2016-05-15

俳句の世界遺産登録に向けた動きについて 吉田竜宇

俳句の世界遺産登録に向けた動きについて
吉田竜宇


先年、「和食」がユネスコに世界遺産登録されたとの報は(正確には無形文化遺産登録)、わたくしたちを、それなりに誇らしいと思わせ、道々ではおめでたいことだとうなずきあって、少なくとも嫌な気はしなかった。しかし、その頃より、俳句の遺産登録をめざす動きがあると、ウェブでの記事のいくつかを目にし、わたくしは、和食の登録に際してはまるでなかった、ある反発を感じるようになった。

ひとことでいえば、それは、はずかしい、という思いである。

他人がおそらくは善意でやっていることに、利害の絡みもなく単なる好ききらいで横槍をはさむような真似はしたくない。しかしわたくしも、自分のことを俳人のはしくれだと思っているので、その立場から、少なくともみながこれを喜んでいるわけではない、ということを記しておきたい。

俳句の遺産登録について、わたくしは詳しく知る立場にないが、去年の記事によると、具体的な働きかけはかなり進んでいるようである。

「国際俳句交流協会」前EU大統領と連携 俳句を世界文化遺産に
http://mainichi.jp/articles/20150815/ddm/014/040/009000c
旗振りを有馬朗人氏がつとめ、その主宰する結社「天為」が、俳都たるを誇る松山市、主要な俳句団体、外務省や、海外の要人などとも交流しながら、国際親善や文化発信を目的として、俳句の遺産登録を推進している、ということである。有馬氏は立志伝中の人物として名高く、記事を読む限りでは、周りの応援も盛んで、現実味はかなりあるらしい。
 上の記事は去年の八月のものだが、その後「小熊座」に、有馬氏の長文インタビューが載り、そのなかでも、俳句の遺産登録に関しては、多くの行が割かれた。前後編であり、前編はウェブに転載されたものが閲覧できる。

栗林浩のブログ 俳人・有馬朗人さんに聞く(前編)
http://ht-kuri.at.webry.info/201601/article_4.html
――そろそろ俳句の世界遺産化についてお伺いします。日本の俳人たちはみな期待しているのですが、如何ですか、登録までのマイルストーンは?
有馬 いやあ、時間がかかりますよ。十年くらいはかかりそうです。文科省が窓口ですが、申請が二百五十件ほどもあるそうです。年に五から十件くらい登録されるとしても、相当かかります。幸い、私が総長だった時の広報の担当教授だった方、青柳(正規氏、東大名誉教授)さんといいますが、イタリア考古学・美術史に造詣の深い方で、いま文化庁の長官です。いろいろ相談に乗ってくれています。俳句については理解をして頂いていますが、短歌をどうするかを考えねばならない。俳句の世界は大体前向きで、かなり纏まっています。短歌の方々のご意見をどう集約できるかですね。
(中略)
――ベルギーやスエーデンなど、海外の俳句愛好家の応援も得られそうですね。
有馬 そう。先週、国際俳句協会の講演で、EUの初代大統領であられたファン・ロンパイさんが話してくれました。去年、ベルギーでお会いした時から「ぜひ遺産にしたら」と応援してくれています。それから、スエーデンの大使だったラーシュ・ヴアリエさん、この方も賛成してくれています。むしろ、アメリカやスエーデン、ベルギー、オランダなどヨーロッパが強く賛成してくれているんです。
――国内体制は国際俳句協会が中心ですか?
有馬 むしろ俳人協会が積極的です。現代俳句協会も賛成ですね。伝統俳句協会にも協力をお願いしています。登録まで十年というのは長いように聞こえますが、言い始めてからもう三年経っています。

俳人協会は、有馬氏が顧問を務めているので、当然といえばその通りであろう。

現代俳句協会の賛成に関しては、協会に問い合わせたところ、「有馬氏の呼びかけに対して、芭蕉の生誕地である伊賀上野市が呼応する形で、ユネスコの無形文化遺産登録に向けての動きがあることは承知している」「関係者から具体的なスケジュール案及び基本方針に関して詳しいものが示されているわけではない」「協会として、総論としては理解しているが、具体的なアクションや正式な機関決定には至っていない」との回答をいただいた。

伝統俳句協会への協力の依頼というのが、どういったかたちで行われているのか、問い合わせたものの、本日まで回答をいただけなかった。


さて、わたくしが、俳句の遺産登録に反発を覚えるのは、すでに述べたとおり、あるはずかしさに由来し、登録を進める方々の掲げる、国際交流・国際親善や、それを通じて各地文化の相互理解を推進させ、もって世界平和に寄するとの祈念に、反対があるわけではない。高邁な運動であり、おおいにやっていただきたい、大切な仕事と思う。前年の和食や、これまでに行われた世界各地のさまざまな詩歌詠唱の登録についても同様で、それらは、かかる運動によって知名度が上がり、経済的あるいは文化的な恩恵をえたであろうし、よろこばしい限りであるというしかない。仮にまったくなんらの恩恵がなかったとしても、やはりそれらは、祝うべき慶事であろう。

