそんなもん、見てへん。思うてへん」と励ましてやりたいほどに過剰な自意識を持て余している。この過剰な自意識(見る・見られる)というのは、緻密な心理描写に(俳句の写生にも)生かされたりするので、表現者に必要な資質かもしれない。

ということで、まず「視線」あるいは「見る」句を挙げる。

  噂の二人は蛙の心見ています
  夢を見ているマカールという男
  青春通りで四千年前の月を見ている
  打開するにはオペラを見る必要が
  見上げれば空に背骨がないことも
  言い寄られ二つの口を見せておく

また、直接的には言ってはいないが、「見る」「視線」を感じる句も多い。

  猪避けのフェンス開く高天原
  曼荼羅を虫が渡ってゆく速度
  朝逢って昼は綺麗になっている
  木漏れ日に混じって劣化ウラン弾
  水田に逆さ睫毛が映っている
  カクテルに映るからには上意討ち
  峠から扇を振れば駆けつけろ
  合鍵渡す大陸浪人の夢
  性器から顔を出す蝗群

などなどの句を書き写しているうちに気づいた。「見られる」という自意識の句がほとんどないのである。「見られる」句は、次の3句ほど。

  晩年を猫の目をしたものが飛ぶ
  春キャベツ視線恐怖をやわらげて
  柄付眼鏡の視界の中で墜ちてゆく

小池の作中主体は、たいてい「見る」側なのだ。その視線の先にあるのは、どうにもならない社会へのやりきれなさや揶揄や鬱屈だ。

そして、締めくくる句集最後の一句は、「凝視」である。

  公家式の二行に詰めを誤るな

公家こそ、歴史の流れの中で行動せず、「見る」ことに徹した存在ではないか?暮らしの風雅を友として、ときに湧き上がる憤懣を抑え込んできた存在とも言える。

作中主体は、その公家の方式で生きてゆくと言う。しかも用心深く。「詰め」も、一行だけでは安心できずに、二行に渡って目を凝らす。つまり、集中して「詰め」を確かめている。


7 まとめ

川柳の読みには、即効性興趣と遅効性興趣がある。

句会や大会で耳から入る句に、思わず吹き出したり、ええ~っと驚いたりするのが、即効性興趣である。それから、自分を重ね合わせて共感したり、新たな視点で啓発されたりする場合もある。

遅効性興趣は、『「罪と罰」を読まない』の後書きで、三浦しをんが書いている「するめ」である。
「小説に限らず、創作物はなんでもそうだと思いますが、「読む」(あるいは「見る」「聞く」)という行為を終え、作品が心のなかに入ってきてからが本番というか、するめのようにいつまでも嚙んで楽しめる。一冊の本を読むという行いは、ある意味では、その人が死ぬまで終わることのない行いだとも言えると思うのです。」
中学生(高校生だったかな?)の坪内捻典が、屋根の上で好きな句や歌を愛誦していたエピソードを思い出す。この愛誦こそ、三浦しをんの言う「するめ」である。「余韻を楽しんだり」「想像したり」「ふとした拍子に細部がよみがえり、何度も何度も脳内で反芻する」(三浦しをん・前掲書)のも、遅効性興趣なのだ。

小説に比べれば短詩系は、ほんの一瞬を捉えるだけの物語ではあるが、ふとした折に、不意によみがえる句は、確かにある。私に断りもナシに何度も脳内を支配する句は、確かにある。

榊陽子のブログ『川柳もと暗し』では、西原天気の俳句を取り上げて、次のように語っている
「わたしは記憶力が弱い。だからどんなにいいなと思った句でも一字一句正確に暗記できないという無能さを差し引いても、ある語句だけで、あの人のあんな句があった、と思い出のようによみがえってくるということはすごいことなんじゃないかと思うのだ。」
「これも17音をソラで言えないのだけど、ゴムの木と聞くと思い出す句。
ゴムの木が運ばれている情景が焼き付いてしまった。あの、昭和の時代、うちにもあったゴムの木。大きくて分厚くて、最近のおしゃれな観葉植物が増えてきた中、気づけばそれは洗練されない姿のまま、家庭用としてはおそらく人気のない部類に入るであろうゴムの木。それが二科展という晴れの舞台に運び込まれているのである。
ゴムの木への愛着などまったくないのに、感慨深いのである。」
榊陽子の言うところの「思い出のようによみがえってくる」「ゴムの木と聞くと思い出す句」が、三浦しをんの「するめ」である。

さて私にとって、『転校生は蟻まみれ』は、即効性興趣と遅効性興趣を併せ持つ、イマドキ稀な川柳句集だった。

読者は、あたかも見せびらかす如く配置された、異化された句語に引き寄せられる。まず感じるのは、即効性興趣である。

でも私は、即効性興趣だけで終わることができなかった。異化された句語たちも含めて、読み流すことができず、数日、舌の上で転がしたり脳みそをかき混ぜたりして考え続けた。読み応えがあって立ち止まらざるを得ない、しっかり根を持っている句たちと感じてしまった。

そのうちにじわじわ効いてきて、やがて遅効性興趣を発揮する日が来ることだろう。

小池の川柳がしっかり持っている根とは何か?

意識する・しないに関わらず、誰もが生き難さを感じながらの暮らしである。

「こんな家の子、止めたいわ」と言ったのは、小2。カーラジオの子ども相談室を聞きながら、「誰にでも悩みはあります」と言い返したのは3歳半。こんな小さな子どもたちでも、生き難さを感じている。

人間は、さまざまな重層的な生き難さに取り囲まれている。

必ず死ななければならない存在として設定されていること、生物としての本能や欲望に規定されていること、コツコツ積み上げても崩れる時は一瞬という諸関係に取り囲まれていること、さらに組織と個人という背反する社会への違和感、だんだんと物が言いにくくなる気配が濃くなる現代社会、愚かさと醜さを何度も繰り返す歴史、自分は何者なのかという答えの出ない根源的な問いなどなど。

だからこそ、世の中は理不尽と不合理に満ち満ちているからこそ、思い通りにはならない日々を生きなければならないからこそ、人間は、宗教や哲学や心理学や社会学や政治学や文学を求める。

小池には、そんな生き難さの諸相が見えすぎてしまう眼があり、そんな鬱屈を一句として書き留めざるを得ない。それが小池の川柳の根ではないか?それを揶揄や諦観や詰屈をまじえながら、一句まるごと会話体を使いながら、テクストとして提示したのが、『転校生は蟻まみれ』句集なのではないか?

だが川柳は「蕩尽の文芸」なので、高度消費社会を体現するかのように、ふわふわの綿菓子や、どこも同じの金太郎飴や、激辛だけがウリのラーメンや、すぐ味のしなくなるガムのような即効性興趣だけの句が次々と流れ消え去ってゆく現状である。

そんな状況もすべて心得顔で小池は、「好きに読んで」と言いながら「いずれ思い当たる時が来るから」と、ふっふふと忍び笑いを漏らす。遅効性興趣を盛り込んでおきながら、即効性興趣だけの素振りを見せ続ける、そんな「喰えない男」が、小池だ。





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