2016-05-01

自由律俳句を読む 135 「鉄塊」を読む〔21〕 畠働猫

自由律俳句を読む 135
「鉄塊」を読む21

畠 働猫


ゴールデンウィークの前半が終わります。
私は暦通りの休日。3連休が2回ある感じですね。
車検に出している車が、修理のため連休明けまで帰って来ないため、遠出も絶望的なゴールデンである。
シャーシが錆びてぼろぼろになってしまっていて、すべて交換すると85万円という見積もりが出た。しかし同じ修理工場の中の古参の方が補強修理で20万くらいでやってくれることになり、お願いした次第。
時間がかかるのはやむを得ない。
もっとも北海道は天候不順で、今この時も雪が降り風が吹き荒れているので、もともと出かけるのは無理だったのかもしれない。
などと思いつつ猫とごろごろしているばかりである。



今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十二回(20143月)から。
文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第二十二回(20143月)より

見限らない事が償い 中筋祖啓
△親であろうか。不孝を尽くしてきたのだろう。しかし親もいつか老い、介護が必要になった。かつての償いとしてその世話をするが、徐々に恍惚となっていく親を見限らずにいるためには、自らに何らかの枷をかけなくてはならない。それは愛ではなく、罪の意識なのかもしれない。(働猫)

私は母親の介護をしている。
しかし、小さなころから取り立てて「母親」に対して愛情を感じたことがない。
田舎の特性であったものか、自分には「母親」代わりになってくれる人が複数いた。母親は仕事などで家を空けることが多かったが、幼いころから誰か彼かが自分の面倒を見てくれていた。
それはそれで幸福であったかもしれないが、母親に対する愛着はうまく形成されなかったように思う。
その点で兄とは対照的であり、兄と母とは愛憎を募らせ合う関係であるように見えていた。母は兄には過干渉であったし、兄が家を出て帰らなくなったのも愛情と憎悪の両方の表れであろうなあなどと感じている。
自分にとって母は常に迷惑な存在だった。
浪費癖があり、いつも借金を抱えていて、よく居所がわからなくなった。
自殺した父。不安定な兄。そして母。
その誰をもすべて、自分はうまく愛せていないのではないだろうかと思う。
ただその「家族」に対して責任だけを感じている。
「家族」以外に対しては、自分でも愛情深い方だと思う。家族を愛せない反動かもしれない。家族だけを愛せないのだ。
母が心臓の手術中に脳梗塞を起こし、その後半身不随と失語となったときも、ごく自然にその介護は自分の役割になった。
愛情ではない。
むしろ愛せないことの償いとして自分は責任を感じているのだと思う。
この句は、自分のそうした境遇を深くえぐる。


あえて飛び乗れるカラス 中筋祖啓
△走っている車のボンネットとか、鳥よけに置いた案山子だとか。「あえて」行うところにカラスの頭のよさが表れている。(働猫)

カラスは本当に頭がいい。私たちはあれを害鳥扱いするのをやめて何か有効利用することを考えるべきではないか。
ドローンを鷹で追うような取り組みもあるのだから。


少しだけかすらせてから引き寄せる 中筋祖啓
△何かのゲームであろうか。(働猫)

往年の名ゲーム「イース」には「半キャラずらし」という半ば攻略に必須の裏技があったが、そういうことなのかしらん。
または「孫子」のような兵法であるのかもしれない。なにかしらの攻略法なのだろう。


嘲笑の響く夕暮れの美容室 藤井雪兎
○自らが所属できない集団や場所に対する不安を表しているのだろう。鬱を患えば子供の声が恐ろしくなるように、その時の精神状態によって、日常の至るところに自らを攻撃する恐怖は潜む。「夕暮れの美容室」の象徴するものは、女性であろうか、そばにいてくれない母親であろうか。(働猫)

この回の雪兎の投句には、その闇の部分が垣間見られる。
逢魔が時に潜む、原初の、あるいは幼児期の恐怖がこの句にはあるように思う。


人混み抜けて指が十本ある 藤井雪兎
△対人恐怖や集団恐怖を表現しているのかもしれないが、あまりにも放哉である。五体満足に人混みを抜けることができないのではないか、そんな不安を表現するのであれば、指が十本以外の発見を詠むべきであろう。(働猫)

