2016-05-29

俳句の自然 子規への遡行51 橋本直

俳句の自然 子規への遡行51

橋本 直
初出『若竹』2015年5月号 (一部改変がある)

引き続き、俳句分類丙号の検討を進める。前回述べたように、丙号は季語やキーワードを軸にした甲号乙号とは分類の性質が異なり、八重襷の句にはじまり、文字以外の記号の入った句、カタカナ入りの句、回文俳句、一句中の同音の使用を種類、音数ごとに分類したもの、言葉のもじり、十八字から二十五字までの字余りの韻律の分析、名詞、動詞の重複、対・反復表現、隠題、比喩、擬人法、典拠、類句、二段切れ、句末が何で止めてあるかなどと、非常に多岐にわたる分類が行われている。これを総じて言えば、俳句における言語・文法の運用実態の分類の試みということができるだろうか。そして、甲号乙号が主に語(意味)の興味からのアプローチであるのに対して、丙号の冒頭は視覚(像)や聴覚(音)への興味からのアプローチと言えるのではないかとも思う。

分類冒頭の八重襷は前回触れたので略すが、以下それ以後の分類について述べる。まず「文字以外の元素を含む句」。これは活字なら新たに作らねば表記できない(つまりパソコンのソフトでは改めて造字するしかない)記号を用いた四句が並んでいる。例えば、類似の記号で代用できるものであげておくと、

  ≡≡(ケンノケ)や春をむかへてかさり炭  員明

俳句を絵解きの判じ物のように仕立てて読ませることはあるので、あるいはこれもそのようなものの一つかもしれないが、「ケンノケ」とルビの振ってあるこの記号の意味は未詳。「飾り炭」の見た目を視覚化したのかもしれない。

また、例えば「大うねり」を「大ウネリ」、「富士山は」を「ふしサンハ」という風に、片仮名が混ぜてある句を「片仮名入」で八句収集分類しているが、これもその視覚上の差異を意識した分類ではないかと思う。

次に回文の句についてである。いうまでもなく、回文は前後どちらから読んでも同じという意味での面白さのある言語遊戯の一つだが、子規はその回文の内容を細かく分けている。まず、「問ひぬらし花の其名はしらぬ人」(貞盛)、仮名に直せば「とひぬらしはなのそのなはしらぬひと」というように、上下完全に一致するものを一八句。「けさたんと飲めや菖の富田酒」(其角)のように、「たんと」と「富田(とんだ)」を同音扱いしているが正しくは清濁音で異なるもの(これをさらにその音数で一~三に分類)を四三句。「なきを霜死なは名はなし若翁」(鬼貫〈「貞徳五十年忌」と前書〉)の「を」と「翁」の「お」のように、「ム、ウ、ン」や「オ、ヲ」を同音とみなしているもの二九句。これは例えば「扇」が歴史的仮名遣いで「あふぎ」と表記し「オーギ」と発音するように、仮名遣いと音読の違いは習慣の中でもあるものだが、さらにそれとは違って、「永き日をもる花春も老木哉」(作者不知「毛吹草」)が、「日を(ヒヲ)」と「老(オイ)」を対応させているように、非日常的な運用で音が違うものを同音とみなしているもの七句。字余り(一八字)四句の、計八四句を収集分類している。これらは、明瞭に、回文の意味の面白さではなく、句中の音の使い方の差異を意識して分類したものとみることができるだろう。

さらに、ここでの子規の音へのこだわりが感じられるのは、続く分類が「同音連起」というおそらく子規独自の用語と思われる表現を軸に使って、一句中の同音の使用を種類、音数ごとに分類していることでもはっきりしている。「同音連起」とは、一句中に同じ音があるものを指していて、子規は三音から八音に渡って収集分類をしている。いくつか例をあげると、「あすもこん頃は花野の小鷹狩」(宗祇)は三音一種(こ)、「うばそくがうばひて折るやうば櫻」(日如)は三音二種(う、ば)、「寝て起て又寝て見ても秋のくれ」(嵐雪)は四音一種(て)という具合である。そして音数が同じになるということと回文は当然連関する故、この「同音連起」の同音数が増えればほぼすべて回文となってくるのであるが、回文ではないものに、「けふ賣は七草薺よなあぞなそ」(正暁)の六音一種(な)、「ながくたゞ菜づな七つ菜叩く哉」(重長)の七音一種(な)などがある。

これらを見ていると、まず回文ありきの句は、もとより竪句としての完成を目指してはいないであろうし、ゆえに句の詩的完成度は低いが、いくつも音を重ねることによってうまれる表現については、その音の面白さを確認できるように思う。それは幼子の言葉遊びのような素朴な面白さの再確認でもあるだろうが、子規はそこから何かを得ようとしていたと思われる。例えば、子規は「同音連起」の後に「音調(発音ノ変化調合)」として、芭蕉の一句のみを別に分けている。

  鬼灯はみもはもからも紅葉哉  はせを

そして、句の前に「はもみも(Ha mo mi mo)」と記している。子規がなぜこの四音のみをメモ書きしたのかは今のところ明確には分からないが、元の上五の末「は」につく中七を「実も葉も殻も」から「葉も実も殻も」に変えたとき、「は葉(wa ha)」、「も実も(mo mi mo)」のような同字異音の変化や子音「m」の連続感が得られることから、面白さや、反対に語呂の不都合を看取していたのかもしれない。従前の「同音連起」の理屈で言えば、この句も一句中に「も」が四音あるわけで、おそらくはそこに分類しようとした時に何かを感じ、別にこの句だけの一項を立てたと思われる。

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