2016-05-08

【週俳4月の俳句を読む】休日の午後に 瀬戸正洋

【週俳4月の俳句を読む】

休日の午後に

瀬戸正洋



美術館の喫茶室で珈琲を飲んでいた。隣の席にふたり連れのご婦人が座った。何気なく話を聞いていると、ひとりは、この個展の画家であることがわかった。主人が危篤のとき、「危篤のひとの顔をデッサンすることはないかも知れないと思い主人の顔をデッサンした」と話していた。相手のご婦人もあたりまえのようにそのことを聞き頷いていた。十数年も前のはなしなので画家の名前も顔も、すっかり忘れてしまった。もしかしたら著名な画家だったのかも知れない。危篤である夫の顔を、二度と出会うことはないと思いデッサンしたというはなしを、目の前で聞いたときの驚きを、今でもはっきりと覚えている。

NHKスペシャル天才絵師「若冲」の再放送を見た。若冲には、幸か不幸か知らないが、凡人には視ることのできないものが視えてしまうのだと思った。八十数歳で没したことも知り、絵を描くひとは長命であるとも思った。テレビのスイッチを切ったとき、夫の危篤の顔を懸命にデッサンしている画家の表情を思い浮かべた。

悪太郎わななく霧を寂として   九堂夜想
石哭くや贄にたちこめたる霧を          

わななく霧を寂としての「寂」が難しい。たとえば「盾」とすれば解るかも知れないと思っても、ひらたくなるばかりで「寂」ほどの深さはない。恐怖のあまりわなないている霧は「寂」として何を守ろうとするのか。石は哭く、神に供えた物に対し霧は不快感を示す。石は守ってくれると思っていた神にまで裏切られて哭くのである。石は死ななければならない。たちこめたる霧につつまれ涅槃に入らなければならないのである。

森へ消ゆ春雨浴びし学生ら   淺津大雅
挨拶に脱ぐ帽子より花の塵            

森とは聖なる場所なのである。春雨が森も学生たちも何もかもを濡らしている。いつまでたっても学生たちは戻って来ない。何故、戻って来ないのかと不安になる。帽子を取り一礼する。その帽子より一片のはなびらが落ちる。会釈したものも、会釈されたものも、お互いを見つめ合い微笑む。

うららかやきみに才能ある寝癖   工藤玲音

日がやわらかく降り注いでいる。濡縁、あるいは野原で寝転んでいるうちに眠ってしまったのかも知れない。寝癖を見て、このひとは才能があると思ったのではない。才能のあるひとの寝癖とはこのようなものなのかも知れないと感じたのである。うららかには、心にわだかまりがなく、おっとりしているさまという意味もある。

わたくしがわたし褒めつつ菜飯炊く   工藤玲音

自分を褒めるという表現をする場合、ほんのわずかな不安、あるいは自分自身に対し危機意識が宿っている場合が多い。だから、自分自身を褒めるのである。菜飯を炊く自分を褒め、それを食し、元気を出そうと思っているのである。

てのひらの鶯餅にある愛想   工藤玲音

てのひらには鶯餅にまぶしてあるうぐいすいろの粉がついている。鶯餅の愛想とは、この粉のことなのである。また、鶯餅を頂いたひとに対する愛想なのである。愛想とは、ひとによせる愛情、あるいは好意のことである。愛想笑いとは、ひとの機嫌を取るための笑いである。「笑い」と続くだけで意味は微妙に変化する。鶯餅のうぐいす色の粉が曲者なのである。

フォアボール続くマウンド白雨あと   益永涼子

投手が四球を続けて出した。「白雨」となり試合が中断したため投手の調子が狂ったのである。調子のいいときは中断を拒み、不調のときは現状における「白雨」を見つけ出さなければならない。人生には微妙なバランス、あるいは微妙な「運」により成り立つ。

もも色の岩塩を振る真砂女の忌   満田春日

もも色は、真砂女にとてもよく似合うと思う。その上、もも色の岩塩だと「卯波」にも繋がってくると思う。三十年ほど前、第三次「桃青会」の忘年会といえば、銀座「卯波」と決まっていた。櫻桃子も元気だった。真砂女も元気だった。奥の座敷で句会場をした。木村傘休、鈴木直充、本多遊方、橘昌則...、みんな元気だろうか。たまに会うこともいいのかとも思う。

