2016-05-29

自由律俳句を読む 139 「鉄塊」を読む〔25〕 畠働猫

自由律俳句を読む 139
「鉄塊」を読む25

畠 働猫


今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十六回(20148月)から。

文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第二十六回(20148月)より

遠い花火を犬と聞いてる 小笠原玉虫
△なぜ「遠花火犬と聞く」ではないのか。詠み手にとって「遠い」「聞いてる」という状態を強調することが重要だったのだろう。だが、二つの状態を説明してしまったことで焦点がぼけてしまってはいないか。「花火が遠い(=無縁である)」ということが言いたいのか、「犬と聞いている(=犬しかいない、犬だけでいい)」ということが言いたいのか。(働猫)

きっと両方言いたかったのだろう。
最近の記事で触れた「無縁」について、当時の句評ですでに述べている。
「無縁」は自由律俳句における一つのテーマであるのと同時に私自身のテーマでもあるのだろう。
上記の評において私は、「無縁」と「孤独」が並列に表現されていることに違和を覚えていたようだ。当時は曖昧であったが、今改めて読み、理解できた。
「無縁」と「孤独」とは似ているようでいて、まるで別の概念である。
それぞれが独立すべき句材であり、どちらかに重点を置くべき課題であると私は考えていたようである。



歩をすすめる次々と蝉のたつ 小笠原玉虫
△おしっこかけられてそうですね。(働猫)

幻想的な景である。
「歩をすすめる」が最近の玉虫の句では見られない表現であり、無理に使っている感じがする。そこに窮屈さを覚える。



祖霊の夢をみた日盛 小笠原玉虫
△あれ、祖啓っぽい。(働猫)

祖啓イズムを玉虫がひそかに継承していた模様である。
さまざまな方向性を模索していた時期なのだろう。



かんな真っ赤に吹き出す三叉路 小笠原玉虫
△真っ赤な花を吹きだす血のように見ているのだろう。事故の多い道なのかもしれない。(働猫)

「三叉路」は非常に象徴的でよい句材と思う。
その不安定さは人を惑わすものであり、そこに咲く花に不吉な印象を持つのも自然である。



会いたくもない故人も来た迎え火 小笠原玉虫
△見える人なのだろうか。そういう漫画で死者の描写が一番怖いのは「死と彼女とぼく」(川口まどか)ですね。おすすめです。あ、「故人」と書いて「とも」と読むのか、ひょっとして。盆に嫌な奴も帰省してきやがった、ということなのか。(働猫)

これは完全に「見えてる人」の句であろう。
会いたい個人は見えないのに、会いたくない個人は見えてしまうというのはなんとも悲劇というか喜劇というか。
見えているのがその個人に伝わると面倒くさいので、見えないふりをしている。そうするとその個人の行動がだんだんエスカレートしていって……。
ドリフのコントでそんなのあったように思う。
そろそろ夏ですね。



トイレットペーパーの音が夜の音だ 十月水名
△昼間一人でいると聞くことのない音なのだろう。自分が使う音ではなく、夜に帰ってくる(或いは通ってくる)同居人のトイレの音。自分以外のだれかがトイレを使っている。ああ、夜なのか。と。(働猫)

これも夏の夜と思えば、ポルターガイスト現象ともとれる。
一人暮らしの部屋なのに、カラカラとペーパーホルダーを回す音がする。
生前お腹のゆるかった霊が今も個室にわだかまっているのだ。
宜保愛子の霊視によりそれがわかった。
夏ですね。



南極でも呪われる 十月水名
△泣きっ面に蜂みたいなことでしょうか。(働猫)

呪いとは、怨恨や憎しみ、嫉妬が有形無形の形になり対象に有害な影響を及ぼすシステムであるが、南極までそれが届くというのは尋常ではない。
いったい何をしたものか。



勝手に星座こしらえる姉妹 十月水名
△夜空を見上げて星を線で結んでいるのか。それとも星占いで勝手な星座を言っているのか。ギョウ座とかヤク座とかね。そういえばさ、へびつかい座ってどうなったのかしらん。(働猫)

かわいらしい景と言える。
へびつかい座、あったなあ。



相談して花を撃つ 十月水名
○たぶんそこが弱点だと。一人遊びが得意だった幼少期、見えない仲間と一緒に見えない敵と戦っていたことを思い出しました。(働猫)

花の部分が弱点ってなんだろう。シューティングゲームなどでありそうな設定だ。
私が生まれた町は林間の小さな町で、製材所には切り出した丸太と丸太の間にかませる細い棒状の木材がたくさん転がっていた。
当時ジャンプで連載されていた車田正美の『風魔の小次郎』に影響されていた私には、それらは伝説の木刀にしか見えなかった。
それらの中から1本選び取り、敵を求めて野山に駆け入っていたものである。
多くの花や樹木が犠牲になった。
ゆるせよ。すべては秩序(コスモ)のためであったのだ。



点滴中に聞くはちみつの話 十月水名
△また袁術か。(働猫)

一応皇帝になった人物なのだが、不遇である。



夕立の雨を蹴る夜が来る 馬場古戸暢
●これはわからない。夕立ならばすぐにやむだろう。夜まで降り続くことはあるまい。「夕立の雨」も「机上の上」や「頭痛が痛い」のような表現だ。「蹴る」「夜」「来る」の韻がよいのだから「雨を蹴る夜が来る」とすればよいのに、上記のような矛盾にはアレルギーが出る。かゆい。(働猫)

上記では逆選としているが、「夜が来る」は未来のこと、あるいは予感として読めば矛盾はない。
「夕立の雨」という二重表現は気になるが、「夕立を蹴る」「雨を蹴る」は秀逸な表現と思う。



子猫いなくなった家のチャイム鳴る 馬場古戸暢
△「いなくなった」をどう読むか。迷子であれば、このチャイムを良い知らせととれる。詠み人の位置は、貼り紙などで迷い猫を知り、この家に届けに来た者なのかもしれない。しかし子猫が死んだのだとしたら、悲しみに暮れる家人が客の応対にも出ない様子とも。この場合、「子猫いなくなった」という極めて個人的な事情を了解しているのであるから、詠み人はその家の者、あるいは非常に近しい者なのであろう。いずれにせよ、「子猫いなくなった」という表現には胸をざわつかせる力がある。(働猫)

良句と思う。
「子猫いなくなった家」という語により、不安感や不幸が形を持って迫ってくる。
実に巧みである。



人が燃えたと話す女と新宿におる 馬場古戸暢
△人体発火現象なのか、それとも火事か。あ、焼身自殺未遂ありましたね。そのときのことか。うちのマンションの向かいの雑居ビルがよくボヤを起こし消防車が来ます。(働猫)

2014629日、新宿駅南口で焼身自殺を図る事件があった。
集団的自衛権の行使や安倍政権への批判を自前の拡声器で述べたあとであったらしく、抗議の行動と見られている。



朝顔あかい子ら子ら 馬場古戸暢
○思い出すのは1学期が終わった日に理科で育てた朝顔の鉢を持ち帰らされた日のことだ。あれは小学3、4年生だったろうか。女子は賢いので前もって少しずつ物を持ち帰るのだが、小学生の男子に計画性なんてものはあるわけがないのだ。ランドセルには鍵盤ハーモニカと裁縫セットを突っ込み、両肩から丸めた図画工作で描いた絵や紙粘土で作った猫などが詰まった紙袋を下げ、そして両手に朝顔の伸び切った植木鉢を持って下校する。男子はみんな同じスタイルだ。終業式の日は午前授業だった。真昼の通学路。田舎だったから家までは2~3キロあった(体感)。みな顔を赤くしてふうふう言いながら帰った。苦行であった。もうこの句はそのときのことを詠んだものとしか思えなくなった。なつかしい。今調べてみたら、もう自分の通った小学校はなくなってしまったようだ。寂しいものである。(働猫)

よい句だ。
あの幸せだったころを思い出させてくれる句である。



頬張る頬はゼリー二個 馬場古戸暢
△のどにつまらなければよいが。(働猫)

