2016-05-01

ふてぶてしい季語 吉田竜宇

ふてぶてしい季語

吉田竜宇


季語とはなにか。おれは俳人だぞというにんげんならもちろん一家言あるところだが、乱暴に括ったもののなかのひとつとして、季語により季感をあらわすというものがある。つまり季語とは、俳句を前にしたときの俳人ならではの了解として、ある共通の感覚を呼び起こすものであり、その共感を土台として、そこに込められた思いだとか、情景だとかを読み解くというのである。伝統的な情緒であれ、現代的な風物であれ、梅ならこんな、桜ならあんなと、裏切られることのないものを前提にして、それをどう丸めこむか、あるいはひっくりかえすか、それは俳句の楽しみのひとつである。

もちろん問題がないこともなく、技術的な枝葉末節にとらわれがちになったり、いわゆる季題趣味に陥って、本質論を語る機会を失ったりすることもありうる。また、同時代的な感覚を過去にまで拡大し、俳句は日本人の歴史だ伝統だというような色を帯びた論調にもなるが、これにはいろいろな注意を要する。旧暦からの移行に伴うごたごたや、「~忌」などに代表されるような人工的な季語の問題もあるが、それはそれとして、季語すなわち季感との理解は、実際わかりやすく、俳句のなかでなにが描かれたか、あるいは描かれようとしたか、巧拙は別として、大筋の理解が外れることはあまりない。例えば句会などの場においては、議論をさばきやすく、また、有季無季の議論においても、別になくてもいいけれどあったほうがわかり良いよと、上からの折衷案でお茶を濁すこともできる。

わたくしも、文句があるわけではない。しかしこれは、季語を仲介とした、俳人同士での約束であろう。俳人であるただひとりが、ただひとつの俳句、つまりその定型とどうやりとりをするか、というところで、また別の約束があるはずである。

朝顔や百たび訪はば母死なむ  永田耕衣

二つづつ乳房牡丹を通り抜け  宇佐美魚目

かあさんはぼくのぬけがらななかまど  佐藤成之

近い無限がまた遠くなり蛞蝓  竹中宏

これらの季語は、共感や理解とは程遠いところにありながら、身をひるがえして驚異を見せつけるでもなく、句のなかにふてぶてしい顔をさらしている。

たとえ優れた柔道家であっても、道着をつけない相手には、襟首も袖もつかめず、技をかけることができない。そして俳句定型は、俳人に向かって、かまえも見せず、まはだかで佇んでいる。季語とは、そこに着せる道着であり、あるいはいっそ、攫んでひきずり回す鼻づらである。取組はあざやかに仕組まれる。わしづかみにしていたはずが、気づけばつかまれて、その軌跡を目にしたわたくしたちもまた、もろともにひきずり回される。

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