悲しき日畑に菠薐草縮れ   満田春日
鳥曇積み上げらるる箱いくつ           
朝桜バターのすべるパンの上           

畑には取り残された菠薐草がある。縮れてしまっている。菠薐草は悲しみをこらえているのだ。もちろん、作者自身も何らかの事情があり悲しいのである。小鳥が群れ飛んでいる。その下では空箱がどんどん積み上げられている。そこは、商店街にある青果店なのかも知れない。ひとの騒めきも聞こえてくる。さくらを褒めながらひとりで朝食を取る。珈琲の香がたちこめている部屋。トーストにバターをぬろうとしたら熱すぎたのだろう、バターのかたまりがすべってしまった。

卒業や駅近づいてきて無言   引間智亮
菜箸のゆつくり冷えて卯月かな          

駅まで歩いている。こうして駅まで、もう歩くことはないと、ふたりは思っている。だから、無言なのである。女は、過去など気持ちよく捨て去り、男は思い出にすがって生きていく。卒業式も終えて新しい生活も始まる。卯月なのである。菜箸はゆっくりと冷めるのではなく冷えるのだという。悲しい男は、まだ、思い出にすがって生きている。

剥がすべき国旗のシール 現代鳥葬   髙田獄舎
現代鳥葬 到達できぬ惑星を滅ぼし        

鳥葬とは死体の処理方法のひとつではあるが一番見たくないものだ。法律にも抵触する。また、現代鳥葬とあるが日本では鳥葬の習慣はない。上記、二句の作品の前に、「管理の幸福」「過剰儀礼」「瞑想戒律」「正義が鋳造」「鋳造正義」「僧の貧困」「玩具を蝕む」「林檎が灰に化す寺院」「無を描写する余白を望み」のことば等が並び「現代鳥葬」の作品二句で終わる。鳥葬とは最も残酷なものだと思うことは間違いなのである。火葬、土葬、水葬、どの方法よりもひとの死に対し正しく受け止めることのできるものなのかも知れない。ひとが死ぬということは、その死体を葬るということは残酷でないはずがない。剥がすべき国旗のシールとは、どう考えても、私には「日の丸」しか浮かんでこない。また、到達できぬ惑星とは地球のことであると思われる。先に抜粋したことば等のすべてがここにかかってくる。作者は、鳥葬により処理されている自分自身を視つめている。

手をつなぐ桜のちるを止められず   兼城 雄

手をつなぐぐらいで彼女のこころは掴めない。彼女には、ホンモノの俳人になるという強い意志を示さなければならないのである。だが、どんなに愛し合っていても別れの日は必ず訪れる。だから、ホンモノの俳人でなければならないのである。桜が散ることを止めることはできる訳がない。そもそも、「止められず」と思うことが間違いなのである。

しやぼん玉たくさん消えて大人になる   兼城 雄

たくさんのしゃぼん玉は、あのひとのものなのである。たくさんのしゃぼん玉はわたしが拵えたものである。わたしは何もかも理解している。わたしにはしゃぼん玉をたくさん拵えることしかできないことを。しゃぼん玉は消え去ってしまうということを。そして、私は大人になるのだ。

飛行機のまつすぐ進む春のくれ   兼城 雄

まっすぐ進むことしかできないと思う。他人から見てたとえ曲がっているとしても、まっすぐに進んでいると思えばまっすぐに進んでいるのだ。わたしは飛行機となりまっすぐに進む。季節は春、時は夕刻、私は大人になることを切に願う。

満田さんの「朝桜」の作品を読んだら、無性にトーストが食べたくなった。数十年前、一年ほど暮した海辺の街へ出掛けてみた。喫茶店のマスターは三代目だ。トーストと珈琲を注文し店内に流れるジャズを聴いた。トーストは白い皿のうえにふたつに切ってのせられ、ウエイトレスは塩の壜をテーブルに置いた。懐かしい味というよりも、この喫茶店のトーストを食べたということに満足した。充実したひとときであった。帰り際、マスターは「いってらっしゃい」と私に声を掛けた。以前も、そう言われて送り出されたのかと思うが記憶にない。


第467号 2016年4月3日
髙田獄舎 現代鳥葬 10句 ≫読む
兼城 雄 大人になる 10句 ≫読む
第468号 2016年4月10日
満田春日 孵卵器 10句 ≫読む
引間智亮 卒 業 10句 ≫読む
第469号 2016年4月17日
工藤玲音 春のワープ 10句 ≫読む
益永涼子 福島から甲子園出場 10句 ≫読む
第470号 2016年4月24日
九堂夜想 キリヲ抄 10句 ≫読む
淺津大雅 休みの日 10句 ≫読む

0 comments: