2016-04-10

〔その後のハイクふぃくしょん〕ジャム 中嶋憲武

〔その後のハイクふぃくしょん〕
ジャム

中嶋憲武


この部屋は、一体何度めの部屋になるのだろうか。おそらく七、八回めになるかもしれない。

引っ越すたびに部屋は狭くなっていった。狭くなるたびに、いろいろなものを捨ててきた。母の大事にしていた仏手柑の鉢植えは、煩わしく思いながらも、なんとか捨てずに私と共に引っ越しを重ねてきたけれど、このロフト付き十二平米の独房のようなワンルームへ越して来るにあたって、私はついに思い切った。仏手柑を棄てることにしたのだ。

長い指を何本も持ったような、黄色の果実の成る鉢植えは、いい香りもするし、往々にして私の慰めになってきた。だが私は棄ててしまった。陶製の鉢植えは、砕いて新聞紙に包み、不燃ごみとして出し、仏手柑は可燃ごみとして出す気にはなれず、夜中にスコップとバケツを持って、近所の緑地公園へ行って植えてきた。夜中の公園で、スコップで穴を掘っている姿を人に見られたら充分に怪しい。それを考えると、朝方の方がよかったのかもしれないが、管理責任者へ通報でもされたら面倒だ。丑の刻参りよろしく午前二時頃、のこのこと出かけて行った。

植え終わって、バケツで充分に水をやり眺めてみると、夜露の降りる空気の中で、ことのほか美しく見えた。今更ながら棄てるのは少し惜しい気もしたが、とにかく人に見られたくなかったので、その場を立ち去った。

引っ越してきて、五日ほど経ったある朝、目が覚めてみると、私の隣に女が寝ている。夕べは町へ飲みに出かけて、二軒目の「紅雀」というスナックで、すっかり酔っ払ってしまい、何がおかしかったのか、呵々大笑した事までは覚えている。しかしその後の記憶が、まったくない。目の前の女は、すうすうと気持ちよさそうな寝息を立てている。
 
上唇が薄く、下唇がぽってりと厚い。やや鷲鼻で鼻腔が狭い。三日月型の薄い眉に対して、長く濃い睫毛がアンバランスな魅力を湛えている。眉毛の毛並みを見つめていると、彼女は目を開いた。そしてなんと微笑んだのだ。
「あんた、どちら様?」私は聞いてみた。
「やあだ、リョーコよ」
「リョーコ」そう言われても、私にはとんと覚えがないのだった。むかしよく通っていたヘルスの木綿ちゃんに何処となく似ている。私は木綿ちゃんをコットンちゃんと呼んでいたので、リョーコと名乗る女性にコットンちゃんと呼んでもいいかと尋ねてみた。
「何それ?そう呼びたいんなら、呼んでもいいよ」鷹揚だ。わりと気のいいタイプなのかもしれない。
「コットンちゃん、俺、まったく覚えてねえんだけど、あんたと何処で会ったのかな」
「あなた、かなり酔っていたからね。でも夕べは、とってもやさしかったよ。ウフッ、ウフウフ」コットンちゃんは、私の問いには答えず、甘えたような、人懐っこい笑い方をした。そして何か思い出したように、両手で顔を覆った。細くて長いしなやかそうな指で。

年の頃は三十ばかりだろうか。物取りといった事も考えないではなかったが、何も取る物などないし、通帳だって大した額が入ってる訳でもないのだ。騙されてもいいような気分になっていた。
「俺があんたと慇懃を通じでもしたのかね」
「本当に何も覚えてないのね」
そう言いながら私の陽物を軽く握った。

コットンちゃんは、私の家に居着いてしまった。家に帰れば、コットンちゃんがいると思うと、気持ちの張りのようなものが顔を覗かせて、以前の私とはすっかり変っている事を自覚しない訳には行かなかった。

コットンちゃんの作る料理は、何が出て来ても頗る美味で、朝食のトーストに塗る自家製というマーマレードジャムは、取り分け美味だった。
「これ、とってもフルーティで、うまいね」
「いっぱい作ってあるから、たくさん食べてね」
私は、ジャムをパンに塗るだけでなく、紅茶に入れて飲んだり、クラッカーに載せて食べたりしたので、二週間ほどでジャムは無くなってしまった。
「もう無くなっちゃったよ」
「また作らなきゃね」
「俺も作るの手伝おうか」
「ありがと。でも一人で大丈夫だから」
 