抑うつ状態にあるとこうした息苦しさを覚えるものである。
私たちはこの国でどんどん疲弊し、それでも明日を信じて健気に生きているというのに、この国はどんどん貧しくなっていく。これはおそろしいことだ。
確かなものにすがるように十本あるはずの指を確認する。
よかった。まだあるようだ。


いつもの扉開け鍵の光る 藤井雪兎
△いつもの扉であってもその先に広がる世界はまったく違うのであろう。鍵の光は兆しであろう。今日は何を見るのか。世界は発見に満ちているはずだ。(働猫)

せめて発見があれば。そうしたわずかな期待を、上記の句評では込めた。
「いつもの扉」には日常に倦んだ様子が見て取れるからだ。
だからこそ「光る」が効果的である。
兆しである。
ゴールデンウィークの後半には何かいいことあったらいいなあ。


春の別れに煙草が震える 風呂山洋三
△平静を装いたいのだろう。しかし煙草を持つ指は細かく震え、別れの苦しみを露わにしてしまう。そしてその喪失の大きさに自分自身も気づいてしまうのだ。(働猫)

喫煙者ではないため、煙草を小道具として使われると、それだけで自分には詠めない句だなあと感じる。
微かな震え、瞬間を切り取ったよい句だと思う。


夜の公園小さな火を灯す 風呂山洋三
○放火魔の句ともとれるが、そうは読まないことにする。火は煙草の火であろうか。眠れずに歩いているのだろう。昼間は子供達の声で賑わう公園も今は人気がなくどこか物悲しい。まるで地球上に自分一人しかいなくなってしまったかのような錯覚に陥り、自らの存在を示すために(あるいは確かめるために)火をつけたのだろう。ぽつりと点いた火は小さく、世界に自分が影響できる大きさを示しているようでもあっただろう。(働猫)

良句と思う。
すでに当時の句評で述べている通りである。


缶コーヒー握る夜があったかい 風呂山洋三
△たぶん、缶コーヒーはもらったものなのだろう。身体が感じるあたたかさには精神状態が大きく影響するものだ。ちなみに北海道において、缶コーヒーで暖をとろうとすれば、春先に雪の下から発見されることになる。(働猫)

北海道の恐ろしさは再三伝えてきたがすべて真実である。


猫の墓にできていたシーソー 十月水名
△実家の庭であろうか。小さなころともに暮らした猫を埋めた墓。久しぶりに帰ってみれば、その場所には、兄の子供のために据えられたシーソーがあった。諸行無常を感じながら、兄に流れた時間と自分に流れた時間を比べているのかもしれない。(働猫)

この回の十月の投句は、これまで、そして現在のメソッドとは趣を異にしているように思う。
意味を意味のまま読める。
そして極めて抒情的である。


あの猫さっきもおったでおっちゃん 十月水名
◎「あ(a)の猫さ(sa)っきもお(o)ったでお(o)っちゃん」偶然であるが、韻の踏み方が自句の「た(ta)どりついた羽(ha)蟻を看(mi)取るリ(li)ノリウム」と同じであったので、すぐに意識的な配置と判断できた。内容もほのぼのした情景が想像できてとてもいい。通りに面した床几に座っているのだろうか。それとも公園のベンチか。猫好きなおっちゃんとそれほど猫好きでもない作者との心の交流が微笑ましく描かれている。(働猫)

当時特選に取った。
微笑ましい景である。


花びら埋めるたぶん最後のひとり 十月水名
△抒情的ではあるが、実際にはよくわからない場面だ。一生懸命考えてみる。ダムに沈むことが決まった村。村にある分校では、代々伝えられてきたおまじないがあった。花壇の花びらを拾い、校庭の大きな欅の根元に埋めると、願いが叶うのだ。分校に通う小学生は、もう健一と美智子だけになってしまった。ついに健一の家も引っ越すことが決まった。美智子は再会を願って花壇の花びらを埋める。健一の家族は九州に行くのだという。美智子は北海道へ行くことが決まっていた。幼い二人の恋が感動の結末を迎える。「花びら埋めるたぶん最後のひとり」来春公開予定。(働猫)

我ながら全く見たいと思えない映画だ。


猫殴るお前弱ってきた春寒 小笠原玉虫
DV男(女)もようやく弱ってきたのか。猫の呪いであろう。(働猫)