では、わたくしが、俳句の遺産登録をはずかしいと思うのは、利害でも理屈ではなく、やはり感情の問題である。たとえばであるが、俳句のいわゆる歴史なり伝統なりの正統性は、そもそも疑われてしかるべきであるというような理屈を、ひねることも不可能ではないが、それはやはり、二の次なのだ。

そのはずかしさがなにに由来するのかと言えば、まずは、俳句とは遺産であり、つまり本質的には過去に属するものであるとして、公的に刻印されることを、わたくしたち俳人が喜々として受け入れているものと、思っていただきたくないということがある。

そもそも俳句の遺産登録にかかわらず、これまでにおいても、ひと前で俳人と名乗るとき、あるいは、名乗らなくともそのつもりでいるとき、それはどうも結構なご趣味ですねと、おだてられ、気をつかわれ、あるいは馬鹿にされ、つまりは、たいして興味のない他人の趣味嗜好への適当なあしらいを受けるということであるが、それに対して喜んでいるふりをしなくてはならないとき、わたくしはどうしようもなく、はずかしい。これはもちろん、世間で少数派に属する趣味の持ち主であれば、だれでも思い当たる節のあることと思われる。しかしわたくしは、俳句以外にのめりこむものがないわけではないが、それにしても「シベリア抑留の体験記に目がない」「かつての広島の百貨店開発で出土した化石を集めている」「空いている土地にはイチジクか山桃を植えずにはいられない」など、いささかの役にも立ちそうにないが、わりあい堂々と語ることができる。なぜかといえば、誰にでもちょっと変わった癖はあり、その世間的な無意味も、個人的な意義も、言ってみれば好みの問題として、互いに距離を取り合えるであろうからだ。もちろん自分以外にも、専門家やマニアなど、つまりはそれにすべてをかけて、人生のしあわせはそこにしかないと信じて疑わないひとたちがいることもまた、なにひとつなし得ないわたくしたちの慰めのひとつである。

俳句はそうではない。わたくしたち俳人にとって、俳句とはただ手慰みに、公認された価値を再生産することではない。また誰かに任せられることでもない。俳句によって、わたくしたちは、どこか深いところへといたる。常にとは言わない。これまでできたためしもない。古今の名人には敵わない。しかし、できるのだ。これまで誰ものぞき得なかったくらやみ、そのいわくいいがたい手触りを、得たりと気づいた時にはすでに儚い胸騒ぎが残るのみだとしても、それはわたくしたちみずからが行うしかない。

なるほど。われながら立派なこころがけで、ならばそれを堂々と誇ってはいけない道理もない。ではなぜ俳句の遺産登録を受け入れられないのか。俳句は遺産で、古臭い趣味だと、世間には思わせておいて、自分ひとりはまだ見ぬ少数の理解者に向けて、詩歌の精髄を極めんと邁進すればよいではないか。いやはや、しかし。

ここまで槍玉に挙げておいてなんだが、遺産登録云々にかかわらず、そもそも俳句そのものがはずかしいのであり、俳人であることがはずかしいのだ。いやそうではない、俳句は結構だし俳人であることは立派だと、そこになんらの屈託もないにんげんを、善人だとこそ思うが、信用することはできない。なぜなら俳句とは、その形式においてはじめから不自由なものなのだ。その不自由をこそよろこんで、いやこれは逆説的には自由な天地を得ているのだと、それはいいわけでしかない。まずしさをゆたかさと誇って、それは厚化粧の一人芝居か、さもなくは錯覚である。そこに、世界遺産の、文化登録のと、深々と彫り付けてしまっては、うしろめたくて仕方がない。俳句定型について回る、どうあっても言い繕うことのできないまずしさを、どこで担保すればよいのか。言い換えれば、恥を知るにはどう振る舞えばよいのだろうか。わたくしたちは、手足を縛られ、檻に入れられる。道化を見てやろうと幕が上がる。張り詰めた糸を渡り、荷物を詰めて転がり、そのあやうい芸で見るものを青ざめさせる以外に、なんの見栄があるというのか。

なお、俳句が登録されようとしているのは、正確には「無形文化遺産」であり、和食に関してもそれは同じだが、引用した記事などでも誤用が多くみられ、また世間でも世界との語を冠して受け止めることが少なくないので、いささか迷いながらも、本文中では「俳句の遺産登録」とお茶を濁した。ご寛恕いただければさいわいである。

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