こんにゃくゼリーによる窒息問題があった頃だ。
企業というものは本当に大変なものだなあと思ったものである。



さっきまで女性ひとりのオープンカフェ 風呂山洋三
△今はそうではないのだ。そのことでどう感じているのだろう。詠み人はどこにいるのだろう。客観的にどこかから見ているのか、それともこの女性その人なのか。客観的に見ているのだとすれば、「かっこつけてオープンカフェとか。客いねえじゃん」と思っているのだろうか。女性その人だとすれば、静かな時間を邪魔されたと感じているのか、それとも待ち人が来たのか。(働猫)

これも読みようによっては怪談的である。
この女性、果たして生身の人間であったかどうか。
夏である。



白いセダンの連れてきた真夏の夜のにおい 風呂山洋三
△後部座席が濡れているのですね。(働猫)

これも怪談的に読んだ。
顔色の悪い女を乗せたタクシーが、目的の青山墓地に着いたあとの景であろう。



うまいこと言う顔の赤い夜だ 風呂山洋三
△楽しい夜だったのでしょうね。なんとなく男ばっかりの飲み会という感じだ。異性がいて下心が出るとこうはいかない。(働猫)

男同士で飲む酒のうまさ。
食の好みと趣味、品性の程度、この辺りが一致していると本当に楽しく飲める。
なかなかいないものだが、私には何人か心当たりがあるので、幸福な男と言えるのかもしれない。



香水効きすぎているバス降ります降ります 風呂山洋三
○坂上二郎の(片岡鶴太郎の、と言うべきか)「飛びます飛びます」を思い出す。コミカルで切羽詰まった感じは共通か。きつい香水は本当につらいですよね。(働猫)

「降ります降ります」がおもしろい。
切迫した感じが非常に巧みに表現されている。



拾いに来ないボールのあって夏の昼 風呂山洋三
◎ぽつり、という音が聞こえそうなよい景だと思います。ただ、変なことも思い出しちゃったな。公園のベンチに座っている。そこにボールが転がってくる。でも子供たちは自分には近づきたくないらしく、拾いに来ようとせずに遠巻きに見守っている。田舎の小学生だったころ、そうやって避けるべき相手として認識していた人物が複数いた。「えぼっちゃん」と「体操じいさん」だ。今思えば、なんらかの障害を持った人とただの老人だったのだが。無知な子供であり、異質な存在は恐怖の対象だった。田舎特有の差別の強さで、大人たちも近づくなと教えていた。自分が無知であったことを振り返るのは本当に嫌なものだ。(働猫)

よい句である。
風呂山の句の中でも屈指ではないだろうか。
その暑さや乾いた空気まで感じられるようである。



*     *     *



以下五句がこの回の私の投句。
ふたり汚した雨強くなる 畠働猫
さわやかな夫婦で子が五人いる 畠働猫
下の名前で会いに来た 畠働猫
どの神に祈れど短夜曳光弾に引き裂かれ 畠働猫
ニッポンが滅びる花火観衆は無力に囀る 畠働猫

八月の句会であったため、「戦争」を意識した句を詠んでいたようである。

「自由とはよりよくなるための機会のことである」
カミュがそのように言ったらしい。
(残念ながら、まだ原典にあたることができていない。)
私は自由律俳句の自由とは、この意味であると考えている。
句がよりよくなるための機会、世界がよりよくなるための機会、それこそが「自由律俳句」という表現形式の求めたものではなかったか。

昨日、広島を訪問したオバマ大統領が歴史的なスピーチをした。
彼の言う「恐怖の論理」は核兵器のみを対象とするものではない。
この世界を覆い尽くす、ありとあらゆる兵器、武器について言えるものだ。
戦争は様々な機会を奪う。
それは、我々表現者の求める「自由」とは対極に位置するものである。
私たちはあらゆる手段を講じて、戦争を阻止し、その犠牲となる者を救わなくてはならない。
人の心に愛を。
芸術の価値はそこにしかない。



次回は、「鉄塊」を読む〔26〕。


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