2016-05-29

【真説温泉あんま芸者】 書かれていること・書かれていないこと、ついでに作中主体のことなど 西原天気

【真説温泉あんま芸者】 
書かれていること・書かれていないこと、ついでに作中主体のことなど

西原天気



俳句は、書いてあることだけが、そこにあるのであって、書いていないことは、そこにない。それが俳句の潔さであると、私などは信じているわけです。

(たとえば象徴作用〔*1〕を用いたと思しき句に私がピンと来ないのは上記のような信条によるものでもありましょう〔*2〕

もちろん、《書いてあること》は、読み手に連想や別のイメージ(像)を喚起したりもする。けれども、それは、《書いてあること》という現前ののちに来るものであって、ひとまず、句は、「書いてあるとおり」でしかない。just as it is。

ただし、別の事情も絡んできます。「そこにあるとおり」とはいえ、テクストは孤独に立ち尽くすわけではなくて、コンテクストは否が応にも存在する。この場合のコンテクストとは、広範に、「それが俳句である」、あるいはさらに「五七五定型である」という前提のようなものと単純に解していただいてかまいません。

また、作者に関する情報等、いわゆるパラテクストを伴ったりもします。

さて、本題。

川柳が俳句とどう違うかはさておき、こんな句と解釈が、樋口由紀子さん「金曜日の川柳」にありました。

時々は埋めた男を掘り出して  井出節

記事はこちら↓
http://hw02.blogspot.jp/2016/05/blog-post_20.html

「埋めた男」とは殺して埋めた男という、物騒な話ではないだろう。自分の分身だろう。自分でも手に負えなくなって葬ったのだ。(樋口由紀子)
この解釈を読んで、《書かれていないことは、そこにない主義》の私が、「そんなことは書かれていない」と反駁するかといえば、そうではなくて、なるほど、そう読めば、腑に落ちる感じもします。

「埋めた私」と明示するばかりが手ではない。いったん埋めた以上、私とは別の私なのだから、それを「男」と呼ぶ、突き放して「男」と呼ぶのは、妥当なことでしょう。

ところが、そこで、ひとつの問いが私の中で持ち上がりました。

この作者(あるいは作中主体〔*3〕)、男性なのか?

樋口由紀子さんにとって「井出節=男性」は自明。ところが、「節」という名、男女の区別がちょっと判然としない(「節」は男性が多いのか? 長塚節とか長沢節とか。でも、男と断定はできない)。

そして、この句、女性が書いた句として読むと、ずいぶんと「解釈」が変わってきます。

「なにもわざわざ女性が、と読むことはない。現実に作者は男性なのだから」というのはよくわかる。けれども、男女の区別をつけずに(つかずに)読むこともある。それに、この場合の「現実に」という部分、それほど盤石な現実ではありません(文芸一般に、そう)。

それでは、埋めた行為者を男性とも女性とも限定せずに読めばいいか。すると、樋口さんの言う「私」という読みはおそらく崩れるし、女が男を埋めたという三面記事的な筋立てもなくなる。だが、待て。この句で埋めたり掘り起こしたりする人、その性別にまるで頓着しないことなど、はたしてできるのか。

川柳や俳句の作者に関する情報、それにまつわる《読み》の揺れや軋みは、読み手の側に頻繁に起こるカジュアルな事柄なのだけれど、これ、いっけん単純そうでいて、否、単純だからこそ、かなり微妙な問題かもしれません。



結局、私は、最初に言った「書かれていることだけが、そこにある」に立ち返ることにしました。

この句にあるのは、この句から見えるのは、埋められたのち掘り返されたりもする男、そしてスコップだけ。

作中主体は、スコップ。

(こんなの、アリか?)(アリです)

スコップには性別はありませんから、男女の区別からくる《読み》の問題は解消されます。

で、ここが肝心なのですが、行為者(人間・作者)が消え、銀色に光りところどころ土のついたスコップと男だけになっても、感興がなくならない。じゅうぶんにおもしろい。

ほんま忙しいこっちゃで。埋められたり掘り出されたり。


〔*1〕この場合の象徴作用とは、句のなかの語句がなにかの象徴であることで成り立っていること。象徴作用は、しばしば《読み》において幅を利かせる。特定の語を脊髄反射的に、オートマチックに象徴として読み取る《読み》は少なからず存在する。極端にいえば、長いものをすべてファリックシンボルと読んでしまうような。

〔*2〕私の好みにすぎない。象徴や隠喩を呼び寄せる句(ほのめかしや寓話的表現もそれに含まれる)は、まどろっこしい。その手のまどろっこしさが、私を、俳句的愉楽から遠ざける。追伸。まどろっこしくない句=わかりやすい句、ということではありません。

〔*3〕ああ、いちいち「作中主体」などと付言しなければならないとは、ほんと、めんどうなことです。





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