とりあえず季語を入れた。そんな感じがしてしまう。
「猫殴る」ストーリーと「春寒」のストーリーが共鳴しない。
猫殴る者にはバステト神の呪いあれ。


店長お前とは話しとうない昼飯 小笠原玉虫
○「あの猫」の句もそうだが、口語を追求していくとこうした方言にも可能性は広がっているのだろうと思う。北海道には方言がないので少しうらやましく思うべさ。バイト先の人間模様であろうか。自分もかつてステーキヴィクトリアでバイトしていたころのことを思い出した。昼夜にまかないをとることができたのだが、嫌われ者の店長はいつもカレーで5分くらいでかきこんですぐに仕事に戻っていた。仕事好きだっただけではあるまい。嫌われるということは相当なストレスなのだ。作者にはもう少し大人になって、憐憫の心をもって店長に接してもらいたいとも思う。(働猫)

あったなあ。ヴィクトリアのこと。
家族のことは上の方で書いたが、同様に「嫌われ者」に対してもつい自分は責任を感じながらつきあってしまう傾向がある。この店長にもそんな感じで接していたなあ。
そんなことをまた思いだした。


遺されて冴え返る星空をみている 小笠原玉虫
△大切な人を亡くした夜だろうか。よく生きた人なのだろう。悲しみだけではなく、どこかさわやかな見送りとなったことを感じさせる。(働猫)

少し美しすぎるというか、整い過ぎているようにも思う。
映画やドラマのシーンのような虚構性を感じてしまう。
実際には、茫然としていたり、泣き腫らした目が開かなかったりで「星空」の美しさには目が向かないのではないか。
その悲しみを句に昇華しようという修羅の心ではなく、そこから目をそらし、他人事として詠んだように見えてしまう。


夕暮れ遠く子らの駆ける 馬場古戸暢
△幸福な光景を遠い世界のものとして見ている。見えない壁があるように、そちらへは行けない寂しさも表現されているのだろう。(働猫)

ガラスの天井、あるいはショウウィンドウのように、見えているのに手が届かない。そんな幸福の景のように感じた。
それは私自身の問題なのかもしれないが、古戸暢の句にはしばしば同様の匂いを感じてしまう。


紅梅も白梅も満月 馬場古戸暢
△月夜梅を見ながら歩いているのだろう。酒が入っているように感じる。きちんと家に帰れたのならよいが。ちなみに北海道では梅は桜のあとに咲きます。(働猫)

札幌でも今週桜が咲いたが、そのあと再び降った雪や風でどうなってしまったことか。梅見酒もこんな夜では遭難しかねないな。


今日を終えるココアぬくい 馬場古戸暢
△大変な一日であったのだろう。ナカトミビルを占拠したテロリストグループを壊滅したか、ダレス国際空港で飛行機の墜落を阻止したか。ゆっくりと休んでほしい。(働猫)

「ダイ・ハード」や「マトリックス」を初めて見たときの興奮を今でもおぼえている。それまではアクション映画をどこか下に見ていて、文学的で抒情的なものを上位に考えていた。非常に中二的である。
「ダイ・ハード」におけるブルース・ウィリスの良さは、そこらにいそうなおっさんが、さまざまなものを利用して活躍するところであり、それをさらに洗練させたのが「トランスポーター」のジェイソン・ステイサムだろう。
日常で疲れがたまっていると、難解な映画なんて見ていられないものだ。
ハッピーエンドでスカッと爽快。ココアを飲んで眠るのがよい。



*     *     *



以下三句がこの回の私の投句。
噛むごとに夜は白む 畠働猫
たどりついた羽蟻を看取るリノリウム 畠働猫
別々のベッドから月見えて寝る 畠働猫
「噛むごとに~」はこの回の最高得点句となった。
しかし自分では色っぽい句のつもりで作ったのだが、鉄塊の連中ときたら、あたりめ、ガム、白米などを感想で挙げており潤いがないなあと感じた。



猫の句がなんだか多かった回である。
空前の猫ブームだったのだろうか。
自分もよく詠んでしまうのだが、猫や月や雨を詠むとなんとなく句になってしまうものだ。
陳腐に堕すことがないように気をつけなくてはならない。
しかしそれらが私たちの生活に密接に関わり、心身に影響を与えていることは疑いがない。句材になりやすいのは自然なことだろう。
少なくとも私にとっては、月と猫はいつも救いとして在るように思う。



次回は、「鉄塊」を読む〔22〕。



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