このマーマレードジャムは、一体どの柑橘を使っているのか、皆目分からない。甘夏か八朔かぽんかんか。いつもあれだけ大量に作っているのに、ガスコンロが一つっきりの狭い流し台にも、ごみ箱にも、その形跡がまるで無かった。そういえば、コットンちゃんがジャムを作っているところを見た事が無い。朝、起きると出来ているといった塩梅だったからだ。

まあ、それはそれとして、コットンちゃんといつまでも同居という訳にも行かないだろう。大家さんに見つかる前に、なんとかしなければなるまい。

私が仕事に出たあと、コットンちゃんも仕事に出ているようだった。そして私の帰る前には帰っているのだから、出入りが頻繁になればなるほど、人目にはつきやすくなる。このままではまずい。灯りのついた暖かい部屋に帰る事が出来るという幸せを、なんとしても守らねば。それにコットンちゃんが来てから、部屋はいい匂いがするようになった。守るのだ。
「何、考えてるの?」
「今日の仕事の段取りだよ」誤摩化した。
「何か考え事してる表情もいいね。ウフッウフウフ」
コットンちゃんに、この笑い方をされると、私は天にも昇るような、たまらない気持ちになった。

ある深夜。ロフトの敷きっ放しの布団で目が覚めた。隣に寝ている筈のコットンちゃんの姿が見えない。下のキッチンで、何か物音がする。私は、気軽に声をかけられないような気持ちになった。ロフトの梯子へ身を逆様に乗り出して、キッチンを窺ってみると、半開きのキッチンのドアの隙間、橙色の電球の灯りの下に、コットンちゃんが何かを作っていた。可愛いと思ったその直後、何処かが変だと感じた。コットンちゃんの手首から先が無い。手首のあった部分で鍋を支えて、片方の手首のあった部分で砂糖を加えている。手首のあった部分をよく見ると、小さな触手のようなものが生えてきていて、湿り気のある光沢を放ちながら、器用にスプーンを操っている。

鍋の中身は、コットンちゃんの手首だ。コットンちゃんは自分の手首を、砂糖を加えながら煮込んでいるのだ。いい香りがしている。これは毎朝食べているジャムの香りであるし、コットンちゃんが住むようになってからの部屋の匂いでもある。あの美味しいジャムは、コットンちゃんの手首を煮込んだものだったのか。すんなりと納得した。すんなり納得出来た訳は、これが夢であるからだ。限りなく現実に近い夢。夢の世界では、なんでも納得する事が出来る。夢だ。夢を見ているのだ。

翌朝のコットンちゃんの様子は、いつもと変っていなかった。いつものジャムとトースト、コーヒー。両手もちゃんとある。やはり昨夜見た事は夢であったのだ。
「今朝のジャムは作り立てだから、美味しいでしょう」
「作り立てなんだ」
「見てたくせに」
バレていたのか。するとやはりうつつの事であったのか。こんな狭い部屋だ。気配を感じない方がおかしい。
「このジャムはコットンちゃんの……」
「そうなの。私の手首のジャムよ。手首は二時間もすれば再生してくるの」
「どういう事なんだか……」
「私はね、仏手柑の精なの」
「ですよね」冷静になろうとしたあまり、変な答え方をしてしまった。
「ウフッウフウフウフ」最早この笑い方を積極的に支持する気にはなれず、空恐ろしいような感じがした。
「今までお世話になりました」それがコットンちゃんの最後の言葉だった。その朝以来、しばらくコットンちゃんの姿を見る事は無かった。出て行ってしまったのだ。

私はいつも同じ風景ばかり見ている。ここから動く事が出来ない。言葉を発する事は出来ないが、思考する事は出来る。
ある日、公園のベンチに座って、新聞を読んでいた。読み終わって立とうとすると、立つ事が出来ない。足に根が生えてしまっていた。これは比喩なんかでは無い。実際に現実に足に根が生えてしまっていて、地にしっかりと根付いてしまっていたのだ。
数時間ののち、足元から植物と化してゆき、私は仏手柑の木になっていた。管理者によって植え替えられ、現在の場所に立っているが、移動出来たのはその時だけだ。どれだけ時が経ったのか分からない。

コットンちゃんが来た事があった。あなたとはうまく行くと思ってたのに。そう言って、彼女は立ち去った。ああ、歩きたい。歩いて彼女のあとを追いたい。痛切にそう思った。
雀や四十雀、目白などがたまに来てくれるのが、心の支えだ。これから何十年、何百年、この場所に立っているのだろうか。

仏手柑に仏手柑触れて娘かな 花尻万博 『週刊俳句』第406号


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